みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#432 神の法第三戒

2019年10月17日 | 神の法
第3戒
宣誓と権威
 
p122~
The Oath and Authority
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

このような攻撃を行う者は、良心を口実にする。

啓蒙主義の時代以来、とくに、ロマン主義が台頭してから、「良心は自律的で絶対的な権威をもつ」と言われてきた。

合衆国において、Thoreauという名は、ロマン主義的アナキズムの一例としてわれわれの頭に真っ先に浮んでくる。

良心は、善悪を正しく区別する責任を意味する。

良心は、人間が被造物であり、服従者であるということを示している。

良心は、権威の下にあるものであり、けっして神になるべきではない。

善悪を超越して生きることを目指すヒューマニズムの願望は、実際には、責任と良心を超越して生きることを願う。

良心の仮面をつけた攻撃が、良心と権威に加えられている。

無政府主義革命家は、良心を口実に自らの行為を正当化する。

それは、まったくの嘘、ごまかしに過ぎない。

近代の哲学や思潮において、良心とは、法として君臨する己の願望を表わす用語に過ぎない。

ジェームス・ジョイスは、『ひとりの若者としての芸術家の肖像画』の中で、ステフェン・デダルスに次のように言わせている。

ようこそ、人生よ!
私は、百万回目に経験というリアリティと出会い、私の魂の内側にある鍛冶場の中で
人類(my race)の、創造の産物ではない良心(uncreated conscience)を造り始めよう。 

フロイトの影響を受けた人々にとって、良心とか超自我とは、たんに、外面的権威、両親、宗教、国家、学校が内面化したものに過ぎない。

超自我とは、両親や他の権威の継承者であり、代表。

フロイトにとって、超自我とは、イド(快楽の原理、生きる意思)の敵であり、それゆえ、それは破壊されるべきもの。

イドと自我は、避けることができない。

しかし、超自我は社会の直接的産物であり、人間に対して支配力を持つにもかかわらず、人間は、その支配力の只中において、それを破壊することができる。

フロイトの良心観には、様々なバリエーションがある。

それらはどれも、現代人が抱いている良心観と同じもの。

近代思想において、良心が名声を獲得することはなく、むしろ批判の的とされている。

唯一批判を受けない場合があるとすれば、それは、良心が法に対抗して訴える場合。

自律的人間の良心は、真の意味での良心や権威、あるいは抑圧や専制の象徴に対抗する愚かな抵抗手段の一つにすぎない。