再度これまでの段階を確認して、恐らく多くのキリスト者が経験していると思われることを記述してみたい。
キリスト者の多くは確かに救われてはいるが、いまだ罪に縛られている。
四六時中罪の力の下で生きていると言っているのではない。
しかし、実際、主のことばを聞き続けなければならないほどに、邪魔をしてくる罪がある。
主イエスが死んだのは、我々の罪を清めるためだけではない。
それに加えて、我々罪人をその死の中に包括するために死んだ。
我々の罪が処理されるだけでなく、我々自身も処理されるために。
目が開けられ、キリストとともに十字架に付けられたことを知る。
この啓示に次の2つのことが続く。
第1に、私はキリストとともに死んで復活したということを悟る。
第2に、主の主張を理解して、死者からのよみがえりとして神に身を献げる。
そして、自分にはもはや主権がないことを知る。
これが素敵な信仰生活の初めであり、主に対する賛美の充満の初めである。
キリスト者の多くは確かに救われてはいるが、いまだ罪に縛られている。
四六時中罪の力の下で生きていると言っているのではない。
しかし、実際、主のことばを聞き続けなければならないほどに、邪魔をしてくる罪がある。
主イエスが死んだのは、我々の罪を清めるためだけではない。
それに加えて、我々罪人をその死の中に包括するために死んだ。
我々の罪が処理されるだけでなく、我々自身も処理されるために。
目が開けられ、キリストとともに十字架に付けられたことを知る。
この啓示に次の2つのことが続く。
第1に、私はキリストとともに死んで復活したということを悟る。
第2に、主の主張を理解して、死者からのよみがえりとして神に身を献げる。
そして、自分にはもはや主権がないことを知る。
これが素敵な信仰生活の初めであり、主に対する賛美の充満の初めである。