みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

A Gate And A Path, #2

2016年04月03日 | 聖書研究・信仰
このような経験はすべての人で同一ではない。

聖霊の働きについて、決まり切ったパターンがあると決めつけてはならない。

恐らく、何らかの新しい経験が多かれ少なかれあるはずだ。

キリストに関する新事実と主の完成された御業に対して、我々の眼は必ず開かれる。

そして、信仰が狭き道の門を開いてくれるであろう。

憶えているだろうか。

さまざまな事柄について、キリストの経験が我々のものとなるということを。

義認、新生、聖霊の賜物、罪からの解放、聖化など我々にはすでに明白なことばかりだ。

これらの事柄が、ある一定の決められた順序で次々に起こるということではない。

実際、キリストご自身と十字架を目の当たりにすれば、信仰生活初日から大いなる経験となるであろう。

そのことの十分な説明はのちになるのだが。

あらゆる福音宣教がそのようであれば良いと思う。

ただ一つ確かなことがある。

啓示は信仰に先んずるということ。

キリストにあって神が成したことを見る時、我々の自然な反応はこうだ。

「主よ、感謝します」

そして、自然な形で信仰がそれに続く。

啓示は、常に聖霊の御業だ。

聖霊はともに歩む者のために与えられる。

そして、みことばを通して、我々を真理の中へと導いてくれる(ヨハネ16:13)。

御霊に依り頼め。

なぜなら、御霊はまさにそのことのためにここにいる。

理解力の欠如や信仰の欠落といった困難が眼前に立ちはだかる時は、主に直接直訴せよ。

「主よ、私の眼を開いて下さい」

「主よ、この見たこともないことを教えて下さい」

「主よ、私の不信仰を取り払ってください」

主が我々を見捨てることは絶対にない。



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