☞ Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)
10分から20分28秒まで。
◇◇
知っておいて欲しいことがあります。
当時何か恐るべきものがあったとすれば、それはローマ軍でした。
それは、彼らが十分訓練された軍隊であっただけでなく、悪辣だったからです。
彼らは野蛮で、人を殺害することに喜びを感じていました。
もしもあなたがたがカエサルの時代に、パレスチナにいるユダヤ人だったとすれば、確実に恐れなければならないのは、ローマ軍の兵士であり軍隊でした。
卑劣、残虐、殺人鬼、袋叩き、強姦、虐待。
イエスは言いました、「彼らを恐れるな。彼らは体しか殺せない。」
こうも言いました、「誰を恐れるべきか教えましょう。御父です。」
神はあなたの体を殺すことができるだけでなく、最終的に、あなたを地獄に投げ入れることができます。
その日、死ぬ日のことを理解していますか。
あなたの体を殺すのは神です。
あなたが地獄に入れられる時、そこにあなたを投げ入れるのは神です。
今日この世の人々は、実際に神の裁きがあることを知りません。
あなたがたは違うと信じたい。
死は自然的だと思いますか。
死は自然的ではありません。
生まれも死亡も自然現象と人々は言います。
違います。
誕生は自然ですが、死は違います。
死は超自然現象です。
それは、生ける神の裁きです。
では、神の怒りがこの地上に現れていると思いますか。
日々、神の怒りはこの地上において現れ、何千万もの人々が死んで、地獄に投げ込まれているのです。
あなたがたの中に、それに加えられる人たちがいます。
警戒して下さい。
耳に痛いことばですが、真実です。
いわゆる教会は、多くの改心していない人たちで溢れています。
特に、若い人たち、私の子どもたちもそうではないかと恐れています。
クリスチャンファミリーの中で育つということは大変危険なことです。
完成された両親ではなくて、神を追い求める敬虔な両親とともに育った子供たち。
この世においてあまり華々しくはない教会に行くことは危険です。
神を知るために育てたいという正当な理由からとはいえ、ホームスクーリングは恐ろしいことです。
全てを献げた後、そこから離れることは恐ろしい。
それが主の御心であることを願うばかりです。
私の大いなる希望です、あなたがたの多くが今日恐れを抱いていると切に思いたい。
あなたがたがおののいていることを切に願う。
自分の状況に恐怖を抱いていることを希望します。
あなたがたが目覚めることを。
起きるか、寝ているか。
あなたがたはひどい状態にあります。
ヨハネ15章3節から。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
Joh 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
これまで、イエスが真のぶどうの木であることを学んできました。
イエスから離れて、真の霊的命はありません。
外には多くの泉があります。
しかし、それらすべては偽の水槽であり、壊れた水槽であると神は指摘します。
それらは命を生む泉ではありません。
キリストのみです。
すべての霊的命は彼から流れます。
もうひとつ考慮すべきことは御父がぶどう園の農夫であるということ。
あなたが本当に改心しているかどうかの最大の証拠は、あなたの生き方において、神による神命を惜しげもなく、首尾一貫して実現しているかどうかです。
正直に言いますが、ある意味で、私は囚人のような気持ちでいます。
神を、私の御父として、私は知っています。
神は私を閉じ込めています。
私はある事々を行なうであろうことは分かっていますが、それから逃げようとは思わない。
神は絶えず私を守って下さり、見守って下さり、神命の業を行ない、私の人生に試練をもたらし、私の人生に弟子訓練をもたらし、教え、指導し、働きかけて下さいます。
大いなる忍耐と愛をもって、しかし極めて強固な御手をもって、神はそうして下さいます。
犬のように野山を走り回ることはできません。
神が私の後に付いてきているのが分かります。
あなたはこの世を元気に走り回ることのできる人でしょうか。
十分に配慮することなくこの世を歩んではいないでしょうか。
ノンクリスチャンがしていることができますか。
ノンクリスチャンの楽しみを楽しむことができますか。
ノンクリスチャンが歩むように歩むことができますか。
ノンクリスチャンの遊興に加わることができますか。
日曜日の朝、宗教の仮面をつけることができますか。
そのようなことができますか。
これが、御父はあなたのぶどう園農夫ではないということの証拠です。
神はあなたの御父ではない。
弟子訓練を避けて、この世の暗やみの御業に参加するなら、あなたは不法の子であり、兄弟姉妹ではないという証拠であります。
若い女性は聞いて下さい。
あなたがたも地獄に行きます。
さて、御父はぶどう園の農夫であるということを学びました。
そして、3節で、イエスは、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」と言いました。
この聖句の意味はこうです。
私たちの人生における神の働きにはある要素がある、御子の働きがあるということ。
神の教えを通して、聖書の研究を通して、学び、暗記、主の教えの適応を通して、私たちは清められ、実を結ぶ器となる。
健康的な身を結ぶことのできる清い枝となる。
もちろん、御父も働いておられます。
私たちはキリストの教えを吸収し、御父が私たちの命の中で統括してきた経験を通して、私たちはそれらを生活に適応します。
これが試練や弟子訓練です。
加えて、私たちには三位一体の第3のお方がおられます。
このお方は、これらすべてのことにおいて常に働いておられます。
枝という比ゆ表現は大変重要です。
何故か。
何故なら、枝はぶどうの木に繋がれていなければならないからです。
命を育むぶどうの木の樹液が、枝へと流れ込んでいくように。
命を育むぶどうの木の樹液とは聖霊です。
「キリストが私の中に宿っている」ということ。
同様に、御父も私の中に宿っている。
その一方、御父は天におられ、キリストは神の右に座しておられる。
御父と御子が私たちの中に宿っているとはどういうことか。
聖霊の働きを通してであります。
事実、この地上におけるあらゆる神の業は、生ける神の霊によって成し遂げられています。
そういうことで、私たちは三位一体の神を有しているのです。
御子はあなたに教えます。
御父はその教えを適応します。
聖霊はあなたを力づけます。
一例を挙げましょう。
ガラテア書5章は、クリスチャンライフとは格闘であり、常に格闘となるであろうと証ししています。
宗教改革には問題がいくつかあります。
改革派神学の問題ではなく、現代の改革派信者に関する問題。
自分たちをを打ち負かしている罪の事実を彼らは自慢しているように思えるのです。
自分たちが超自然的存在であり、聖の重要性を理解していると思い込んでいるようです。
「私は何て惨めな人間なんだろう、そして罪人だ」と彼らは言います。
このことばにはおかしなところがあります。
もしも真のクリスチャンなら、あなたにはキリストの教えがあり、御父の神命があり、あなたの命の中で働く神の霊があります。
嗚呼、わが友よ。
あなたには罪を超えている勝利があるはずです。
もちろん、私たちは罪と格闘します。
3歩前進しては4歩後退することもあるでしょう。
これは激闘です。
しかし、もしも人生の過程を終えたところで罪に対する勝利が見えてこないとすれば、それは、あなたは神を知らない、神はあなたを知らないということの良い指標です。
主のことばを思い起こして下さい。
「私はあなたのすべての不義と偶像からあなたを洗い流そう。」
エゼキエル36:25-26
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
Eze 36:25 Then will I sprinkle clean water upon you, and ye shall be clean: from all your filthiness, and from all your idols, will I cleanse you.
もしも私自身のクリスチャンライフを説明するならば、そして、もしも過去30年間の私自身のクリスチャンライフを回想するならば、他のどんな聖句よりも、この聖句がまさにぴったり当てはまります。