☞ Be Holy as I Am Holy: Fear and Trembling with R.C. Sproul
7分21秒から11分36秒まで。
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お分かりと思うが、恐れおののいて、私はゴルフを練習してきました。
それは救いのためではありませんでした。
私たちは、「義なんて大した問題ではない」と考えがちであります。
イエスは弟子たちに次のように言いました。
「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければ、あなたがたは神の国に入ることはできない。」
これを読んで、こう言うかもしれない。
「イエスを殺したのは、彼ら律法学者とパリサイ人だ。彼らはまさに偽善者。義において、私たちが律法学者パリサイ人にまさるのは大変なことではない」と。
しかし、覚えているだろうか。
パリサイ人は、神の法を遵守するのを生業としていました。
そして、イエスは彼らについて何と言っていたでしょうか。
「聖書によりあなたがたは永遠の命を得ることができると思って、あなたがたは聖書を調べている。」
しかし、彼らは偽善者。
偽善者でありながら、彼らは聖書を調べていました。
神のことばの研究において、彼らは大変勤勉でした。
イエスは次のように言います。
「忌まわしいものよ、律法学者とパリサイ人。偽善者たち。10一献金はするが、より重要な律法事項、義と慈悲を無視する者たち。」
近年の世論調査で、アメリカの福音派クリスチャンと考えられる人たち、すなわち神の霊によって生まれた人たちの中の4%は10一献金をしたということが示されています。
すなわち、96%のクリスチャンは、組織的かつ定期的に神のものを盗んでいるのです。
パリサイ人は神のものを盗もうとは考えてはいませんでした。
彼らは10一献金をすることに関しては大変厳正でした。
彼らから起きた結果などから(実態を)知ることができます。
有り余る中の一部が増えた場合に、神の業に対して彼らは10分の一を献げたのでしょう。
通りで1円玉を見つけて、それをポケットに入れたことも覚えていません。
しかしながら、次の日曜日に集金袋にその拾った1円玉を入れるのではないでしょうか。
パリサイ人の几帳面さとはそういうことだったのです。
さて、他の場面で、イエスは次のように言いました。
「律法学者とパリサイ人、お前たち偽善者よ。人を改宗させるために至るところを駆け回り、その者が改宗するや自分よりも2倍ひどい地獄の子としている。」
宣教についての彼らの熱心さ、また、福音についての熱心さはどうなのか。
人を改宗させるために海や山を飛び回わるとあります。
ロサンゼルスから私宛に手紙を書いた人がいます。
ロサンゼルスに来て、私に説教をして欲しいと言うのです。
最初に私が抱いた疑問は「希望者はどれくらいいるのか」ということでした。
というのも、たった一人のために、数千マイルも離れたところに旅して説教しようとは思わなかったからでした。
しかし、パリサイ人はそれを実行したのです。
偽善とその祈りゆえに、イエスは彼らを強く非難しました。
しかし、祈りのある生き方において、彼らは大変几帳面でした。
彼らは毎日聖書を読み、毎日祈り、自分の所持金の少なくとも10パーセントを神の御業のために献金したのです。
彼らは教会生活に身を委ね、福音に身を委ね、伝道活動に身を委ねました。
しかし、イエスは言います、「あなたの義が彼らの義に勝らなければ、あなたは決して神の国を見ることはない」と。
恐らく主が意図したことというのは、「私の義を持ちなさい」ということ。
救いの根拠としてのイエスの義、つまりイエスの義は律法学者とパリサイ人の義に勝るのです。