みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#71 基礎教理 Do You Bear Fruit? NO.4 

2024年07月02日 | 基礎教理

Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)

28分8秒から35分20秒まで。

◇◇

さて、話を戻しましょう。

大変重要なことを見ていこうと思います。

最初に、ヨハネ15章4節から6節。

ヨハネ15:4-5 
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 

さて、あることを見ておきたい。

最初に、主は言います、「私はぶどうの木です。」

これは主観的なことばではありません。

何か他のこと、他人や環境に依存してはいないということ。

主は事実を述べているのです。

これはとても重要です。

約束のための事実と捉えて混乱するクリスチャンがいます。

このためにあなたがすべきことではありません。

約束ではない、単なる事実です。

「私はぶどうの木です」とイエスは言います。

このことは、何か他のことによって左右されません。

「私はぶどうの木です」とイエスは言います。

彼はぶどうの木です、その通り。

何が起ころうとも、イエスはぶどうの木なのです。

「それの何が重要なのか」と言うかもしれない。

あなたについて、「あなたは枝です」とイエスは次に言います。

何故このことが重要なのでしょうか。

「本当のクリスチャンとして、枝となるために何かをしなければならない」と主が言っているのではありません。

すでにあなたは枝です。

さて、現代の福音主義は次のように言います。

「基本的にあなたはクリスチャンになることはできるが、その時点で実を結んではいない。より気高い人生を歩みたいのなら、弟子訓練や他のあらゆることを始めなければならない。そうすれば、あなたは実り多い枝となるのだ。」

残念ながら、これは、この箇所で描かれている考え方ではありません。

イエスが言っていることは、「私はぶどうの木である。」

あなたが私の本当の弟子ならば、すなわち、聖霊によってまことに新生され、新創造となっているのならば、あなたはすでにぶどうの木につながっているのです。

あなたは枝です。

であるなら、あなたは必ず実を結びます。

そうなるはずです。

分かりますか。

だから、イエスは言うのです、「実によって見分けることができる」と。

故に、新約聖書に疑問となることはありません。

枝でありながら、実を結ばないということはあり得ない。

疑問の余地はありません。

だから、イエスは言うのです、「ある人は100倍、他の人は60倍、そして別の人は30倍もの実を結ぶ」と。

つまり、この例えで言及されているクリスチャンは、少なくとも30倍もの実を結ぶことになります。

あなたは実を結んでいますか。

あなたは実を結んでいますか。

「私はぶどうの木であり、あなたは枝です。」

あなたは枝であるから、必ずや実を結ぶであろう。

あなたが全く実を結ばないのなら、あなたは折れて死んでいる枝ということになる。

ぶどうの木につながっているように見えるが、実はつながってはいない。

私は森を散歩します。

できるだけ多くの時間を森の中で過ごします。

たまたまあなたがそこにやって来た。

狩りをしている模様。

その場所で何かを探していいる。

ある木から枝がぶら下がっている。

いくつかの枝がその木からぶら下がっている。

それらすべての枝がその木につながっているように見える。

立ち上がって、一本の枝を蹴ると、抵抗なく落ちてくる。

その枝はその木につながってはいなかった。

事実、木はブナの木で、枝は二ㇾの木だった。

その枝は、たまたまその方向へと落ちてきた。

本当の枝のように見えたが、そうではなかった。

つまりこうです。

その枝は、ぶどうの木と同じ樹皮をもってはいなかった。

ぶどうの木と同じ葉をもっていない。

その枝は、決して実を結ぶことはなく枯れてしまう。

あなたがたの中に、いつも枯れている人がいます。

キリストのために決して緑を貯えることのない人。

決して実を結ぶことのない人。

あなたがクリスチャンであるなら、あなたは枝です。

あなたが枝であるなら、あなたは必ず実を結びます。

弟子訓練やキリストとの関係を密にすること、つまりこのような集いが重要であることは間違いありません。

しかし、私たちがキリストとの関係を密にするのは、より多くの実を結ぶためです。

そうしなければならないとも、実を結ばないのにクリスチャンでいられるとも言ってはいない。

さて、枝という比ゆ表現は、極めて壮大です。

物理的な枝は、それ自体で実を結ぶことはありません。

不可能です。

枝としての私が切り落とされてしまったら、私はどうすればよいのか。

私は死んでしまいます。

生きているように見えて、数日間の命です。

何が起こるでしょうか。

萎れていき、枯れます。

さて、ここで問題となるのは、枝はそれ自体身実を結ぶことはないということ。

枝はぶどうの木につながれていなければならないのです。

何か別のことを言っても、全く無意味です。

ここに一本の枝を持って来て、「この枝は多くの実と枝を生みます」と言ったとします。

しかし、見ると、、その枝は干からびていて、枯れています。

「この男は狂っている。馬鹿げた話だ」と言うに違いない。

この男の言っていることは、馬鹿げているにもほどがある。

私が言いたいことをしっかり理解して欲しい。

ぶどうの木との連結から離れて、枝は実を結ぶことは絶対にできません。

その比ゆ表現を見ていきましょう。

クリスチャンは、単独で実を結ぶことはできません。

命を与える、結実の聖霊(キリストの命)を通して、キリストとクリスチャンの関係-真の、霊的な、常に前進する試行錯誤の関係-が、クリスチャンの中で働く必要があるのです。

多くのクリスチャンはこう言うでしょう。

「私はこれもできないし、あれもできない」と。

違う。

あなたはひとりでは何もできません。

その考えを捨て去りましょう。

あなたは何もできない。

「私はこれはできない」とか「こんなことは無理」とか言ってみせても、謙虚ということにはなりません。

内住するキリストの命から離れて、あなたは何もできません。

自分はできると考えることは馬鹿げているということを理解して下さい。

しかし、これはこれで素晴らしいことです。

内住するキリストの命から離れて何もできないのであれば、内住するキリストの命ゆえに何でもできるのです。

多くの場合、伝記を書く人たちに、このことを見出すことができます。

大変霊的で、伝記を書くことに熱心な人たちがいます。

伝記を書き始めると、まるで彼らは自分の霊性を窓の外へ放り投げるように見えます。

彼らがチャールズ・スポルジョンについて語り始めると、機械的に次のようなことを言い始めます。

「彼は正確な記憶を持っていた」、「彼は信じがたいほどエネルギッシュだった」、「彼はこれをした、あれもした。」

どのようにしてある人物が優れた神学を獲得したのか伝記を書き始め、自分の持っている神学知識をすべて窓の外へ放り投げる。

この意味とはどういうことでしょうか。