「水」について考えつく事が出来る一切の物は、いずれも私たち衆生の「五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)」を通して入って来た、限られた情報を心の作用で変化したものです。
過去に造られた心の中の創造物を「記憶」から引き出して再現しているだけなのです。
ですから、「そこに実在している物(水)」とは根本的に違っています。
それでも私たち衆生は「水」について観ている、識っていると言えるのでしょうか。
「水」について考えつく事が出来る一切の物は、いずれも私たち衆生の「五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)」を通して入って来た、限られた情報を心の作用で変化したものです。
過去に造られた心の中の創造物を「記憶」から引き出して再現しているだけなのです。
ですから、「そこに実在している物(水)」とは根本的に違っています。
それでも私たち衆生は「水」について観ている、識っていると言えるのでしょうか。
物理学を始めとする科学全般で用いる「理論や概念」はそこに露われている「現象(実在)」を人間(にんげん)が理解するための「手段、あるいは説明」のための方策として便宜に使われているのであって、実際に起こっている「現象(実在)そのもの」ではありません。
「修行」という言葉は、サンスクリット語の原義では「気付く」という程度の意味であり、努力を伴うニュアンスではありません。
「修行」とは「現象世界」で自分自身を認識する「行為(自覚)」であり、宇宙全体と合致する御業(みわざ)であるという事です。
それからそれを「土台」にして「発展(成長)」して「生活(活動)」しているのが今の私たち衆生なのです。
それが今になってから「真実(事実、法、道)」に対して「迷い(疑問)」が生じて、それを考え方をもって「解決(解消)」しようとするから、ますます分からないようになるのです。
何故ならば「真実(事実、法、道)」というものは「考え方(認識)」の先にあって「考え方(認識)」を起こした時は、「真実(事実、法、道)」というものは無くなっているのです。
道歌
誰も皆 世を我がものと見てとって そっと程よく 扱へよ君
尋ねても 尋ねあてぬぞ 道理なり 尋ぬる人が 尋ねらるる人
本当に「真実(事実、法、道)」に成ってしまえば自分をも含めて何もかもないのが本当です。
私たち衆生は何気なく日常生活を送っていますが、その事に満足が得られてないものです。
何故、満足が得られないのかというと、「子供の時分に物心が付いた」からです。
「物心が如何にして付いたのか」ということは、誰一人として分かりません。
「物心が付いた途端」にどんな人でも皆、そうなるのです。
これは「人間(にんげん)の本性」なのです。
それを「認識」というのです。
「識」を初めて認めたのです。
子供自心には物心が付いたという「自覚」がありません。
それですから、「無明の煩悩」といわれてるのです。
私たち衆生は「四十九年一字不説」というと、何かそれが「仏法(仏道)」の大意、究極だと考えがちです。
けれども「仏法(仏道)」ということを思ったり考えたりすることでも、既に「言葉(文字)」に囚われて迷いの元になるものです。
「四十九年一字不説」という「言葉(文字)」は有(在)っても実体はありません。
ですから、「四十九年一字不説」という「言葉(文字)」を使った実体のない「その事(事実)」を自分のものにする以外にないのです。
「仏法(仏道)」という「法(道)」に従って究極に至らなければならないのです。
既に「仏法(仏道)」の中に居りながら「非常に矛盾した事」ですけれども、それを行なわなければならないのです。
「実に余分な事」ですけれども、それを行なわないと「真実(事実、法、道)」というものは本当に分からないのです。
「四十九年一字不説」は別の言い方をすれば「不立文字、教外別伝(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん)」ということです。
「不立文字」とは、言葉や文字、知識を否定したり、更に考えること迄も否定しなければいけないように誤解している人がありますが、そうではありません。
「不立文字」とは、文字によって理解することがないという事です。
別の言い方をすれば「すべての事、一切の物が全部文字に成った」という事です。
したがって仏祖は人の為にしないのです。
これが「人の為に説かざる底の法」です。
人の為にすれば、人の為にならないのです。
自分のことは自分で知(識)る以外はないのです。
道元禅師曰く、「この法は人々(にんにん)の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし」と。
「真実は真実そのもの」を以てしか、知(識)る事は出来ないのです。
別の言葉で言えば、「真実は悟りに因ってのみ、知(識)り得るもの」ということです。
「真実」はそれが人に伝える為に言葉や文字に置き換えられ「人間(にんげん)の思考」によって把握された時点で「ひとつの制約された観念」に変質しており、「真実」とは懸け離れた物に成ってしまうのです。
「楞伽経(りょうがきょう)」では、「四十九年一字不説」と言い訳をしているのです。
否、「説いて説くことを知(識)らない」のです。
行って行くことを知(識)らないのです。
これが、「四十九年一字不説」の深意です。
人類で一番最初に「法(道)」というものに目醒められたおシャカ様は、最初に「四十九年一字不説」と言って四十九年間の説法を終えられています。
仏教は「無常、無我、涅槃」という「法(道)の説明内容」のみで成り立っているのではなく、「四十九年一字不説」というそのものの否定をも含めて成り立っているのです。
これは何を意味しているのかというと、「四十九年間余分な事、必要のない事を皆に話をしてきた」
「全く余分な事、必要のない事をしてきたという事の他、何も言いようがない」という意味です。
何故ならば、おシャカ様の教典は真実を語っていません。
これは「真実その物ではなく 事実の説明」に過ぎないのです。
仏教とは「四十九年一字不説」の言葉によって「妄想、我見、分別」から離れ、総ての苦悩が救われ、「方向指示」という仏教本来の役目を完全に演じている事になるのです。