人生観の極地は「境遇は真理なり、それぞれに安心して心を動かさざること、大山の如く、ただ適材を適所に用い、努力すればそれで善い」のです。
「努力」とは単に成る事です。
単に成って「努力」することです。
努力ばかりに成って己を忘ずる修行が必要なところなのです。
人生観の極地は「境遇は真理なり、それぞれに安心して心を動かさざること、大山の如く、ただ適材を適所に用い、努力すればそれで善い」のです。
「努力」とは単に成る事です。
単に成って「努力」することです。
努力ばかりに成って己を忘ずる修行が必要なところなのです。
「死を成功」と見る宗教は仏教以外にありません。
「死の時」に極楽を求めるということは矛盾なのです。
「死、そのものは死なない」のです。
道元禅師は「この生死はすなはち仏の御いのちなり これをいとひすてんとすれば すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり」、と戒めて居られます。
道元禅師の歌に「面白や 散る紅葉ばも 自ずからなる 法(のり)のみ姿」と。
「死」は宇宙間の活動にして「死なくんば生死なし」。
「病人が健康に復するのは、病人が死するから」です。
「野蛮が死ぬから、文明が生まれる」のです。
「涅槃」とは「円寂(えんじゃく)」といい、大成功という意味です。
おシャカ様は、「死」に因ってこれを「証明」しました。
「死すべきに死ぬということは、大成功」なのです。
おシャカ様は二月十五日の早春に亡くなられましたが、これに因って「大成功」を私たち衆生に「証明」してくれたのです。
古人は「仏祖の生死(しょうじ)を見るは、春の百花に於けるが如し」といっています。
だから「涅槃」なのです。
そもそも人々の境遇とは、順あり、富貴あり、貧賤あり、而してすべての境遇は決して偶然のものではありません。
「必然」なのです。
必ずや依って来る真理が有(在)るのです。
これを「不昧因果」といいます。
この因あればこの果あり。
この果は必ず、この因に因るのです。
故に偉人は境遇に平気でいられ、順逆に心を苦しめないでいられるのです。
直ちに境遇に因って因果を証明し、真理を説法する者としては、常に綽々(しゃくしゃく)として余裕があるのです。
おシャカ様にも悩みがあったのです。
提婆にほとんど殺されようとした事があったのです。
九十日間馬と生活を共にしたことがあったのです。
史実に拠ればおシャカ様は、八十歳で亡くなられましたが、おシャカ様の亡くなられた事を「涅槃」といいます。
「常住壊空(じょうじゅうえくう)」という四つの条件因果関係で転々としていたものは、移り変わりを繰り返すものです。
どんなにしても生は生で、そのままであり、死は死でそのままなのです。
どんなにしても、「一度に二つのものを考えられない」ということです。
対象として認めるものは何にも無いということなのです。
それを暫く、仏道というおシャカ様の教えに因って修行していきさえすれば、必ずそれが「成るほど、ひとつのものであった」と気が付きます。
それを「見性(けんしょう)」といっています。
別の言葉でいえば「ものの真相を看る事」を見性というふうに呼んでいるわけです。
私たち衆生はどうしても相対的な考えから脱し切れないものです。
「迷いと悟り、生と死、苦と楽」というものが、相並んで有るかの如く」に「錯覚」を起こしているということです。
「迷いのままが安心(あんじん)であり、生のままが死であり、苦その物が楽であり、楽はまたそのまま苦に成る」という事が分からないのです。
これを「無明(むみょう)」といいます。
本来一つの物であるのに、それを二つの物に見てしまう、そういう「見 (けん)」が有(在)るために相対的な考えからどうしても脱する事が出来ない訳です。
よく指導者は「迷いのままに成っていなさい、苦のままに成っていなさい」といいます。
それでなければ「真の解決」にはならないからです。
「迷い」が何らかの方法に因って「悟り」に変わったならば、その「悟り」というものは、また何かの条件に因って「迷い」に成ってしまうのです。
私たち衆生はどうしても相対的認識の下に物を見ています。
善いといえば悪いものが必ず有(在)り、悪いといえば必ず善いものが有(在)るものです。
迷いが有(在)るといえば、悟りが有(在)る等々。
私たち衆生は「自分」を立てて相対的な物の見方をしているために、「ものを認める」という自分の習慣がなくならないという事が有(在)ります。
「自己を忘れる」という事は、善悪、好嫌、上下というものがきれいになくなる事です。
元の私たち衆生の「本性(ほんしょう)自性」は「無性」なのです。
「本性自性に成れる」その時が有(在)るのです。
実に「不思議」な事ですけれども、善い事は、善い事で了っているのです。
分からない事は、分からない事で「円満に成就」しているのです。
私は「坐禅」を勧めなければなりません。
「坐禅」を摂めれば他に説明は要りません。
「坐禅は坐禅なり」です。
直ちに「一心」が証明されるのです。
「一切手の付かない仕事」を為さっている事が分かります。
しかし、「手が付かない」というのは意識です。
今まで、無意識に手を付けていたものを「手が付かない」と離せば「離す」という意識が有(在)ります。
それは間違いです。
元来、「物 その物」は「不即不離の物」です。
「物そのもの」は思っても及ばないものです。
「只(ただ)その働く力」を見出せば善いのです。
何も説明は要りません。
「心」で無い物は無いのですから、「その物が心の証明に成っている」のです。
「心縁の相」というのは「心の相手」など無いのです。
皆、「心」なのです。
向こうの縁も相手も皆、「心」なのです。
「心の外」に別の姿が有(在)るのではありません。
即ち、「心の姿」が別に有(在)るものでは無いのです。
「物 その物」は手の付けようがないように出来ているのです。
一杯一杯の物なのです。
言う事も、思う事も、熱いと言うもこれが熱く成らないのです。
嬉しいと思っても、悲しいものが嬉しくは成らないのです。
「そのまま」と言っても、早、「自分の分別」に成り二つに成ります。
「その物の実相」に遠ざかる事になるのです。
「各々分(おのおのぶん)」に応じて只(ただ)働くのが一番です。
「只、働くところの価値」が「般若心経の結果」です。