活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

境遇4

2020年07月11日 | 法理

人生観の極地は「境遇は真理なり、それぞれに安心して心を動かさざること、大山の如く、ただ適材を適所に用い、努力すればそれで善い」のです。

 

「努力」とは単に成る事です。

単に成って「努力」することです。

 

努力ばかりに成って己を忘ずる修行が必要なところなのです。


境遇3

2020年07月10日 | 法理

「死を成功」と見る宗教は仏教以外にありません。

 

「死の時」に極楽を求めるということは矛盾なのです。

 

「死、そのものは死なない」のです。

 

道元禅師は「この生死はすなはち仏の御いのちなり これをいとひすてんとすれば すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり」、と戒めて居られます。

 

道元禅師の歌に「面白や 散る紅葉ばも 自ずからなる 法(のり)のみ姿」と。

 

「死」は宇宙間の活動にして「死なくんば生死なし」。

 

「病人が健康に復するのは、病人が死するから」です。

 

「野蛮が死ぬから、文明が生まれる」のです。


境遇2

2020年07月09日 | 法理

「涅槃」とは「円寂(えんじゃく)」といい、大成功という意味です。

おシャカ様は、「死」に因ってこれを「証明」しました。

 

「死すべきに死ぬということは、大成功」なのです。

 

おシャカ様は二月十五日の早春に亡くなられましたが、これに因って「大成功」を私たち衆生に「証明」してくれたのです。

 

古人は「仏祖の生死(しょうじ)を見るは、春の百花に於けるが如し」といっています。

だから「涅槃」なのです。


境遇1

2020年07月08日 | 法理

そもそも人々の境遇とは、順あり、富貴あり、貧賤あり、而してすべての境遇は決して偶然のものではありません。

「必然」なのです。

 

必ずや依って来る真理が有(在)るのです。

これを「不昧因果」といいます。

 

この因あればこの果あり。

この果は必ず、この因に因るのです。

 

故に偉人は境遇に平気でいられ、順逆に心を苦しめないでいられるのです。

直ちに境遇に因って因果を証明し、真理を説法する者としては、常に綽々(しゃくしゃく)として余裕があるのです。

 

おシャカ様にも悩みがあったのです。

提婆にほとんど殺されようとした事があったのです。

九十日間馬と生活を共にしたことがあったのです。

 

史実に拠ればおシャカ様は、八十歳で亡くなられましたが、おシャカ様の亡くなられた事を「涅槃」といいます。

 


相対的認識3

2020年07月07日 | 法理

「常住壊空(じょうじゅうえくう)」という四つの条件因果関係で転々としていたものは、移り変わりを繰り返すものです。

どんなにしても生は生で、そのままであり、死は死でそのままなのです。

 

どんなにしても、「一度に二つのものを考えられない」ということです。

 

対象として認めるものは何にも無いということなのです。

 

それを暫く、仏道というおシャカ様の教えに因って修行していきさえすれば、必ずそれが「成るほど、ひとつのものであった」と気が付きます。

 

それを「見性(けんしょう)」といっています。

別の言葉でいえば「ものの真相を看る事」を見性というふうに呼んでいるわけです。


相対的認識2

2020年07月06日 | 法理

私たち衆生はどうしても相対的な考えから脱し切れないものです。

 

「迷いと悟り、生と死、苦と楽」というものが、相並んで有るかの如く」に「錯覚」を起こしているということです。

 

「迷いのままが安心(あんじん)であり、生のままが死であり、苦その物が楽であり、楽はまたそのまま苦に成る」という事が分からないのです。

 

これを「無明(むみょう)」といいます。

 

本来一つの物であるのに、それを二つの物に見てしまう、そういう「見 (けん)」が有(在)るために相対的な考えからどうしても脱する事が出来ない訳です。

 

よく指導者は「迷いのままに成っていなさい、苦のままに成っていなさい」といいます。

それでなければ「真の解決」にはならないからです。

 

「迷い」が何らかの方法に因って「悟り」に変わったならば、その「悟り」というものは、また何かの条件に因って「迷い」に成ってしまうのです。


相対的認識1

2020年07月05日 | 法理

私たち衆生はどうしても相対的認識の下に物を見ています。

 

善いといえば悪いものが必ず有(在)り、悪いといえば必ず善いものが有(在)るものです。

迷いが有(在)るといえば、悟りが有(在)る等々。

 

私たち衆生は「自分」を立てて相対的な物の見方をしているために、「ものを認める」という自分の習慣がなくならないという事が有(在)ります。

 

「自己を忘れる」という事は、善悪、好嫌、上下というものがきれいになくなる事です。

 

元の私たち衆生の「本性(ほんしょう)自性」は「無性」なのです。

「本性自性に成れる」その時が有(在)るのです。

 

実に「不思議」な事ですけれども、善い事は、善い事で了っているのです。

分からない事は、分からない事で「円満に成就」しているのです。


心縁の相2

2020年07月04日 | 法理

私は「坐禅」を勧めなければなりません。

 

「坐禅」を摂めれば他に説明は要りません。

「坐禅は坐禅なり」です。

 

直ちに「一心」が証明されるのです。

「一切手の付かない仕事」を為さっている事が分かります。

 

しかし、「手が付かない」というのは意識です。

今まで、無意識に手を付けていたものを「手が付かない」と離せば「離す」という意識が有(在)ります。

 

それは間違いです。

元来、「物 その物」は「不即不離の物」です。


心縁の相1

2020年07月03日 | 法理

「物そのもの」は思っても及ばないものです。

 

「只(ただ)その働く力」を見出せば善いのです。

 

何も説明は要りません。

 

「心」で無い物は無いのですから、「その物が心の証明に成っている」のです。

 

「心縁の相」というのは「心の相手」など無いのです。

 

皆、「心」なのです。

 

向こうの縁も相手も皆、「心」なのです。

 

「心の外」に別の姿が有(在)るのではありません。

 

即ち、「心の姿」が別に有(在)るものでは無いのです。


物 その物

2020年07月02日 | 法理

「物 その物」は手の付けようがないように出来ているのです。

一杯一杯の物なのです。

 

言う事も、思う事も、熱いと言うもこれが熱く成らないのです。

 

嬉しいと思っても、悲しいものが嬉しくは成らないのです。

 

「そのまま」と言っても、早、「自分の分別」に成り二つに成ります。

「その物の実相」に遠ざかる事になるのです。

 

「各々分(おのおのぶん)」に応じて只(ただ)働くのが一番です。

 

「只、働くところの価値」が「般若心経の結果」です。