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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

もし私が東京都知事なら

2019年11月04日 12時51分38秒 | えいこう語る

▼「マラソンを北方領土でやったら」と、大放言?した百合子東京都知事。画家の故片岡球子なら、富士山にまたがり腸が煮えくり返え、鬼の形相をした百合子知事の肖像画を描くだろう。

▼「腹が立つ」というような問題ではない。どんなに酒を飲んでも、頭が冴えて怒りはおさまらないだろう。「サッポロ開催」を告げられたその夜の百合子知事を想えば、頭が変になりそうだったに違いない。

▼「サッポロ変更」の裏には、モリキロウ・アベシンゾウ・スガヨシヒデの「百合子イジメ」があり、北海道IR法の導入の足がかりにするのではないかと、私は妄想をするが、そこには今日は踏み込まないことにしよう。

▼東京マラソンまで1年を切った時点で、ボランティアを含め、ほとんどの準備は整っているに違いない。私が都知事なら、サッポロ開催と同日に【五輪開催記念・東京大マラソン】の独自開催を企画しいたい。

▼もちろん参加費はいただく。順位は付けるが、完走できた人の中から、抽選で10組をマラソンの誕生地である【マラトンへのペア―旅行券】が当たるというのはいかがだろうか。サッポロ・マラソン以上に、東京は盛り上がり、開催変更も納得の、東京五輪が終了するのではないだろうか。

▼五輪は「国威発揚」という側面がある。【民衆の熱狂】というのは、先日のラクビ―日本代表への熱狂的な応援、その後の決勝でも、私たちは実感できた。ラグビーなど見たこともないに妻も、テレビの中の選手に熱い声援を送っていた。

▼【民衆の熱狂】がマックスに達するのは「戦争」であり「ナショナリズムの台頭」だ。【人一人の心の中で、自分の置かれた立場とその行く末を案じ、熟考し、やはりどうしても立たざるを得ないと、静かな青ざめた決意をもって戦う意思を固めたのではなかった。人々は、ちょうどかつて革命(フランス革命)のうちに飛び込んだのと同じ熱狂をもって・・・そして熱狂以外の何物によってでもなしに、戦争(第一次大戦)へと飛び込んでいったのである】。・・・フランスの政治思想家、アレクシ・ド・トクヴィル。

▼トクヴィルは、そのような流れを【民主主義の大洪水】と語っている。長い間【平和の祭典】と思われてきた五輪。振り返っても、開催は政治的であったことは事実だ。

▼「トウキョウからサッポロへ」、開催を目の前にしての変更は、政治的力学が働いたのは間違いないように思う。『フクシマ第一原発事故の汚染水は、完全にコントロールされた』という【世界規模のウソ】から始まった2020年東京五輪だからだ。

▼【民主主義の大洪水】を誘因させているのは、金権至上主義にまみれ、スポンサーに忖度するメディアだ。その源は【アベ政権】なのだ。また私の妄想は、何物にも忖度することなく、果てしなく続きそうな勢いをみせてきた。

▼アベ政権が目指す「憲法改正」とは、日本国民が戦後長い間慣れ親しんできた「日本国憲法=国家の基本秩序」を変えることだ。つまりアベ総理は【革命】を起こそうとしているのではないだろうか。それは「日本国憲法と国民主権への反乱」なのではないか。

▼その革命の最大目標は『第9条』を破壊し【戦争する国】への改変だ。つまり、現国家を転覆しようという「革命」を起こそうとしているのがアベ政権の真の姿だ。・・・という過激な妄想は、この辺で止めておこう。これは忖度ではない、ただ単なる自制だ。

▼【「革命」と「戦争」名称は異なっても、その心理力学ともいうべきものの形においては、知と情と意がほどほどのバランスをとって生きているはずの人間たちが「大衆」となった瞬間にそのバランスを完全に失って「情」のみ、あるいは「意」のみに動かされて走り出す】。これはトクヴィルの言う【精神の病理】と呼ぶほかにない現象だ。・・・というのは、極右派の哲学者と言われる、長谷川三千子著「民主主義とは何なのか」の中にある。

▼2020年東京五輪には、三つのキーワードが出たような気がする。トクヴィルの【民衆の熱気】【民主主義の洪水】【精神の病理】だ。その後に来るのが【憲法改正】だ。

▼もし私が東京都知事なら「サッポロ・マラソン」と同日の【五輪記念・東京大マラソン】の開催だと言った。サブ・テーマは『平和の祭典・五輪とは何か』だ。2020年、世界中でこのことを考えるのを、首都東京が発信することだ。

▼1964年の東京五輪、私たちは高校1年生だった。日本が急激に進化するのを、身体で感じていた。卒業後、青春の未熟な堤防が決壊し、多くの友人たちが東京に流された。いや、自らの意志で流れていったのだ。

▼函館という田舎まちから大都会東京。味わったのは、トクヴィルの「民衆の熱狂」「民主主義の大洪水」「精神の病理」だったように思う。

▼昨年亡くなった、高校時代からの親友と、病棟での私の会話だ。「アベ総理での五輪は見たくないな」。「同感だな」。

▼湖に浮かべたボートをこぐように
 人は後ろ向きに未来に入っていく
 目に映るのは過去の風景ばかり
 明日の景色は誰も知らない  
              詩人ポール・ヴァレリー

▼もし私が都知事なら、都庁にこの詩の垂れ幕を掲げて置きたい。・・・次期選挙は落選間違いないが。

天皇とメディアと私

2019年11月01日 15時53分51秒 | えいこう語る

▼昭和23年生まれなので、昭和を長く生き、平成を過ごし、令和を迎えた時、私は70年間生きていた。つまり、戦後をほとんど生きてきたことになる。

▼1948年生まれで2019年まで生きた。という表記であれば、人生がたんぱくに感じられる。昭和・平成・令和に生きてというのであれば、歴史の重みを背負っているという自負心も出てくる。

▼西暦と元号、神棚と仏壇、右翼と左翼など、我が国は相反するものが「和」を以て調和をなしている。その中心に天皇がいる、そんなことも考えさせられる、令和元年の今日だ。

▼ちょっぴり文章が気張ってしまったが、日本国民に生まれ「天皇と私」の関係について、今まであれやこれやと、適当な答えも出せないまま、今日まで来てしまった。

▼令和になり今上天皇が私より年下というので、なんとなく天皇について、距離感が近くなったという感じがする。というより親近感がわいてきて、天皇について考えやすくなったという感じだ。

▼まず昨日(31日)の北海道新聞の『文化の日を明治の日に』という記事だ。右翼団体「日本会議」のメンバーが、
憲法公布を記念した11月3日の「文化の日」は、明治天皇の誕生日にあたるので【明治の日】と名称を変更したいと、101万人の署名を自民党に提出したという。

▼提出された自民議員連盟・会長古屋圭司は「さらに署名を集め、立法府の背中を押してほしい」と要請したという。この「日本会議」のメンバーは、その日に国会内で会合を開いたというから、自民党と「日本会議」は、日米両首脳と同様「ウイン・ウイン」の関係のようだ。

▼「日本会議」は、神社本庁と密接につながっているので、全国の神社を通し、署名集めをしてくるに違いない。私の家の近くにも八幡神社がある。

▼若い神主さんなので「署名お願いします」と笑顔でやってきそうだ。氏子(住民)たちは、何のためらいもなく署名に応じるだろう。「日本会議」の底力は、そんなところにある。

▼「憲法改正」にしても「一度も変えないので、時代に合わないので改正に署名を」といえば、氏子は大概従う。「氏子制度」や「檀家制度」というのも、考えてみれば民主的ではない。【従わざるを得なき制度】だ。

▼なんだかんだといっては、氏子や檀家からお金を巻き上げる制度だ。「ありがたきもの」だという、不確かな存在で、住民の懐を寂しくする制度だと、檀家総代の私もそう思うことがある。

▼話が脱線したかのように見えるが、天皇と私の関係を書こうと思っていたら「明治の日」の新聞記事が、目に留まったからだ。つまり、天皇と私の関係は、メディアを通してしか、その関係を構築できないということだ。

▼この状態を、ポートランド州立大学教授で、近代天皇制研究の第一人者のケネス・ルオフは、著書【国民の天皇】で、こう指摘する。

▼戦後憲法下で皇室が直面した大きな変化は、自由な報道にさらされるようになったことである。宮内庁はそれなりに皇室のイメージが伝わるように努め、メディアはそれを国民に植え付ける役割を果たしている。皇族による公式行事や旅行はすべてお膳立てされ、メディアは天皇や皇族の情報を伝える道具と化す。一方、皇室はメディアを通して自分たちの活動に対する一般的評価を推し量る。皇室に対する世論は、メディアを通して評判を気にする皇族やお付き人へと伝わっていく。さらにメディアは、宮中に出入りする情報の伝動ベルト役を務めるだけでなく、自らも皇室のイメージをつくりあげる役割を演じている。

▼ということは【忖度】とは、皇室とメディアにおける関係ではないか。アベ一強政権に対し、痛烈な批判を期待する国民に対し、矢が折れているのではないかと言われる昨今のメディア。

▼「憲法改正」という「戦争前夜」に対し、健全な目と心での、正確な批判をメディアには期待したいものである。天皇に対してもだ。昭和生まれの私たち国民に欠けていたものは、天皇制なるものへの、確かな批判精神ではないかと思うからだ。

▼今日はなんだか肩が凝ってしまった「天皇とメディアと私」というブログだ。肩こりは早朝の厳しい寒さのせいにしておきたいと思う。

▼日本最大の右翼団体「日本会議」は「憲法改正」し、天皇を中心とした国家をつくりあげようとする集団らしい。そのあたりを深く掘り下げた、新聞の報道を期待したいものだ。

    冬まじか明治は近くなりにけり
                 三等下