▼2018年度から小学校で、19年から中学校で道徳が教科化される。先の大戦について、内容をよく理解している人は、安保法制の制定や憲法改正が叫ばれる現政権のでの動きを見ると、道徳教科化が「修身教育」のようになるのではないかと、懸念しているようだ。だが、そんな単純な話ではないと主張するのが、上越教育大副学長の林泰成氏(専門は道徳教育)だ。
▼林氏は「以前は教科書に書かれていることを、ペーパー上に再現するのが学力だったが、今や学力の概念に人間性や協調性、道徳性が入り込んできた。理解したことを人に伝える能力を評価するようになっている」。これが教科化の背景だと、北海道新聞8月28日に掲載している。
▼例えば、賛否を選ぶのではなく、どういう理由付けをするかが重要で、悩むことで考え方の構造が変わり、道徳性が発達するという訓練も教科化の目的だという。今までの考えだと、雪が融けたらどうなるという問いに「雪が融けたら水になる」という考えが正解だと教師が判断すると「雪が融けたら春になる」という感性豊かな答えは誤りになった。
▼どちらが正解かと判断するのは、あくまでも教師に委ねられる。だが、答えが多様化するのが教科化の目的だとしたら、多用な意見を尊重することで、あれもいいこれもいいということになったら、個性的な人格形成につながるだろうが、統一性の欠けた教室になるのではないか。自己主張が強すぎると、いじめが今より増加する可能性もあるのではないかと心配する。
▼とは言いながら、最近の教科書検定では、意外と窮屈な条件で、検定が行われているようだ。もし、憲法が改正されて、我が国も軍隊を持ち戦える国になったら、国防意識を高揚させる内容は、当然教科書にあらわれてくるに違いない。考えを植え付けるのが教育なので、それが道徳教育の最終的な目的なのではないか。
▼どこかの国から、ミサイル攻撃を受ける。国や国民を守るため応戦する。互いに徹底攻撃をすれば、多くの国民が犠牲になる。戦争は、大量殺人を生むという事実を、戦後の歴史教科書は教えている。だが、憲法改正後には「自衛のための戦争」という教え方も出てくるだろう。
▼そこに、道徳教育がどう歯止めをかけるか、心配だ。教師は国の検定を受けた教科書で教える。道徳を教える教師は、果たして多様な判断が可能なのだろうか。文部省推薦のような、四角四面の教師が、道徳教師に任命される可能性もあるのではないか。
▼『戦争は教育から始まる』と言われる。私が学んだ、日本近代史での歴史認識でも、その通りだと思う。「教育」が「強育」となり、やがて「狂育」になりやしないかと、ちょっぴり、道徳教育の教科化を心配している。