▼私は1948(昭和23)年に、北海道亀田郡椴法華村という漁村に生まれた。当時、魚が大漁していたので食糧難という記憶がないが、食事といえば「じゃがいも」と「かぼちゃ」を、ほとんど毎日食べていた。小学校の時は、子どもたちで川に遊びに行き、じゃがいもをゆでて食べたなどという、そんなのんびりした時代でもあった。世に言う「団塊世代」で、たくさんの子どもたちが集まって毎日自然の中で遊んでいたので、あの時代は、貧しいという感情より楽しいという思い出が、完全に優位を占めていた。当時の仲間が集まると、山や川や海で遊んだ思い出で話は盛り上がる。物はなくても遊びを作り出す、子供たちが皆、天才ぶりを発揮した時代だ。
▼そんな楽しい時代を過ごすことが出来たのも、戦後に生まれたからだと思う。さて今日(22日)の北海道新聞朝刊に目を奪われた。我が母校椴法華小学校が、昭和20年7月15日に、米軍の爆撃を受け体育館を残し全焼している。その時の米軍機から撮影された映像を、大分県の市民団体が米国立公文書館から入手したという記事だ。小学校のすぐ隣に、私の菩提寺があるが、最近お寺に修復をしていたら、柱に弾が刺さっていたのだ。警察と自衛隊に調査を依頼した結果、当時の米軍機から発射された弾だと判明し、お寺に保存してある。
▼先日、80歳を過ぎた私の村の先輩が、村での戦争体験をぜひ書き留めて置きたいので、私に協力してほしいと依頼があった。明治9年、我が村は隣の旧尾札部村から一村独立を果たした。その時、70戸だというから、人口は約5百名ほどと推測する。道路を作り、学校を作り、簡易水道もいち早く整備し、小さいながらも水力発電事業も起こした。戦後まもなく、村人を元気づけるため、横綱千代の山の土俵入りと大相撲が開催されたのも、小学校グランドだ。村人総出の情熱溢れるまちづくりは「椴法華村史」に記憶されている。
▼現在、村の人口も1000人を切り、後10年ほど経つと明治9年の人口に近づくに違いない。今日の新聞記事の隣の記事は、安全保障関連法施行後初の平和維持活動の派遣で、陸自第7師団(千歳)中心の部隊の壮行式が挙行されたという内容だ。第1陣350名は、今月22日に、南スーダンに派遣されるという。集団的自衛権行使が容認され、武器を持っての活動は、戦闘を予測しての内容だ。師団長の激が飛ぶ。「高い注目度の中、今回の任務に従事することの意義を認識し、日本代表としての誇りを胸に完遂して欲しい」と述べた。オリンピックに参加するのと戦争に参加するのを、同等に考えていやしないだろうか。不祥事が続く次期オリンピックも「国威発揚」という内容なら、期待感もゼロになってしまいそうである。
▼私が受けてきた戦後教育。教育とは「戦争のない平和な国をつくる精神を涵養させること」と、教えられたと思っている。あの日、4名の方が命を落とされた。あれから72年、その人達の声を伝える使命を強く感じた、今朝の新聞記事だ。