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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

思い込みと想像力

2015年02月22日 10時03分54秒 | えいこう語る

▼ ある会議で「君は思い込みが激し過ぎる」といわれた。「いや、想像力がたくましいだけだ」と反論した。宗教に熱心な人で、思い込みが激しい人を見かけることがある。自分の考えが正当で、他の意見は劣っているように思えるからだろう。

▼ 自信を持って発言する人は、納得させる力がある。だが、一方向からの考えしか持たなければ、視野が狭くなるのではないかと思う。想像力がたくましいというのは、あらゆる可能性を探り、より良い方向を選択するための、思考の多様性のことではないかと私は思うのだが。

▼ 大勢の中で自己主張をするには、ある一定の自己規制というものが必要に思う。それは、一般常識といえるものだろう。だがこの一般常識なるものも、人それぞれの能力や環境によって随分差がある。相手の意見が自分の規制能力を超えていれば、拒否感を持つに違いない。その意見に対し、想像力を持って対処できれば、さらに内容が深まっていくに違いない。

▼ 想像力とは、思い込みを超えるキャパのことではないかと思うのだが、そう思えば、思い込みが激しい人とは、想像力に欠ける人ということになる。でも「そんなことをいうから、君は思い込みが激しいのだ」という反論も聞こえるようだ。

▼ なぜ朝から、訳のわからないことをいうのかと言うと、第3次アベ内閣誕生以来、アベ総理が私の脳裏に居座ってしまっているからだ。アベさんが総理で要る限り、私の想像力は限りなく拡大方向にある。今朝の新聞トップは「文官統制・規制全廃へ」だ。朝刊を見るたびに「戦争をする国」への、軍靴の足音がどんどん近づく感じだ。アベ総理は、思い込みの激しい人物のようだ。自分の代で、日本国憲法を書き換えようとしているのだ。それを強力なリーダシップと信じて疑わないのは、すでに、ヒットラー並の思い込みの激しさではないか。

▼ 最近のアベ総理は、憲法改正に血眼になり、自爆テロも辞さない「イケイケ国」の主導者に思えてくるのだ。たぶん「憲法第九条」の解釈に対し、想像力が貧困な人物ではないかと想像する。人類が自ら地獄を招いた第二次世界大戦。なぜ、戦う国にするのが平和への第一歩なのか。「積極的平和主義」なるものは、独りよがりの思い込みに過ぎないのだ。

▼ 私のアベ総理への理解力というか想像力は、思い込みが激しすぎるといわれても、激しすぎてなんら不思議ではないように思うのだけれど。

▼「日本国憲法第九条」が人類最大の理想だと、思い込みすぎる人と、それは思いすぎだと思うアベ総理と、どちらが想像力に欠けているのか考えてみた、昨日を日曜日と間違え、NHK日曜俳句と短歌の番組を観ようと早起きした、思い込みの激しいタイプの私だ。


どうにも止まらない

2015年02月21日 11時39分34秒 | えいこう語る

▼ 山本リンダの「どうにも止まらない」という曲がある。この曲での私の連想は、若い頃のパチンコ屋の風景だ。チューリップが開きっぱなしで、どうにも止まらなく玉が出た思いだ。あれから半世紀ほど経ったが、再びこの曲が流れているのは、国会周辺からだ。ご満悦で歌っているのはアベ総理のようだ。「戦争する国」への法整備は、着々と進められているからだ。

▼ 声高に叫ぶのは、総理ばかりではない。イスラム国人質事件で、どの程度の活躍をしたのかよくわからないけど、ヨルダンの国民の親切に涙を流した中山外務副大臣だ。米国でのテロ対策国際会議で、アベ総理と同じような文言で「テロには屈しない」と語気を荒げ、テロとの戦いに資金を援助するとの発言だ。事件の際、気の利いたコメントも出さなかったのに、次は、北朝鮮の拉致担当大臣に抜擢して欲しいものだ。

▼ 憲法改正の第1ハードルは「第96条のクリアー」だが、これは2年後の「衆参同一選挙」に標準をあわせ、戦争ゲーム好きの若者を引き込むため、選挙権を「18歳以上」に引き下げる目処も付いた。昨年「国民投票年齢」を引き下げるのに、共産・社民両党も合意しているからだ。知らなかったが、選挙権が25歳だったのが20歳になったのは、戦争が終った年だという。戦後70年というのは、アベ総理にとっては「坂の上の雲をつかむ年」なのだろう。

▼ 「周辺事態」とは、どこまでという議論も懐かしい気がするが、自衛隊の復興支援は恒久法にし、他国軍への後方支援も、国連安全保障理事会の決議がなくても出来るようにするというから、あきれてものも言えぬというところだ。平和の党を自認していた、金魚の糞の公明党が「これでは、歯止めが効かない」と待ったをかけるが「その通りで御座います」といっているように、国民は受け止めているだろう。

▼ 国民の視線を世界に向けているうちに、高レベル放射性廃棄物の処分場は、自治体ではなく国が決めるという横暴さにでた。やはり狙われているのは、北海道では幌延町ということになる。原子力ムラでは「オンカロ・幌延」なんて、愛称で呼ばれているのかもしれない。さらに、ロシアのウクライナへの干渉を考えれば、北方領土を抱える北海道は、沖縄と同程度の軍事基地の整備も必要だ。「沖縄・北海道軍事基地整備担当大臣」の設置も考えているのかもしれない。

▼ 話は飛びすぎるが、NHK「マッサン」は、毎日涙ながらには観られない。エリーさんが特高に引っ張られていく、手に汗を握るところで終了だ。翌日の展開はどうなるか、妻との話題は尽きない。軍の調達施設なので軍に頼んで、エリーさんを解放してもらうに違いないというのが、一致した意見だ。特高での厳しい取調べがあり、また涙を誘うのではないかと思っていたが、連行寸前に軍が現れ、無事釈放となった。あまりにもあっけない脚本だ。

▼ ふと、モミイ会長の顔が目に浮かんだ。民主党の会合に呼ばれ暴れまくっている、ごろつき顔の会長だ。毎日「マッサン」を観ているに違いない。「特高のイメージが悪く放送されれば、戦争への嫌悪感を国民に与える。軍のイメージをアップさせるため、すぐ軍に出てもらい処理させる方が「積極的平和主義」をアピールできるのではないか」と、会長はふと考えたのではないか。そして、脚本の改竄をヒャクタ氏に頼んだのではないかと、邪推してしまう。

▼ モミイ会長は、単純に喧嘩するので、意外と涙もろいタイプなのかもしれない。エリーさんがかわいそうなので、急遽内容の変更をさせたのかもしれない。すでに録画取りは終っているが、一日で変更させるぐらいは、モミイ会長なら可能な感じがする。「マッサンもエリ-さんも,マッサオ」になったのかもしれない。なんだか、ストーリがあまりにも単純な展開になった、昨日と今日の「マッサン」だからだ。

▼ そんなことはないと思うが、モミイ会長は、自分だけ先に収録した録画を観る、そんな独善的なタイプのように感じるからだ。戦争が始まりそうになると、人を信用できなくなるというのが、歴史の証明するところだが、国会中継を観ていると、ますますそんな気分になってしまう此の頃だ。

▼アベ総理が「この道しかない。私は、どうにも止まらないのだ」などと、国会での発言がないことを望みたいものである。


48日間の奇跡

2015年02月19日 15時22分48秒 | えいこう語る

▼ 3;11東日本大震災での福島原発事故で、心底身震いしたのは原発立地自治体ばかりではない。周辺自治体も同じだ。世界初のフルMOX燃料を使用する、原子力発電所が建設中の大間町が目の前にある函館市も同じだ。その会社が火力・水力発電専門会社で、原発は初めてというから「ウソ・シンジラレナイ」というのが、函館市民の恐怖だ。

▼ 福島の事故で、一旦工事を中止したが、民主党政権が、工事再開を声高らかに宣言したのだ。自民もシンジラレナイが民主もというのが、函館市民の持つ政治不信だ。それに対し「コノヤロウ」と怒ったのが、工藤函館市長だ。自治体初の原発建設差止め訴訟に、市民は拍手喝采を送る。市内最大組織である函館市町会連合会(183組織)も、殿に続けとばかりに、あくまでも自発的に「安心・安全なまちづくりへの戦い」に、ほら貝を吹いたのだ。

▼ 市民の熱意を国に届けようと、原発反対の署名運動を開始した。当初は昨年の12月1日から1月末までの予定だったが、衆議員選挙に突入したため、終了後の翌日、「大間原発反対」の幟をはためかせ、約一月半(48日間)のゲリラ作戦を展開したのだ。選挙の方は、候補者3人が、共に「大間原発反対」を叫んだ、原発反対一色のような選挙となった。こうなれば自民は不利だ。民主が勝ち、自民が比例復活となり、市町連にとっては反対の二人も入ったので、今後の活動に極めて重要な援軍となる。

▼ さて、署名動の結果だが、13万人にもなる予想外の結果だ。生まれて初めて、署名運動なるものを企画したが、運動計画に不備は多くある。もう少し日数を増やし戦略を練れば、さらに積み重ねができるのだが、この短期決戦は、おおむね成功と自画自賛していいだろう。

▼ 2度の街頭署名をおこなったが、寒さの厳しい中、老体に鞭打って、100名もの町会役員の協力があった。まずは,初戦で新たな絆が深まったことは、今後の戦いに勢いがつくに違いない。全国各地で原発反対運動が起きているが、函館市町連が注目されるのは、反対運動に保守的だと思われている町会が動いたことだ。

▼ 先日、読売新聞本社から記者がやって来てた。函館市民自治基本条例に基づき、まちづくりへの市民参加を促す活動を、市町連の役割としたと述べた。3月19日には、大間原発訴訟の第4回の口頭弁論がある。それに合わせ、経済産業大臣へ署名を届ける予定だ。市民の署名が裁判に影響を与えるのを期待したい。さらに、電力会社「電源開発」へも、函館市民に対し説明会の開催を要求する予定だ。

▼ 町会は、戦争時には体制翼賛の一翼を担った歴史がある。GHQにより、活動停止を言い渡されたこともある。そんなこともあり、政治的活動には首を突っ込んではならぬとの不文律が浸透している。だが、私たちの生活は、全てが政治的影響を受けている。政治的なものを、自ら拒絶する町会活動など、ありえないはずだ。町会活動の基本テーマは「安心・安全なまちづくり」だ。原発も安全保障も、町会活動のテーマとしては切り離せないというのが、市町連・総務部長である私のスタイルだ。

▼ 「48日間の奇跡」は、市町連活動の新たな方向性に、大きく舵を切ることになるに違いない。市民が政治に関心を持ち、一人一人が、市政や国政に注目する姿勢が、最も市民に求められている時代ではないかと思う。市議会や市長や道議や国会議員にお任せではなく、しみん自らが参加しなければ、真の「安心・安全なまちづくり」は実現できない。まちづくりの主役は『市民』なのだ。

▽読売の記者の言葉が心に残っている。「原発問題は、畢竟、民主主義の問題だ」と。そのあたりの内容が、全国紙に載ることを期待したい。函館市町会連合会の、戦後70年目の活動は、幸先の良いスタートをきったようだ。


戦争と教育

2015年02月16日 11時19分10秒 | えいこう語る

▼ 映画「永遠の0」が、テレビで3夜にわたり放映された。青年がなぜ特攻に駆り立てさせられたか、答えは明快だ。国家が個人の意志を支配し、服従させたからだ。学徒出陣時の学生たちの共通認識は「運命とは、従わざるをえなきもの」と解釈したという。生きて帰らぬことを誓わざるを得ない、極地まで国家は追い込んだのだ。特攻とは、国家により「死を選ぶしか選択の余地を与えられない」行為だったのではないかというのが、私の考えだ。

▼ 戦争が終った5年後の1950年、天野貞祐文相は「祝日には国旗を掲揚、君が代斉唱が望ましいとし、修身科の復活」の必要性を表明した。58年4月には、週1時間の「道徳教育」が実施された。その頃、広島県教組青年部が、死者が語れぬ以上、生き残ったものが死者の言葉を語らなければならないと考え、被爆体験記を募集・発表する計画を立てたところ、教育委員会から中止の要請があったという。理由は、米国の占領政策に反するとしての抑圧だ。

▼ 53年、池田勇人自由党政調会長と米国務次官補ロバートソンの会談では「日本政府の第一の責任は、教育及び広報によって、愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することにある」としている。また、朝鮮戦争下の特需景気で息を吹き返した経済界は、その発展に適した教育を国に求めた。

▼ 66年10月の「後期中等教育の拡充整備について」では、国民として正しい愛国心を持つこと、象徴天皇に敬愛の念を持つこと、象徴たる天皇を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずるとされ、天皇については、日本史において日本と日本国民の象徴として「ゆるがぬもの」をもっており、このような天皇を日本の象徴として自国の上にいただいてきたところに、日本国の独自な姿がある、としている。

▼ 70年7月の、違反訴訟を起した教科書検定の「家永裁判」の東京地裁での判決を記載する。家永は戦争経験を経た者として、憲法・教育基本法を踏みにじる検定に対し座視できなかったのである。「施設・設備などの教育の外的事項については、議会制民主主義を通じて実現されてよいが、教育の内容・方法という内的事項については、政党政治を背景とした、多数決で決することにしたしまず」。従って教師の自主的活動にゆだねるべきであると、明快な判段を示す。・・・この時期が政治上では、保革伯仲の時代であるということを、記憶すべきだ。

▼ これらは、山住正己著「日本教育小史」からの抜粋だが、私が余計な注釈を挟むことは控える。さて「永遠の0」だが、なぜ、好むと好まざるに関わらず、特攻やむなきになったかは「教育」にあるのは言を待たない。学校に軍人が入り、そのように指導したからだ。最近の、野党不在に近い、アベ政権の独走体制からは、憲法改正の大合唱が聞こえてくる。それに呼応するかのような、文部科学省の「道徳教育」の教科化である。「戦後レジュームの解体」の、屋台骨があらわになってきたような感じが、ひしと伝わる。

▼ 開国以来、富国強兵の実現のため、国民の学力向上が急務とされた。その学力向上が批判精神を育てるのを防ぐため、天皇制を通して国策に協力する姿勢をとらせようとした。そこには、教育勅語や修身教育が国民の心を涵養した。その浸透度は戦後においても、天皇批判は国民自らが自主規制したのだ。それは国民ばかりでなくメディアにおいても然りだ。敬愛する天皇像が象徴という存在なのだ。

▼ もしかして、先の大戦で日本を破滅に導いたのは「教育力」なのかもしれない。1999年「国旗。国歌法」が制定され、当時の野中自民党官房長官は「学校現場での強制はない」と明言した。だがどうだろうか。不戦の誓いを世界に明言した「九条」も、改正の流れが急速化してきた。さらに「道徳教科」の導入は、歴史を繰り返えそうとして、いるのではないだろうか。

▼ 「この道しかない」と叫ぶアベ総理。過去に学ぶ心が盲目になっていやしないだろうか。そして総理の朋友・作家百田氏のいう「永遠の0」とは、過去を「御破算に願いましては」という「積極的平和主義のすすめ」と私はみたが、私のほうが過去に盲目的理解をしているのだろうか。ますます、曖昧な日本の私だ。

▼誰かのささやく声が聞こえる。「お前こそ、道徳教育を受けろ」と。年齢を重ね耳が少しずつ遠くなっているようだが、その分、他人のささやきが聞こえ、混乱する今日この頃の私だ。


済し崩し

2015年02月15日 11時29分03秒 | えいこう語る

▼ 「済し崩しに既成事実が出来上がる」というのが、今のアベ政権の勢いだろう。施政方針演説は、国民に向い、戦後レジュームからの脱却に向け、宣戦布告するが如きの、力の入った演説だ。農政改革では「若者が自らの情熱で新たな地平を切り開くことができる、新しい日本の農業の姿を描く」などという文言は、満蒙開拓に借り出す勢いのようだ。いまや、アベ総理が発言すると、背後に「軍艦マーチ」が鳴り響くような感じを受け、恐怖感さえ覚える。

▼ ODA(政府開発援助)も、かなり不明な使い道はあるといわれているが、民生や災害救助など非軍事目的に限定した上で他国軍や軍事関係者への活動も対象とするとしている。ODAが、安全保障戦略に組み込まれるということは、海外で人道支援活動をしている日本人が、ますます危険になる可能性が出てきたということだ。それを守るためにも、自衛隊の活動を前面に出すという、実質審議に入ったという。

▼ 矢継ぎ早に、誰はばかることもなく、集団的自衛権行使や、憲法九条改正へと的を絞ってきたようだ。どうして、アベ総理の暴走を許してしまうのだろうか。不戦の国を、なぜ戦う国にしなければならないのか、ひどく、厭な気分になってきたこの頃だ。

▼ この頃、アベ総理がテレビに映ると、チャンネルを変えたくなるというのは私だけでないようだ。昔、角材を持ちヘルメットを被っていた友人から電話が入った。「この頃飲酒量が増えたのは、アベ総理のせいだ」と息巻いていた。それから、民主党北海道は、何をしているのだと、怒りの声を上げていた。

▼ さて、我が北海道の知事選、どうやら、4期目を目指す横綱はるみ知事に対し、フリーキャスター、のりゆきさんの一騎打ちの様相を呈してきた。民主党北海道が、独自候補の擁立を断念し、のりゆきさんを担ぐことにしたからだ。今まで3回戦って惨敗の民主党、得意技は“準備不足”だ。毎回、ぎりぎりまで候補者を絞れなくて、必ず負けるのだ。

▼ 一回戦目。民主党の最有力候補だったのは、現在、我が8区選出の逢坂衆議院議員だ。彼がニセコ町長時代に候補に上った。町長を辞任し、立候補100%と思われたが、土壇場で土俵を降りた。辞退する数日前、私たちの仲間で、逢坂氏を迎え勉強会を開いた。多分これが出陣式になると思ったが「出るんでしょうね」と聞いたが、黙っていた。今考えると、黙っていたのは、出ないということの意志表示だったのではないかと思う。今は懐かしい思い出の一場面だ。

▼ 共産党が独自候補を出さず、のりゆきさん支持に回ったのは、党にとっても高得点だ。新党大地の鈴木宗男さんも、北海道に吹く風を読んでの、のりゆきさん支持だ。2政党ものりゆきさんが「脱原発」を掲げたので、支持に回ったのだろう。そこが、民主党がぐずぐずして、支持に回れなかった理由なのかもしれない。現在の岡田党首は、福島原発事故後、大間原発建設再開を指示したからだ。

▼ 次期、北海道知事選は「原発」一点の戦いといってもいい。私は、原発再稼動派のはるみ知事を見限っているのだ。テレビの画面からアベ総理と共に、消えて欲しい一人だからだ。北海道は広大だ。選挙資金は2億円と言われる。のりゆきさんには、そんなことに惑わせられることなく、まずは「打倒!はるみ・脱原発」で「試される大地・北海道」の、輝かしい春を迎えてみたいものだ。