▼ ある会議で「君は思い込みが激し過ぎる」といわれた。「いや、想像力がたくましいだけだ」と反論した。宗教に熱心な人で、思い込みが激しい人を見かけることがある。自分の考えが正当で、他の意見は劣っているように思えるからだろう。
▼ 自信を持って発言する人は、納得させる力がある。だが、一方向からの考えしか持たなければ、視野が狭くなるのではないかと思う。想像力がたくましいというのは、あらゆる可能性を探り、より良い方向を選択するための、思考の多様性のことではないかと私は思うのだが。
▼ 大勢の中で自己主張をするには、ある一定の自己規制というものが必要に思う。それは、一般常識といえるものだろう。だがこの一般常識なるものも、人それぞれの能力や環境によって随分差がある。相手の意見が自分の規制能力を超えていれば、拒否感を持つに違いない。その意見に対し、想像力を持って対処できれば、さらに内容が深まっていくに違いない。
▼ 想像力とは、思い込みを超えるキャパのことではないかと思うのだが、そう思えば、思い込みが激しい人とは、想像力に欠ける人ということになる。でも「そんなことをいうから、君は思い込みが激しいのだ」という反論も聞こえるようだ。
▼ なぜ朝から、訳のわからないことをいうのかと言うと、第3次アベ内閣誕生以来、アベ総理が私の脳裏に居座ってしまっているからだ。アベさんが総理で要る限り、私の想像力は限りなく拡大方向にある。今朝の新聞トップは「文官統制・規制全廃へ」だ。朝刊を見るたびに「戦争をする国」への、軍靴の足音がどんどん近づく感じだ。アベ総理は、思い込みの激しい人物のようだ。自分の代で、日本国憲法を書き換えようとしているのだ。それを強力なリーダシップと信じて疑わないのは、すでに、ヒットラー並の思い込みの激しさではないか。
▼ 最近のアベ総理は、憲法改正に血眼になり、自爆テロも辞さない「イケイケ国」の主導者に思えてくるのだ。たぶん「憲法第九条」の解釈に対し、想像力が貧困な人物ではないかと想像する。人類が自ら地獄を招いた第二次世界大戦。なぜ、戦う国にするのが平和への第一歩なのか。「積極的平和主義」なるものは、独りよがりの思い込みに過ぎないのだ。
▼ 私のアベ総理への理解力というか想像力は、思い込みが激しすぎるといわれても、激しすぎてなんら不思議ではないように思うのだけれど。
▼「日本国憲法第九条」が人類最大の理想だと、思い込みすぎる人と、それは思いすぎだと思うアベ総理と、どちらが想像力に欠けているのか考えてみた、昨日を日曜日と間違え、NHK日曜俳句と短歌の番組を観ようと早起きした、思い込みの激しいタイプの私だ。