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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

キガ海峡

2012年04月22日 12時07分52秒 | えいこう語る
今年になって前浜は魚がまったくとれなく、漁師は悲鳴をあげている。
不漁の話は我が村ばかりではなく、近隣の町からも聞えてくる。
魚偏に花と書けばホッケだが、我がトドホッケ村が原産地と言われる伝説の魚今が旬の“ホッケ”も、間もなく山々に花が咲くというのに、どこへいったか一向に姿をあらわさない。
今朝隣町から魚屋さんがやって来た。やはりどこも魚がとれないと嘆いている。
魚箱を見ると春告魚の鰊がある。春告魚は土地土地で違うらしいが、北海道では産卵のため今時分に近海に入るので、そう呼ばれている。
北海道は、今ではイカや鮭が有名だが、昔はなんたって鰊の海だったようだ。
昔、鰊場の親方の娘さんだった方から聞いた話だが、昔の鰊は“キガキガ”していたという。今のスーパーに置いてあるものは、あれは本物ではないといういう。
今朝取立ての鰊の青光りは、やはり海の王者だったらしく、背は海色の見事な青さだ。
それに鱗が“キガキガ”しているのではないか。


さっそく刺身用に捌いた。
今夜が楽しみである。
私の村の南側は津軽海峡である。
作家水上勉がこの海峡を題材にし「飢餓海峡」を書いた。映画にもなったが日本映画史上不朽の名作だ。
魚のとれない飢餓海峡。それに春告魚の“キガキガ”した鰊の刺身で一杯やりながら、伴淳三郎・三国連太郎・左幸子さんの名演技を思い出し、ささやかではあるが、一人ぼっちでの大漁祈願祭をしようと思う。
私はこのたび、村にある7つの町会の、連合町会長に選出された。
函館市には187町内会があるが、その町会連合会の常任理事にもなる予定でいる。
重責だが発言権がある身分になるのが、私を奮い立たせる。
飢餓海峡の向には大間原発が、福島原発事故以来工事を中断している。
私はこの海の村で生まれ、海に様々なことを学ばせてもらった。
「安心・安全なまちづくり」これは先人たちが私に課せた、大きな責任だと考えている。
この大きな責任を背負い、2年間の職責を頑張ろうと思う。
函館市の今年の町会連合会会長には、私より若い57歳という異例の人事になった。町会連合会にも、やっと春が訪れたという感じだ。
楽しみな1年になりそうである。


小説家・宇江佐真理

2012年04月19日 14時54分29秒 | えいこう語る
ベルリンの壁が壊れた時、盛んに言われたの「パラダイムの変遷」である。
パラダイムとは、理論的枠組み、模範・典型とある。
つまり世の中の考え方や仕組みが、大きく変わるという意味なのだろう。
当時はなんとなくそんな感じはしたが、我が国はそれらの変化についていくことはなく、世界一の借金国になってしまった。
それでも特別悲壮感もなく、何とかなるという感じでいたが、貯めていた年金が役人に使われてからというもの、信頼という言葉が、我が国の辞書から削除された感じだ。
極めつけは、3:11の東日本大震災である。
地震と津波の自然災害の猛威に、なす術もなく立ちすくんだが、その後の福島原発事故は、地デジ放送という今までにない大画面と鮮明な映像で、国民の心を被曝させたのだ。
※庭の桜。今日の寒さでまたしぼんでしまった。


その後の国の対応は見て来たとおりである。
政治家の無能振りと、国家というものが如何に不安定で、信頼のない存在であるのかというのを、いやというほど知らしめさせられた。
ここまで来たら「パラダイムの変遷」は、我が国の必須の課題だろう。
ところが「政権交代」という「パラダイムの変遷」を国民に示した民主党が、解党寸前の自民党と、なんら変わらぬ政治スタイルをみせている。
そこに業を煮やしたというか、ここが攻めどこと捉えたのか「橋ズム」が台頭し始め、日本各地で蜂起の兆しが出てきた。
「パラダイムの変遷」は必要だが、なんだか日本人の特有の「人情味」が薄れ、殺伐とした時代に入っていくような気がする。
毎日、テレビや新聞をみても、心が晴れる日がない。
前置きが長すぎたが、心が荒みそうなこの頃に出逢ったのが、函館出身の歴史小説家・宇江佐真理さんの本だ。
江戸時代の下町の人情を描いている。日本人が貧しいながらも助け合い“生き粋”している。
「安心だ安全だなどとお上にだまされて、世の中めちゃくちゃになったじゃないか。わたしゃ、原発なんぞこんりんざい使うものかい」というような、真っ当に生きる日本人の姿が、作品中にちりばめれれている。
髪結い伊三次捕り物シリーズの「君を乗せる舟」を、早朝に布団の中で読んだ。
その場面に引き込まれ、人の情のあたたかさに思わず涙した。
朝刊を開くと、明日にも2閣僚の問責決議案が、参院で可決されるという。
そんな野暮な話は、江戸の庶民は見向きもしないだろう。
「てめえら、叩き切ってやる」。
火付盗賊改・長谷川平蔵の声が、どこからともなく聞こえてきた。


尖閣領土問題

2012年04月18日 10時46分22秒 | えいこう語る
私たちの身の回りでも、曖昧にしていることが結構ある。
例えば原発問題。首長・議員・市民で徹底討論を行い、「住民投票」を行えばいいと思うのだが、なかなかそうはならない。
首長も議員も市民の多くも、脱原発を主張しているのだが、どういうわけかそうはならないのが、世の中の不思議である。


しかし、その曖昧さがなくなると、ギクシャクしてくることがある。
国同士が主張する領土問題になると、これはギクシャクどころか喧嘩になる恐れがある。
戦う軍隊を持っている国と、戦わない軍隊を持っている国では、後者がどうしても押され気味になり、所有権を主張しずらい。
世間一般で例えれば、喧嘩する相手側に強そうな者がついていれば、喧嘩は避けて通りたいからだ。
尖閣列島を東京都が購入するというニュースは、お互いが曖昧にしていたものを隣の親父がでしゃばって、俺が解決してやろうと喧嘩に火をつけたような感じだ。
若い時から、目立ちたがり屋のでしゃばり男。
「なんか文句あるか」と、得意げな顔で「鬼畜米英」だった、米国でインタービューに応じるのは、意地悪爺さんそのものである。
そういえば元東京都知事には、青島さんという意地悪ばあさんがいたっけ。
震災の復興も儘にならない無能な政府に対し喝を入れ、してやったり顔である。
今は、尖閣問題についてはこの程度の感想しかないが、意地悪爺さん維新の会の橋下市長との、新党結成も噂されている。
領土問題に国旗・国歌の強制、学校内では武道の必修などの急激な動きもある。世の中の混乱に乗じ、なんか不穏な動きがないか、私たちは目を大きく開かなければならないのではないだろか。
「嵐を呼ぶ男」とは、もしかしたら、弟ではなく兄貴の専売特許だったのかもしれない。
ちょっぴり“青”い橋下市長、“嵐”の石原都知事。そういえば、昔「青嵐会」などいう、右傾の政治集団がいたっけ。


「絆」について考える

2012年04月17日 11時09分46秒 | えいこう語る
東日本大震災後、我が国の復興キーワードは「絆」となった。
私はこの言葉に、ちょっぴり違和感を感じていたが、どうやらその違和感の輪郭が見えてきたようだ。
「絆」という言葉、傷を舐めあってみんなで頑張ろうと聞こえる。
それは「挙国一致」「総力戦」「大政翼賛」「八紘一宇」などの、国家・国民が一丸となって突入した、戦争スローガンに似ている感じがしていたからだ。
震災後に、放射線汚染の瓦礫処理の受け入れを発表したある首長は、臆面もなく「日本人であれば「絆」と言うだけではなく、実際に痛みを分かち合わなければ意味がない」という精神論を強調する。
放射線汚染にも、この程度は何するものぞという「大和魂」の喚起に聞こえる。
中身がよく検討されていないのに、スローガンだけが先行し、民意をその路線に乗せてしまうというやり方は、芳しくない。
「税と社会保障の一体改革」というのも、世界一の借金大国に「増税やむなし」と思わせ、やんわり「社会保障も充実させるよ」と「一体改革」をただふっ付けているだけなのだ。
このやり方は「原発再稼動で電力不足を阻止し、そのためには、高レベル放射性廃棄物の地中埋設の一体改革」というのに、似てはいないだろうか。
※』ある日、砂浜で休んでいた黒ガンがいっせいに旅立った。どこから集ったのか、すごい数で。


「でっかいどう北海道」という、北海道の優位性を謳うスローガンがあるが、地中埋設計画を受け入れようとする動きが、道内各地にあるようだ。
もともと核のゴミの地下研究施設がある幌延町、財政破綻で再建中の夕張市、それに、興部町だ。共に過疎・高齢化・財政難にあえぐ地域である。
誘致活動に変化が見られるには、以前は議会や首長が発案していたのが、市民からの要求が増えて来たいうことである。ここに違和感を感じる。
市民が財政再建まで考えることなど、普通はないのだ。これは上からの指示で動いているに違いない。行政主導はもはや立ち行かなくなったので、民主主義の基本である「市民が主役」という手法に、シフトさせていこうということではないか。「市民参加」に「絆」というキーワードが生きているのである。
朝起きて、あれやこれやと考えてみたが、歴史の教訓として、財政が逼迫し、その活路を見出そうとする時、なにやら不穏な動きが忍び込んでくるのだ。
世界一の借金に東日本大震災、さらに原発事故。戦後最大の国難がせまってきているのを、ひしと感じる。
私たち国民は、政治家やマスコミの一言一言に全身全霊を傾け、我が国が崩壊しない方向に舵を取らせなければならないようだ。
国家による国民への目くらましの第一歩は「直ちに人体に影響はない」という、責任感のまったくない、あの言葉に現れているのかもしれないのだ。
今テレビで観たのだが、民主党の仙石さん「原発再稼動をしないと、経済が立ち行かなくなり「集団自殺」だ」と講演したようだ。
「集団自殺」といえば、沖縄戦を思い出す。福島原発事故は沖縄戦後のヒロシマを連想させる。その次のナガサキが発生しなければ、我が国は「脱原発」にシフトしないのではないかと思う。
「絆」とは、そんな流れを連想される、一種の「洗脳」的な意味を含んでいるように感じられる、この頃である。


メルトダウンしている民主党

2012年04月16日 16時13分24秒 | えいこう語る
富山県から車で来たお客様が、自分の目で確かめようと、東北の被災地を回ってきたという。
町の隅に小山のように積まれる瓦礫がいくつかあり、町中は広い平野のようになっているという。なぜ町の復興がなされないのかと、広大な平地を眺め政府の無能ぶりに怒りを覚えたという。
枝野経産大臣が大飯原発再稼動に向け、福井県民の説得に向かった。それをテレビで観ていた被災地の人たちは、どんな気持ちでいたのだろうか。
復旧工事が進まないのは、福島原発がまったく収束ができていないからだ。
もしかして周辺には、人が住めない状態になるかもしれないからだ。
※静かで平和な朝を迎えたいものだ。


それでも福井県おおい町の住民からは、生活ができなくなるから原発再稼動との声が聞こえる。福島原発事故は自分とは関わりない事故なのだろうか。
原発依存体質は、麻薬依存より恐ろしい。麻薬は本人や家族が壊れるが、原発は、地域や周辺自治体までも巻き込み。さらに子孫までにも影響を及ぼすのだ。
政府広報で「原発撲滅宣言」をしない民主党は、国民の生命・身体の安全を保障しない政党なのである。北朝鮮のミサイル事件の対応などを見ても、漫画を見ている単純さではないか。“ジャイアン”の体に"のびた”がくっついたような防衛大臣では、民主党には国民は期待していないのである。
笑っている場合ではない。我が広大な大地北海道の幌延町。高レベル核燃料廃棄物を地下埋設処分にするの実験施設がある。
実際には使用しない研究施設として、着々と整備されてきた。整備されてきたので、ここを利用しようとの動きが出てきたのだ。もちろん国とそこを運営する日本原子力研究開発機構、それに元通産官僚の知事が加わり、町に打診してきているのだろう。多額の交付金を目の前にぶら下げて。
役所や議会が率先して動き出すのは拙い。そこで地元商工会長から口火を切らせる。「国難である。早く処理をしたいので、来年にも促進期成会を立ち上げたい」そのような発言である。
大間原発も地元商工会の要望によるものだというが、村社会では商工会などは役所の傘下にある。町の振興に関わることは、役所と議会が水面下で動き「使いっ走りは」商工会だ。
幌延町も見え透いた、田舎芝居なのだ。
民主党も、自民党と手法がなんら変わりなくなってしまった。
もはや自由民主党である。
これでは、暴れん坊将軍“橋下党”が台頭するのも、止む得ない。