父が亡くなってからその跡を継ぎ、村にある浄土宗のお寺の総代の一人に、39歳から就任している。
総代といえば偉そうだけど、宗教とはなんなのか、お経はどんな意味を持つのかも、まるで勉強したこともない。
東京大学文学部に印度哲学科というのがあるという。そこを卒業された「ひろ さちや」さんと言う人の本を読んでみた。
「観音経」の中に「遊於娑婆世界」という言葉があります。
私たちはどこから来たのか、極楽浄土から娑婆世界に遊びに来たらしいのです。「遊戯」とは、何ものにもとらわれないことをいうそうです。そして、周囲の人みんなが観音様の化身だそうです。
隣の憎たらしい親爺が、観音様の化身かもしれません。だから相手を評価するのに、普通の物差しで計ってはだめだそうです。「仏の物差し」を使わなければならないそうです。
娑婆世界は苦しみの世界です。だからこの世界で修行することに意味があるのらしいのです。
※海岸を散歩していたら誰かがこんなのをつくって遊んでいた。子供の仕業ではない大人が遊んだのだ。
海に来ると誰もが子供のような心になるらしい。

人間はこの世に客としてやって来たと思えば苦労はない。満足できる食事が出されたら、ご馳走に思っていただき、満足できぬ時でも、自分は客であるから誉めて食わなければならない。夏の暑さ、冬の寒さも、客であるからじっと耐えねばならぬ。子や孫、兄弟たちも、自分と一緒にやって来た相客と思って仲良く暮らし、心残さずさらりと辞世しなければならぬと書いてあります。
ここまで読んで、私は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を思い出しました。
「父母に喚ばれて仮の客に来て心残さず帰る故郷」
私たちの故郷は仏の国である浄土で、この世に客となって来ているそうです。お客だから思うがままになることは少なく、いろいろ苦労があります。しかしその苦労に耐えなければなりません。そして故郷に帰る日が来れば、心を残さずに辞去して、浄土に帰ろうではないかと、書いてありました。
読んでもよくわかりませんでした。
わからないということは修行が足りないということなので、もうすこし客として、娑婆で遊べということなのかもしれませんね。
これって仏の物差しで計っているのだろうか。
それ自体もよくわからない、檀家総代の私です。
総代といえば偉そうだけど、宗教とはなんなのか、お経はどんな意味を持つのかも、まるで勉強したこともない。
東京大学文学部に印度哲学科というのがあるという。そこを卒業された「ひろ さちや」さんと言う人の本を読んでみた。
「観音経」の中に「遊於娑婆世界」という言葉があります。
私たちはどこから来たのか、極楽浄土から娑婆世界に遊びに来たらしいのです。「遊戯」とは、何ものにもとらわれないことをいうそうです。そして、周囲の人みんなが観音様の化身だそうです。
隣の憎たらしい親爺が、観音様の化身かもしれません。だから相手を評価するのに、普通の物差しで計ってはだめだそうです。「仏の物差し」を使わなければならないそうです。
娑婆世界は苦しみの世界です。だからこの世界で修行することに意味があるのらしいのです。
※海岸を散歩していたら誰かがこんなのをつくって遊んでいた。子供の仕業ではない大人が遊んだのだ。
海に来ると誰もが子供のような心になるらしい。

人間はこの世に客としてやって来たと思えば苦労はない。満足できる食事が出されたら、ご馳走に思っていただき、満足できぬ時でも、自分は客であるから誉めて食わなければならない。夏の暑さ、冬の寒さも、客であるからじっと耐えねばならぬ。子や孫、兄弟たちも、自分と一緒にやって来た相客と思って仲良く暮らし、心残さずさらりと辞世しなければならぬと書いてあります。
ここまで読んで、私は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を思い出しました。
「父母に喚ばれて仮の客に来て心残さず帰る故郷」
私たちの故郷は仏の国である浄土で、この世に客となって来ているそうです。お客だから思うがままになることは少なく、いろいろ苦労があります。しかしその苦労に耐えなければなりません。そして故郷に帰る日が来れば、心を残さずに辞去して、浄土に帰ろうではないかと、書いてありました。
読んでもよくわかりませんでした。
わからないということは修行が足りないということなので、もうすこし客として、娑婆で遊べということなのかもしれませんね。
これって仏の物差しで計っているのだろうか。
それ自体もよくわからない、檀家総代の私です。