▼物価高で生活が困窮する日本。こんな国ににしたのは、戦争が終わり民主主義を最良の考えだと信じた、私たち国民のせいではないかと、自問自答するこの頃だ。
▼近年民主主義が最良かどうかが、問われる事象が多くなっている。世界では戦争が勃発し拡大傾向にある。
▼とはいっても自衛のために憲法まで変えて、戦争ができる国に戻ろうとするのは、いくら何でもご免だ。結論は民主主義ではない国になりたいとは、思わないからだ。
▼そこで自分の民主主義の熟知度を考えてみる。とはいっても田舎に住みっぱなしのおやじでは、何が民主主義なのか即答は不可能だ。
▼そう大上段に構えれば、思考が停止してしまう。そこで近年起きた事件を取り上げ、民主主義とは何かということを考えてみたい。
▼袴田事件が58年目に無罪となった。事件の内容は皆さんが知っているので省くが、冤罪で死刑宣告をされ、本人は精神まで壊されてしまった事件だ。
▼裁判長は冤罪を認めたが、検察側になんの罰則もない。死の恐怖を与え続けた側が裁かれないのは、正義がどこにあるのかを究明しない、司法というものの存在に疑問を持つ。
▼もっと身近なことでは、我が北海道で最近こんな二つの事件が起きた。これなど民主主義国家として、真っ当なものかということの疑問を抱かせる。
▼2018年砂川市で、熊が民家付近に出没したというので、市側がハンターを要請し駆除を依頼した。
▼ハンターは熊に発砲した。だが付近に建物があるというので、道警は「鳥獣保護管理法」の疑いで、ハンターを書類送検し、その後公安委員会がハンターの銃の所持許可を取り消した。
▼一審では公安委員会の処分を違法としたが、道警を管理する道側が、判決を不服として控訴した。
▼高裁での二審判決は『一審判決取り消し』を言い渡した。ハンターは当然不服として上告する構えだ。
▼私は以前ベテランのハンターに尋ねたことがあるが「野生の熊の恐ろしさは尋常ではない」と語っている。
▼市からの要請で駆除に出たが、現場での判断で発砲したのは、充分に周囲の環境も考慮した適正な判断だったのではないか。見逃せば民家に侵入され、ハンターも襲われる可能性もあるからだ。
▼以前にも熊が国道に出没し、警察が目の前にいても発砲しない場面が放映されていた。警官は直接命の危険にさらされる以外は、発砲してはいけないとなっているようだ。
▼それに一発発射すると、始末書を提出するのが複雑で厄介だというのも聞いたことがある。そうであればよっぽど身の危険にならければ、拳銃の使用はできないことになる。
▼また拳銃の威力では熊は即死せず、襲ってくる可能性は大だ。だがこのクマへの発砲では『同行者が弾が別のハンターの銃に当たった』とする表現もあるという。
▼このことは別として、私が二審が道警の判断を認めたことに対し、妙に引っかかるものがある。発砲の判断は依頼されたハンターに任されているということだ。
▼高裁の裁判長の発言だ。『猟友会の献身的活動に公的機関が依存してきた実態は否定できず、駆除について議論の余地はあるが、処分がどうかの問題とは別だ』と話している。
▼これに対しハンターは『現場を理解しない不当な判決だ。駆除が処罰の対象となるのならば、全道のハンターはクマを撃てなくなるだろう』と憤ったという。
▼ここでふと思い出したのは、知床沖で遊覧船が嵐にあい沈没した事件だ。当時気象状態が悪かったが、社長は船を出せといった。船長は社長の命令に従った。
▼突然波が高くなり、船の整備不良も重なって沈没し、全員が命を失った。だがテレビで観る社長の言動が、多くの視聴者のイメージを悪くした。
▼弁護士に言われているのだろうが、責任はは現場にいる船長にあるということだ。そこで戦争を考えてみた。
▼作戦本部から命令が出て、現場の隊長は命令に従う。そこで敵の大反撃を受けたとする。
隊長は必要以上の力を発揮し、敵を殲滅させた。
▼やがて戦争が終わり、結果敗れたとする。その残虐行為に対し、やはり責任を問われるのは現場の隊長だ。作戦本部ではない。我が国の敗戦では「大元帥閣下」も、責任が問われなかったからだ。
▼遊覧船の社長は、証拠隠滅の恐れがあるというので「拘留」されたが、すぐ保釈金を払い釈放された。これは拘留させる側の理由に、無理があったということではないか。
▼弁護側は、社長の管理責任は問われるが、直接の責任はないという考えに思える。一見理不尽な考えだが、今の裁判ではあり得るということではないか。
▼熊の駆除を頼まれたハンターが、責任を負わさせられるそんな司法の判断だからだ。司法は国民主権である民主主義の世を、公平に裁く唯一正義の場だ。
▼巨大化した自衛隊を、多くの国民は【憲法9条違反】だと考えている。だが最高裁判決の多くは「国策に関する問題は司法判断には馴染まない」という考えを示す。やけに自衛隊には甘い考えだ。
▼北海道の二つの事件から、そこまで考えることはないのではと言われるかもしれないが、
『正義』とは何か『民主主義』とは何かということを、もう少し敏感に考える時代がやってきたのではないかと思う、今回の解散総選挙の真っただ中だ。