ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

蓬莱橋からの帰り道 3の3(最終記事):牧之原台地の茶畑を経由してJR金谷駅まで

2024-08-26 04:12:42 | 草花

蓬莱橋を対岸に渡り終えて、小高い所から眺めたり、河原に下りて橋を見上げたりして、別れを惜しみます。

その後は70mほど山中の坂道を登って台地上に出ますが、そこは日本でも有数のお茶の産地でもありました。

橋を覗く”窓” ↓

林間にこんな場所がありました。渡って来た長い橋を望めるようです。

 

”窓”から見た橋のほぼ全景 ↓

こんな景色が待っていました。向こう岸は島田の市街になります。

 

今度は河岸まで下りて見ます。

 

ヤブミョウガ ↓ ↓

 

花と実を見ることが出来ました。

 

近づいて ↓

 

見上げます。 ↓

橋脚がすらりとしていて長いですね。

 

見納め ↓

対岸の島田市街方面まで延びた姿を見納めにします。

 

台地の上を目指す ↓

河岸から約70mの高度差は日陰の山道で涼しく上っていけました。

 

牧之原台地の上に出ます ↓

牧之原台地では茶の生産が盛んで、大井川右岸には面積5,300haに及ぶ「牧之原大茶園」が広がり、全国の茶園面積の約12%を占めています。

それは1869(明治2)年7月、最後の将軍慶喜を護衛してきた幕臣たちが勝海舟たちの命を受け、中條景昭、大草高重らが、牧之原台地での茶畑

の開墾を開始したことから始まります。
当初は大変厳しい環境の中で、筆舌につくせない苦労の連続でありました。
勝海舟は、旧幕臣たちから様々な問題に関して相談を受け、経済的な援助も惜しみませんでした。
1873(明治6)年には、仕事を失った川越人足たちも約30㏊の茶畑を開墾し始め、1878(明治11)年には約41㏊に拡張された。

勝海舟は1875(明治8)年に官職を辞した後も、影に日なたに牧之原台地開拓士族を物心両面で援助し続けました。

茶畑の開墾を支援し続けた勝海舟たちの存在を抜きに、島田市に広がる「牧之原大茶園」を語ることはできないでしょう。

「牧之原大茶園」 ↓

茶畑の間を通る車道を「日光浴」しながらトボトボと歩いて行きます。

 

スベリヒユ ↓

道沿いで見た花はこれだけだったような気がしました。ほかには林縁でカラスウリが頻繁に出て来ましたが、

真昼間ですので花は咲いてはいません。

 

金谷駅 ↓

駅の浜松よりにはトンネルがあります。旅の情緒を醸してくれますね。

 

この電車で ↓

この電車で、浜松まで行き、乗り換え、以後豊橋、岡崎で乗り換えて午後2時少し過ぎに帰宅。

コメント (6)
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