ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

彦根城観覧  下の部(3の3:最終記事) 大名庭園を見て、帰途につく

2024-08-09 04:22:56 | 草花

大名庭園という言葉を聞き慣れていなかったのでネット上で調べたところ、wikiの以下のような記述に行き会いました。

「大名庭園とは、江戸幕府政権下の江戸時代において、各藩の大名が江戸や地元で築造した庭園である。各藩がそれぞれ競い合った結果造園技術は発達し、江戸時代に日本庭園築造技術が頂点をなしたとされている。」という記述に行き着き、その説明の中に今回見て来た「玄久園」の写真が添えられていたのでびっくりしました。この「玄久園」は大名庭園の代表例ともいうべきものなんでしょうか。

西の丸三重櫓から琵琶湖 ↓

三重櫓に入り、そこから琵琶湖を見渡します。湖面の小島もぼんやりと見えています。

 

伊吹山 ↓

伊吹山は上部の輪郭がほんのうっすらと雲の中に見える程度です。手前は滋賀県立彦根総合運動場。

 

本丸の高台から黒門山道を下り、次の玄久園(庭園)を目指します。結構長い下り坂でした。

 

下り坂の途中で天守閣を見上げる ↓

 

黒門橋 ↓

 

黒門橋から内堀 ↓

 

玄久園に入って行きます。庭園部分を「玄久園」、建物部分は「楽々園」と呼ぶそうです。

 

槻御殿

井伊直弼がここで生まれたとされています。

 

臨池閣越しに天守 ↓

 

アップで ↓

 

臨池閣 ↓

 

 

茶室 ↓

所望すればお茶も頂けるそうですが、小生はそういう雅な心を持ち合わせていません。

玄久園から退出して有料施設から出て来ます。

 

井伊直弼像 ↓

銅像は明治時代、直弼の遺徳を顕彰しようとする旧彦根藩士らによって建立されたもので、最後の官職だった正四位上左近衛中将の正装。安政5年(1858年)4月、幕府の大老となった直弼は同年6月「日米修好通商条約」に調印して開国を断行したものの大老の信条を汲むことのできなかった水戸浪士達に万延元年(1860年)3月3日桜田門外で暗殺されました。ときに46歳でした。

ここに「一身に責負ひまして、立ちましし大老ありてこそ、開港はなりぬ」という井伊文子さんの石碑が添えられていました。

井伊文子さんは前記事で記述した、「殿様市長:井伊直愛」(井伊直弼の曾孫)の奥さんに当たります。この文子さんも

琉球国王尚泰の曾孫ということですから凄いご夫婦ですね。

 

城の敷地から離れて帰り道を進みます。

 

井伊直弼の歌碑 ↓

「「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」」とあります。

水戸藩士が頭を冷やしてこれを読んだらどう感じたでしょうね。

 

城から遠ざかる ↓

これがお城を撮った最後のものとなりました。

 

外堀 ↓

帰りの道で水のない外堀跡を見ていきます。

 

彦根市役所 ↓

 

駅前通り ↓

突き当りが彦根駅です。

 

ひこにゃん ↓

 

井伊直政像 ↓

彦根駅前に戻ってきました。徳川四天王であり、彦根藩の初代藩主でもあり、彦根発展の基礎を作った人ですからかかる待遇は当然のことでしょうね。

 

伊吹山 ↓

帰りの車中から撮った真夏の昼下がりのお山です。

 

大垣行きの電車内 ↓

女性運転士さんでした。線路は単線です。

コメント (6)
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