ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

「おのぼりさん」 4の4(最終記事) 明治神宮参拝 

2024-08-13 04:24:16 | 草花

旅の最後は明治神宮参拝と定めていました。

今回、明治神宮参拝には二つの目的がありました。

1つは、亡父が明治神宮崇敬会に入っていたので、そこを一度は参詣したかったこと。

2つ目に、150年後を見据えた、壮大な人工林構想の104年目の今を確かめたいこと。

この二つでした。

73ヘクタールに及ぶ広大な神域は、寛永17年(1640年)より彦根藩主・井伊家の下屋敷となっていたもので、この土地が1874年(明治7年)、井伊家から明治政府に買い上げられて南豊島御料地となっていたということです。

神宮の創建は明治天皇崩御後の1920年(大正9年)11月1日で、 祭神は明治天皇と昭憲皇太后であります。

現在の杜の木々は当初、全国からの献木約12万本が勤労奉仕の青年団員の手によって植樹されたとされています。

樹種の選定は「植生遷移」という概念が持ち込まれて適用されました。
神社の鎮守の杜としては杉やヒノキなどの針葉樹林が考えられたが、この地は暖帯であり、都心に近く、煙害に強い必要があることから、針葉樹は不適とされたようです。
そのために、.広葉樹、特に樫、椎、楠を中心とした広葉樹林を目指すこととなったのです。
当初は成長の早い針葉樹もあわせて植林し、遅れて広葉樹を成長させ、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に想定したものでした。

戦後から1960年代にかけてクロマツ約2000本、アカマツ約1000本が公害や病虫害の影響により枯死、一方1970年代には煙害に抵抗力があるとして植えられたクス類が確実に本数を伸ばし、森林の遷移が順調に進んでいることが確認されたのです。

2019年の調査時では樹木数は約3万6000本に減っている代わりに、残った木が巨木化しつつあります。

これは参道を掃き清める際に集めた落ち葉を森に戻す以外は人為的な手を加えず、森の変化を自然淘汰に任せているためであると考えられています。

原宿駅から ↓

この駅から社殿を往復しました。

 

神宮橋を渡って行きます。

 

 

第一鳥居 ↓

左側に外国人の団体が輪になって説明を聞いています。この参拝では実にたくさんの外国人を見ています。

(この日の構成では、外国人数が日本人参拝者数を凌駕していたと思います。)

 

参道(5枚) ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

 

 

 

 

創建当初の「植生遷移」の構想通りに、小生の身近にある鎮守の森の森厳たる空間というよりも、

明るくて広々とした、空気の通りの良い森という印象でした。先賢の智慧の結実を見た思いでした。

 

「代々木」という地名の由来 ↓

この看板に「代々木」地名の由来を記してありました。

代々樅(もみ)の大木があったことから「代々木」という地名が生まれたそうですが、その木は先の戦争で焼けてしまったそうで、背後の木を植え継いだそうです。

 

酒樽展示 ↓

 

愛知県産も健闘 ↓ ↓ ↓

 

 

 

大鳥居 ↓

1966年(昭和41年)7月22日に大鳥居が落雷によって破損したため、新たな鳥居を1975年(昭和50年)12月23日に建立。初代の鳥居は台湾の阿里山で伐採された樹齢1200年超の大檜を用いていたが、2代目の大鳥居も、阿里山連峰の丹大山で発見された樹齢1500年超の大檜を用いている・・・ということです。もう内地では大物ヒノキが払底しているのでしょうね。

 

落ち葉集め ↓

こうして集めた落ち葉は必ず森に返していると聞きます。

 

御祭神の御製の歌 ↓

 

手水舎 ↓

ここで手・口の浄めをします。

 

南神門 ↓

あちこちに外人が来ています。

 

外拝殿 ↓

 

拝殿からは写真撮影ができませんので、参拝だけしました。

 

夫婦の楠 ↓

良い木陰を作ってくれています。

 

参拝を済ませて、駅に戻ります。

 

原宿駅 ↓

ここから品川に出て、東海道本線を乗り継いで帰ります。

帰りの電車が地震(南海トラフかどうか)の影響で止まったりしました。

明るいうちに帰宅出来て、庭の草木に水遣りをする時間も持てました。

地面がカラカラで、枯れる草木も出ていますので、切実に雨が欲しいですね。

コメント (6)
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