ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

1/24日 三河八橋の伊勢物語旧跡まで 風に向かって歩いて行こう。

2019-01-25 10:20:05 | 草花
昨日はやや強めの北西風がひっきりなしに吹いている一日でした。
そのために自転車での遠乗りはやめにして、歩いてちょいと遠くまで行って見ることにしました。
目的地は知立市の八橋に決めました。

その場所は伊勢物語でゆかりの地でもあります。
愛知県で尾張名古屋の東部は、かつて三河の国と呼ばれていましたが、その西部は豊田、知立、刈谷、安城、岡崎などを西三河と呼んでいますが、それよりさらに東は豊橋、豊川、新城、田原などを東三河としています。

平安時代に著わされた伊勢物語の9段にある東下りでは、 「三河の国八橋」(現在は知立市八橋)ですから西三河での出来事になります。

在原業平と見なされる男が歌を詠んだ、とあります。
むかし男は、都への未練を残しながら東下りの旅をつづけ、こちら(知立市八橋)まで来て下の歌を詠みます。

  からごろも きつつなれにし つ ましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ

これは小生も高校時代に古文か何かで学んだことでした。
各句のはじめをつなぐと「かきつばた」になる、「折句」という技法が使われていたんですね。
「三河の国八橋」で「かきつばた」が一面に「いとおもしろい風情で咲いていた」ものを詠んだ歌ですね。
上の歌を現代風になおすと、「着慣れた唐衣のように馴れ親しんだ妻を都に残していますので、はるばるこんな遠くにまで旅をして来たものだ、としみじみ思うことです」となりましょうか。

その三河八橋には関連する旧跡が残っています。そちらまで片道一万歩、往復で約15km弱の道を歩いて来ました。

切干大根つくり ↓

寒風の吹く中で切干大根つくりをご夫婦でやっていました。写真を撮らせてほしいといったところ、人間は入れないで・・・と言われてしまいました。
大根は刻んだばかりで、シャキシャキのものでした。



地蔵尊 ↓

西三河は信仰心の深い土地で、古くからある村落の辻ではよく地蔵尊を見ます。



在原寺 ↓

風に向かってひたすら歩いて八橋地内に入ってきました。はじめに在原寺(ざいげんじと読むのでしょうか)に着きました。ここは無人の寺のようでした。在原業平の菩提を弔うために建立されたとありました。



椿 ↓

在原寺の境内で咲いていました。このお寺は無人でいかにも寂れた感じでしたが、これから後に訪れたどのお寺も境内はひっそり閑としていて、ひと気の無いのがとても異様に思えたことでした。



クチナシ ↓

八橋地内の狭い裏道を歩いていて、派手に実をつけているこの木を見ました。



無量寿寺 ↓

目的地に着きました。お参りをしてから、境内にあるカキツバタ園などを見てから、北風を避けるにはおあつらえ向きの、本堂南側の石段に座ってもぐもぐタイムを取りました。



芭蕉の連句碑 ↓

松尾芭蕉もこの地を訪れたようで、弟子の下里知足に案内されてこの地に遊んだようです。
1685年四月に連句の席で”かきつばた われに発句の おもいあり”と詠んで、その後を弟子の知足が”麦穂 なみよる 潤いの里”と続けた句が石碑に刻まれていますが、碑面の文字はあまりにも達筆過ぎて、また彫りが古くて判読不能でした。
(念のために申し添えますが、この石碑の建立は、連句の席からは92年後となる1777年のことであります。)



アセビ ↓

境内ではアセビがつぼみをつけていましたが、こんな平地で、しかも日にさらされて、良く生きて居るものだと思いました。

これにて帰りの道に入って行きます。なるべく往きとは重ならないような道筋を選びます。

遠くの見通しがやや利くようですので、最後は例の高楼に登ってから家に戻るようにします。

木曽御嶽 ↓

木曽御嶽は頂上部分が不鮮明でした。



中央アルプスと恵那山 ↓

こちらもくっきり・スッキリとは見えていません。

家を出てから3時間30分後、二万歩を歩いて家に戻ってきたのですが、結局、風は歩き始めから、歩き終わるまでずっと吹いていました。

コメント (6)
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