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ウィーンのカフェの物語








どの世代に分布したイメージなのかは知らないが、わたしの世代でウィーンのうまいものといえばウィンナー・コーヒーとか、ザッハ・トルテだろうと思う。

アップル・シュトゥルーデルとかウィンナー・シュニッツエルもそうなのかな...
とりあえず、ウィンナー・コーヒーとザッハ・トルテは鉄板だろう。

神戸ではわたしが小さい頃にはカフェ文化が根付いていたため、ウィンナー・コーヒーは子供の頃から記憶があるし(友達はウィンナー・ソーセージの入った恐ろしい飲み物だと長い間思っていたと言っていた!)、ザッハ・トルテは今はなき「フーケ」の名物でもあった。

ベルギーでワッフルのことをベルギー・ワッフルと呼ばないように、オーストリアでは生クリームが乗った華やかなコーヒーのことをウィンナー・コーヒーとは呼ばない。
「アインシュペンナー」というそうだ。
美術史美術館のカフェではまずカップにたっぷりと生クリームが入っていて、コーヒーはポットから注ぐ。これがすてきだった。

わたしの気に入りはカプチーノ風「カプチーナー」よりミルク多めの「メランジェ」。

濃いコーヒーが好きな夫は「シュバルツァー」。

「こうしてコーヒーの種類は200に達するという。スノッブといえるほどコーヒーにうるさいが、そのこだわりは『コーヒーのたてかた』へのこだわりだ」(上田浩二著「ウィーン 『よそもの』がつくった都市」)





(左は気に入って何回か行った可愛らしいカフェ。朝食から始まり、夜中は2時まで開いている。
右は有名なカフェ・セントラル。観光客が長蛇の列を作っていた。
写真はないが有名どころではカフェ・ラントマンをすすめられた。



コーヒーがオーストリアに入ってきてのはオスマン・トルコを通してだそうだ。
大トルコ戦争中に諜報活動をしていた男が、撤退したトルコ軍の天幕の中で火薬ではない黒い粉を見つけ、その男がヨーロッパで最初のカフェを1684年ウィーンで始めたそうである。1650年には英国にも初のコーヒー・ハウスができている。

「初恋のように甘く、悪魔のように黒く、地獄のように熱い」(タレーラン)コーヒは非常な勢いでヨーロッパに広まっていく。


わたしは甘いものが苦手で結局タイミングも合わず、ザッハ・トルテには手を出さなかった。デメルにはお土産だけを求めに行った。クリスマス前に行ったら絶対に食べてみよう...
美術史美術館のカフェのアップル・シュトルゥーデルは昼食代わりに勇んで注文し、おいしかったが6割でギブアップ。
パーク・ハイアットのカフェの大きいエクレア風ケーキは夫と最初からシェア。
とても可愛い上の写真のマジパンとマスカルポーネのケーキも半分しか攻略できず。

おいしいけれどそういう類の甘さだ。
「あかん、もう食べられへん」と、わたしが残すものを全部食べてくれるのは夫。


ちなみにおやつでよく食べたのが屋台のカレーソーセージ! これが好きなのです。



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i love you, porgy (porgy and bess)








昨日はオペラ「ランメルモールのルチア」Lucia di Lammermoorのリハーサルを見に行くつもりだったのだが、鉄道がストをしていると知った時は、車で出かけては間に合わない(当然スト中は道が混むのである)ような時間だった...ああ。

代わりに少し前のPorgy and Bess話を。

ジャスのスタンダードとしても広く愛されている"Summertime"をソプラノが歌い上げて幕が開いた。
美しいが、この音の高さでは子供は興奮して寝つけないだろうと思いつつ、1920年代のアメリカ南部の話に引き込まれていった。

イングリッシュ・ナショナル・オペラのPorgy and Bess
このオペラは初めて見た。「サマータイム」以外にも馴染みの曲"I Love You, Porgy"などがあり、今か、今歌うかとワクワク。ビル・エヴァンズのバージョンが好きで娘によく弾いてもらったものだ。


この作品は1935年にガーシュインが作曲したオペラで、「ミュージカルの先駆け」と評価されているそうだ。

昨日は4つほどの学校から生徒さんたちが招待されていて、中学生くらいだろうか、上方の階に座っているようだった。
彼らは舞台上の出来事、歌手の演技や話の大きな転換にいちいち大きく反応し(まるで古代ギリシャ劇のコロスのようで)、わたしはそれを含めて全体をとても楽しめた。下の方の階のわれら年寄りも、つられて大笑いしたり、手を叩いたり、口笛を吹いたり。
性的な表現になったときの中学生の反応といったら! 

となりの母娘は「今日はいつもと観客層が違うわね(オペラを見慣れていない人が多くて嫌だ、の意味)」と話しかけてきたが、わたしは作品の生き生きした良さがさらに引き立ってとてもいいと思ったのだ。

ちなみにバーンスタインは、歌によってドラマが進行するのがオペラで、ドラマの結果としての感情を歌に託するのがミュージカルと定義している(ウィキペディアより)。
ずっと歌っているのがオペラ、感情の高まりとともに歌い出したり踊りだしたりするのがミュージカル、といったところか。その伝でいうとこの作品は絶対にオペラである。
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アントワープの「狂女フリート」








先日訪れたウイーンのブリューゲル展にはもちろんこちらの大作も展示されていた。

Dulle Griet「狂女フリート」(部分)

この絵の所蔵はアントワープの賑やかな街中にあるマイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館だ。
典型的な個人収集のこぢんまりした趣味の良い邸宅美術館。
「狂女フリート」以外にももう一点「12の諺」という愉快な作品もこちらにある。
関係のない話だが、チケット売り場にこの世のものとは思えないほど美しいボルゾイがいて、思いきりナデナデせてもらい、気分が華やいだ。

ウィーンの展覧会に出展中で当然「狂女フリート」は不在、常設のその位置に、最近行われた修復にまつわる話がビデオ公開されていて大変興味深かった。
修復の結果、今までグレーだと思われていたフリートの着物が薄いブルーだったとか、"DUL"という書き込みが見つかったなど。

「狂女」とはオランダ語では「激怒する」ほどの意味で、フリートは怒髪天を突く勢いで口を開けた地獄へ向かい、彼女の背後では小柄な女たちの大群がそれぞれ奇妙な生き物をやっつけているのだ。

地獄なぞ恐れない、地に足ついた強い女。醜悪な面をした悪魔なぞ仕事の合間にちょいちょいとやっつけて涼しい顔をしている女。

ネーデルラントの知り合いのたくましい女性らを思い出しては「この絵は、男らが集まっては、自分の妻『あるある』をおもしろおかしく愚痴るネタにしたのではないか」と、今度は毎度妻の愚痴を言い合う、うれしそうな男衆らの顔を思い浮かべながら苦笑したのであった。
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ブルージュの「中世の秋」








季節は秋。

週末はまた金曜日からベルギーへ。

目的はアントワープだったが、もちろん旅の途中でブルージュに一泊した。

英国の家からはブルージュまでが正味3時間少々(ユーロトンネルの待ち時間を除く)、
ブルージュからアントワープが北東へ1時間ほどの距離だ。


先週末も行ったばかりだったので、
ブルージュから英国に一旦戻ったという気が全然しなかった。

ウィーンで見た大規模なブリューゲル展の、
あの時代から全く変わっていないらしいブルージュの道を夜中に歩いていると

栄華は現在よりも鮮烈で、それとは対象をなすように貧困と寒さ、
闇もまた果てしなかった「中世の秋」のことが思われた。
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fin-de-siecle vienna(セセッション館とベートーヴェン・フリーズ)




1983年に出版されたカール・ショースキー著「世紀末ウィーン―政治と文化」はラヴェルのワルツで始まる。

ブラームスでも、ブルックナーでも、マーラーでもなく、シュトラウスのワルツ「美しく青きドナウ」でもなく、ラヴェル。ラヴェルのワルツ!

......


憧れのセセッション館でクリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」をAn die Freude! An die Freude!と見学した後、表に出て道路の反対側から写真を撮っていたら、大きなウイーン地図を持った男性から「この建物はいったい何なんですか? さっきからみなさん写真を撮っているけれども」と英語で話しかけられた。

その質問の調子には、ウィーンにはバロックや折衷様式の美しい建物があるのにこのヘンテコな建物にみなが注目しているのはなぜなのか意味がわからない、といったトーンがあった。


「19世紀の終わりごろ、新しい芸術スタイルを求めたウィーン分離派によって建てられた建築です。美と実用性の一致を重視したそうです。内部には同時代のクリムトがベートーヴェンの第9に霊感を受けて描いた「ベートーヴェン・フリーズ」という壁画がありますよ」

と言った。淀みなく説明できたのはわたしが世紀末ウイーンの文化に狂おしいほどの憧れを抱いているからだけではなく、たった今内部を見学してパンフレットを熟読したからである(笑)。夫はわたしの説明のうまさに感心してくれた。


その男性は腑に落ちないという顔つきで連れの女性に何か言い、また「それは見る価値がありますかね」と真面目な顔で聞いてきた。

わたしは「もちろん!」と即答したが、内心は「なんでわたしに聞くねん」だった。わたしの意見を取り入れて入館料を支払い、「つまらなかった」と感じたらお金を返せというような形の質問だと思ったからだ。

100円を入れたら100円の商品が必ず出てくると考える消費者マインドはこんなところにまで...
芸術作品を鑑賞して自分が多少変わることと、鑑賞にかかる時間と金額というのは全く非対称で換算できないと思うのだが。

自分の手持ちの短いものさしで、この世のすべてのものが測れると思うのは間違いである。短いものさしではどんな価値があるのかを測れないものごとがあるからこそ、いろいろなものを経験すべきなのではないだろうか。人間は自分のものさしで計量可能なものだけが「世界である」と思いがちであるにはしても。それに価値があるか判断できかねるそのことが、それを見るべき理由そのものであるような気がするのだ。

わたし自身、先日、今の世の中で主流のある種の文化に対してあまりにも酷薄すぎると指摘されたばかりなので、もちろんこれは自戒でもある。


「自由と進歩のみが芸術の世界の目的です」(ベートヴェンの手紙より)


......


世紀末ウイーンといえば来月からはロンドンのロイヤル・アカデミーでクリムトとシーレの展覧会が開かれるのでとても楽しみにしている。
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