河童の歌声

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思い出の仙台バラライカ・その9

2021-03-31 16:36:19 | 歌声喫茶
14.2.01.たんぽぽ・仙台バラライカ


前年12月、年末に行ったばかりのバラライカへ、
エリカさんと二人で再び行きました。
この「たんぽぽ」を南部さんは譜面とは違って半音下がりで弾いていますね。
私もなんですけど、この曲の全音下がりは作曲者のミス、
半音下がりが音楽の常識だと、今でもそう感じています。

14.2.01.虹と雪のバラード・仙台バラライカ


司会をしているのは、以前仙台に在った歌声喫茶「若人」のリーダー、
福島在住の前司会者だっとという相沢さん。
2代目の司会者は流れのギター弾きさんこと、柏潤さんらしいです。

14.3.01.ほたる・仙台バラライカ最終日前夜祭


前月から丁度1ヶ月後に、
いよいよバラライカの最終日となってしまいました。
司会をされているのは、葛西とも彦さん。
南部よし子さんの、お兄さん?弟さん?(失礼)
仙台で南部さん家のお隣に住んでいるとか。


14.3.01.乾杯の歌・仙台バラライカ最終日前夜祭


終わりの時間は刻刻と迫り、乾杯の歌。
ピアニストはFBでもお馴染みの、稲垣達也さん。
この辺りになると、皆さんの目にも涙が・・・

14.3.01.涙涙のケサラ・仙台バラライカ最終日前夜祭


そして、とうとう終わりの瞬間が近づいてきました。
最後の歌は、やはり「ケサラ」
私は「終わっちゃうよ、終わっちゃうよ、バラライカが終わっちゃうよ」と心の中で泣いていました。
最後の瞬間だけは撮らねばと思っていたのですが、
もう耐えられなくなって、カメラをぶん投げてしまいました。

初めてバラライカに行った2009年10月1日。
一発でバラライカに魅せられ虜になってから、4年5か月。
「東北・杜の都仙台にバラライカあり、歌声喫茶の最高峰は仙台バラライカ」
と言い続けた店が今日で終わってしまうという悲しい現実。
その悲しさに私は耐えられませんでした。


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天国と地獄を見た女・・江青

2021-03-29 08:13:05 | 歴史


江青(こうせい)は、毛沢東の妻でした。
正確には毛沢東第4夫人。
彼女の現代での判断は、悪女。
地獄へと転落したそんな悪女でしたが、かつては天国だった時代があったのです。



1914年(大正3年)中国・山東省に彼女は生を受けました。
父親は大工で決して裕福な家庭ではなかったようです。

出生時の名前は、李進孩(り・しんがい)
小学校入学時には、李雲鶴(り・うんかく)と言いました。

1929年(15歳)演劇や古典音楽を学びながら、
図書館で働いていました。
1931年(17歳)で最初の結婚をしますが、2か月で離婚をします。
1933年(19歳)知人の影響を受けて共産党に入党します。



知人を通じて知り合った、第一線級の女優であった兪珊と知己になり、
その弟、兪啓威(後に共産党の政治家になる)と知り合う。
その彼とは同棲関係になり、彼が中国国民党から反政治活動で逮捕されると、
江青は上海へ逃れます。





上海では南国社(映画会社?)に入り、
藍蘋(らんぴん)の芸名で女優活動を始めます。
藍蘋は上海の社交界で有名人となりました。



この頃、女優としてライバルであった王瑩は、
この時の遺恨が元で、後の文化大革命で彼女は江青から、迫害され続けて行きます。

1937年、第二次上海事変が勃発。
かつて同棲していた兪啓威と共に上海を脱出し、
中国共産党の本拠地・延安へ移ります。





男ばかりの延安で、美人女優であった江青は羨望の的で、
延安の共産党指導者であった毛沢東を知り、
1939年、45歳の毛沢東は25歳の江青と結婚をしました。
江青という名前は毛沢東が名付けた名前でした。

1949年(昭和24年)
毛沢東は声高らかに、中華人民共和国の建国を叫びました。
江青は毛沢東夫人としてファーストレディーとなったのですが、
体調を崩しソ連で療養生活を送る事となります。

1958年から1961年まで、
毛沢東は「大躍進政策」を行いますが、
これが大失敗に終わり、数千万人という餓死者を出してしまいました。
この失敗により毛沢東は失脚します。

江青の帰国後、1960年代前半から、
彼女は政治活動に参加し始めました。
大躍進政策の失脚から毛沢東を支え、
打倒、劉少奇を毛沢東に勧めたのが江青でした。
これが結局、文化大革命へとつながって行きます。

1962年。
インドネシアのスカルノ大統領夫人が訪中した際に、
毛沢東と共に公の場に姿を見せます。
また、ルーマニアのチャウシェスク大統領たち共、親交を結びました。
1974年にはフィリピンのイメルダ・マルコスとも、
親し気に頬を交わす姿がありました。

ただ、毛沢東は「彼女の口にはトゲがある。
彼女は周りの人達を不幸にする」と言って、
江青という女性を信用していなかったし、愛してもいなかったようです。



1966年に始まった文化大革命で、
江青は四人組(王洪文・張春橋・姚文元)として活躍し、
世界中にその名を轟かせる事となりました。





1960年から、この辺りまでが、
江青の「我が世の春」・・天国だったのだと思います。

江青は女優時代に自分を正当に評価しなかった映画人、女優たちを、
その権力で激しく攻撃し、弾圧を加え、
投獄させ、死に至らしめる事もいといませんでした。

1976年、偉大なる指導者、毛沢東が死去しました。
それから1ヶ月後に四人組は逮捕されます。





1981年に裁判で江青は死刑判決を受けました。
その後、終身刑に減刑されましたが、
1991年に病気療養中に北京の施設で彼女は首を吊って自殺しました。

江青の病気はガンでしたが、
1976年には既に頭髪はハゲでかつらをかぶっていたそうです。
表舞台に立つ事は二度とあり得ず、名誉挽回などもあり得ず、
病気は進行し続け、年齢的にも、もう希望は無く絶望して、
自ら命を絶ったものと思われます。
1976年に逮捕されてから15年の人生でした。
享年87歳。

江青を、いい人と思う人はまず居ないでしょう。
彼女は稀代の悪女として、その名前を後世に残したのです。

天国と地獄を見た女性には、建礼門院がいますが、
彼女は時の最高権力者(平清盛)の娘として、
蝶よ華よと育てられたのであり、政治には全く関与しませんでした。
自分の意思で他人を貶めたり、死に至らしめたりは皆無でした。
同じ、天国と地獄を見たと言っても、その内容は大違いですね。



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思い出の仙台バラライカ・その8

2021-03-28 19:35:38 | 歌声喫茶
13.10.26.岬めぐり・仙台バラライカ


2013年は、4月に恒例の三神峯公園での花見があったのですが、
当日は風が強く、マイクに風切り音が入ってノイズがひどいので、
動画アップは断念しました。

そして10月はエリカさんと二人でバラライカに行きました。
その日は、東京都知事選でお馴染みの、宇都宮健児氏御一行が来店されました。
宇都宮氏は公人ですので撮影の許可を尋ねたのですが、
来店は私的な事でしたので、快諾を頂きました。

どんな人にも好きな歌というのは当然ありますが、
宇都宮健児さんは「岬めぐり」がお好きなんですね。
いつもテレビでしか観ていない方が、
こういった風に素顔で和まれている姿を見るのは、いいもんですね。

13.12.28.故郷は今も変わらず・仙台バラライカ


それから2か月後の12月28日。
私達はまた二人で年末の歌声にバラライカに行きました。
東日本大震災で大変な目に遭われた仙台の方々が、
この歌を唄うというのは、東京の歌声喫茶で唄うのとは、
何か違った想いを感じます。

13.12.28.花は咲く・仙台バラライカ


この歌も私達、東京の人間とは違った意味合いを強く感じました。
子供たちが唄っていますが、
スケさん(三橋さん)のお孫さんなんですね。

エリカさんと二人で行くバラライカは、今年は3回。
これで、今年は終わりだと思うと、来年に思いを馳せます。
もっと近かったらといつも思う仙台。
私達にとってはバラライカはかけがいの無いお店です。




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思い出の仙台バラライカ・その7

2021-03-26 13:13:15 | 歌声喫茶
12.10.06.俺たちのシルクロード・仙台バラライカ


恒例の深浦歌声ツアー。
今回も東京勢と一緒にバラライカへ行きました。

12.10.06.可愛いあの娘・仙台バラライカ


やはり、バラライカ東京支店みたいになってしまいます。
あの顔、この顔、中には一度きりで見かけなくなった顔もいますね。

12.10.06.アムール河の波・仙台バラライカ


(仙台ロシア合唱団)のメンバーが主役で唄っています。
バラライカは本来、こういった雰囲気なんですね。

12.10.28.バラライカ・仙台バラライカ


深浦歌声ツアーから間もない3週間後に、
私とエリカさんは二人でバラライカに行きました。
その日はバラライカ34周年記念歌声だったのです。

12.12.29.私の好きなこの町・仙台バラライカ


それから2か月後は、
またエリカさんと二人で年末最終日のバラライカへ行きました。
この歌はバラライカでしか唄っていない歌です。



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思い出の仙台バラライカ・その6

2021-03-24 14:31:58 | 日記
12.4.21.泉のほとり・仙台バラライカ


前回から4か月後の、2012年4月21日には、
私達はバラライカの(お花見)の為に仙台に行きました。
栃木からは金子久子さん(チャコちゃん)中島律子さん(りっちゃん)
千葉から清水さん夫妻、深浦の歌声のブンブンさん夫妻などと一緒になりました。

また、東京立川から医療法人・健生会の方々のグループも来店、
彼等はこの夜だけの参加でした。

12.4.21.エーデルワイス・仙台バラライカ


南部さんはお得意の楽器以外にも、歌もお上手なんですね。

12.4.21.生命をささえて・仙台バラライカ・南部さん作曲


南部さん、作詞・作曲のオリジナル。
アコーディオン・ピアノ・ギター・それだけでも凄いのに、
こんな名曲までも作詞・作曲なんて、あまりにも凄すぎる。
その音楽的才能は果てしなく、底知れなく、ただ羨ましいとしか言いようがありませんね。

12.4.22.ケサラ・仙台バラライカお花見


そして、翌日はお目当ての三神峯公園での花見。
三神峯公園は如何にも東北らしく、
東京の喧騒などなく、静かで眺めが良くて(高台にあって見晴らしがいい)
花見グループはそれなりの距離を保っての宴会。

先発隊の人達があらかじめ場所を確保してくれました。
「歌声喫茶バラライカ」の横断幕も華々しく、
これぞ、杜の都仙台バラライカの宴でした。

そして、バラライカを代表する名歌「ケサラ」
こんな素敵な場所で、こんな素敵な人達と一緒に、
大好きな「ケサラ」を桜の花の下で唄える悦びは、
それは人生でもそう多くはあり得ない歓喜の瞬間だったのです。

自然発生的にみんなは腕を組み、
「♫ ケサラ・ケサラ・ケサラ~」
私はあまりカメラに気を奪われたくなく、
みんなと一緒に歓喜の歌声で唄いたかったのですが、
誰かが撮らない限り記録に残らないのですから、我慢でした。

今になっても、この花見の時の強烈な悦びを思い出します。
本当に仙台はいいな~。
バラライカは最高だな~っと思うのです。


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