『山本慈昭 望郷の鐘~満蒙開拓団の落日』映画オリジナル予告編


かつて中国に「満州国」という国が在りました。
1932年(昭和7年)~1945年(昭和20年)までの13年間、
日本が作りあげた傀儡(かいらい)国家(あやつり人形)で、
首都は新京(旧、長春)でした。
1929年(昭和4年)にアメリカで起き、世界中を巻き込んでいった、
世界恐慌の影響が日本にも及び、1930年から1931年にかけて、
日本経済を危機的状況におとし入れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌が起きます。
それを昭和恐慌と言います。
これにより疲弊する日本人農民を中国大陸へ移民により救済すると発案する関東軍。
関東軍というのは中国大陸を制圧する日本軍の事で、
関東平野とは無関係の言葉です。
最大規模時には74万人を擁する、満州国の実質的な統治軍隊です。
満蒙開拓団には長野県出身者が多かったみたいです。
日中戦争が拡大すると、日本国内の農村労働力が不足し、
満州への移民希望者が激減したのですが、
日本は国策として満州への送出計画を変更しませんでした。
結果的に32万人が満州へ移住し、その内7万人が亡くなります。
移住者たちはまさか自分達が、日本軍の侵略戦争に加担しているなどとは、
夢にも思わなかったのです。
侵略戦争というのは、長い目で見ると絶対に勝利はあり得ません。
結局は負けてしまうのです。
自分達が戦争加害者であるなどと夢にも思わなかった農民たちは、
戦争に負けた途端に、徹底的な被害者となって地獄を見る羽目になりました。
「この世の地獄」を目の当たりにし、絶望しかない命に苦しむのでした。





これらの写真に写っている人達は、
ひとり残らず生き地獄を見る事になったのでした。
開拓団の人々には若い男性は兵隊に取られほぼ居ません(一部、学校の教師とか)
殆どが老人と、女子供といった最も弱い人達が絶望的な逃避行者だったのです。
敗戦になると、今まで近所に住んでいた中国人が、牙を剥いて日本人達に襲い掛かります。
火事場泥棒的に参戦した、ソ連軍が何の武器も持たない弱い人達に襲いかかります。
頼りになるべき日本の軍隊は、取り残された人などお構いなしに一目散に逃げだし、
彼等を護ってくれる人など、どこにも居ません。
彼等は日本人の持っている(物)を要求し奪い去っていきます。
ソ連兵はレイプする為に女をよこせと襲い掛かります。
まだ幼い女の子達は顔を泥で真っ黒にし、髪の毛を短く切って男の子を装います。
隠しようもない女性をソ連兵に差し出して、何とか命だけは助けてもらおうとします。
レイプされても命だけが助かればいいと観念しても、結局は殺されてしまったのかも知れません。
金目の物、衣類、全てを奪われた人達は、
何の当てもなく食料さえも無く、ただ南へ南へ(海のある、船のある)と歩きます。
絶望しか無い毎日に、生きる望みも失ってしまった人達が、集団自殺もしました。
ソ連兵に気づかれるのを恐れる指揮者から「子供を殺せ」と命令され、
泣きながら子供の首を絞めて殺す母親。
死んだ子供の遺骸を捨てられず、いつもでも腐るまで抱っこして歩く母親。

辿り着いた場所も分からない駅から無蓋車に乗って、
どこに行くのかも知らずに生死を彷徨う弱い人々。
雨が降れば濡れネズミ、揺り落とされればそれっきり。
停まった無蓋車から降りてトイレに行ってる隙に動き出す列車、乗れなければ永遠の別れ。
今日はどうにか生き延びた、しかし明日への希望は何処にあるのでしょうか?
私の母も満州からの引揚者でしたが、
いわゆる満蒙開拓団ではなく、南満州の旅順に近かったので、
中ソ国境の黒竜江省などの人達みたいな悲惨な目に遭わずに済んだのですが、
それでも逃避行は逃避行ですから、きっと怖かったのだろ思います。
タイタニック号で生き延びた人に、
「もしもう一度人生をやり直す」としたら何をしたいかという質問に、
その人は「もう一度タイタニック号に乗って、あの最期の光景を眺めてみたい」
と言った人に対し、「それは自分が完全に生き残れる保証でもあれば」
という大前提があればであって、自分の命が見えない状況でそれは絶対にあり得ない。
という返答がありました。
私の母も同じで、自分自身が大変な状況で、周囲を冷静に眺めるなんてあり得ないのです。

ただ「戦争だけは絶対にイヤ。もう二度とイヤ」
だからドラマ「大地の子」など絶対に観ようとしませんでした。
満蒙開拓団の悲劇は、歴史の中の取り返しの出来ない事実として、
だからと言って、今更どうにもならない悲劇として、
多くの歴史がそうである様に、流れ去っていくのですね。
本当に気の毒としか言えません。


かつて中国に「満州国」という国が在りました。
1932年(昭和7年)~1945年(昭和20年)までの13年間、
日本が作りあげた傀儡(かいらい)国家(あやつり人形)で、
首都は新京(旧、長春)でした。
1929年(昭和4年)にアメリカで起き、世界中を巻き込んでいった、
世界恐慌の影響が日本にも及び、1930年から1931年にかけて、
日本経済を危機的状況におとし入れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌が起きます。
それを昭和恐慌と言います。
これにより疲弊する日本人農民を中国大陸へ移民により救済すると発案する関東軍。
関東軍というのは中国大陸を制圧する日本軍の事で、
関東平野とは無関係の言葉です。
最大規模時には74万人を擁する、満州国の実質的な統治軍隊です。
満蒙開拓団には長野県出身者が多かったみたいです。
日中戦争が拡大すると、日本国内の農村労働力が不足し、
満州への移民希望者が激減したのですが、
日本は国策として満州への送出計画を変更しませんでした。
結果的に32万人が満州へ移住し、その内7万人が亡くなります。
移住者たちはまさか自分達が、日本軍の侵略戦争に加担しているなどとは、
夢にも思わなかったのです。
侵略戦争というのは、長い目で見ると絶対に勝利はあり得ません。
結局は負けてしまうのです。
自分達が戦争加害者であるなどと夢にも思わなかった農民たちは、
戦争に負けた途端に、徹底的な被害者となって地獄を見る羽目になりました。
「この世の地獄」を目の当たりにし、絶望しかない命に苦しむのでした。





これらの写真に写っている人達は、
ひとり残らず生き地獄を見る事になったのでした。
開拓団の人々には若い男性は兵隊に取られほぼ居ません(一部、学校の教師とか)
殆どが老人と、女子供といった最も弱い人達が絶望的な逃避行者だったのです。
敗戦になると、今まで近所に住んでいた中国人が、牙を剥いて日本人達に襲い掛かります。
火事場泥棒的に参戦した、ソ連軍が何の武器も持たない弱い人達に襲いかかります。
頼りになるべき日本の軍隊は、取り残された人などお構いなしに一目散に逃げだし、
彼等を護ってくれる人など、どこにも居ません。
彼等は日本人の持っている(物)を要求し奪い去っていきます。
ソ連兵はレイプする為に女をよこせと襲い掛かります。
まだ幼い女の子達は顔を泥で真っ黒にし、髪の毛を短く切って男の子を装います。
隠しようもない女性をソ連兵に差し出して、何とか命だけは助けてもらおうとします。
レイプされても命だけが助かればいいと観念しても、結局は殺されてしまったのかも知れません。
金目の物、衣類、全てを奪われた人達は、
何の当てもなく食料さえも無く、ただ南へ南へ(海のある、船のある)と歩きます。
絶望しか無い毎日に、生きる望みも失ってしまった人達が、集団自殺もしました。
ソ連兵に気づかれるのを恐れる指揮者から「子供を殺せ」と命令され、
泣きながら子供の首を絞めて殺す母親。
死んだ子供の遺骸を捨てられず、いつもでも腐るまで抱っこして歩く母親。

辿り着いた場所も分からない駅から無蓋車に乗って、
どこに行くのかも知らずに生死を彷徨う弱い人々。
雨が降れば濡れネズミ、揺り落とされればそれっきり。
停まった無蓋車から降りてトイレに行ってる隙に動き出す列車、乗れなければ永遠の別れ。
今日はどうにか生き延びた、しかし明日への希望は何処にあるのでしょうか?
私の母も満州からの引揚者でしたが、
いわゆる満蒙開拓団ではなく、南満州の旅順に近かったので、
中ソ国境の黒竜江省などの人達みたいな悲惨な目に遭わずに済んだのですが、
それでも逃避行は逃避行ですから、きっと怖かったのだろ思います。
タイタニック号で生き延びた人に、
「もしもう一度人生をやり直す」としたら何をしたいかという質問に、
その人は「もう一度タイタニック号に乗って、あの最期の光景を眺めてみたい」
と言った人に対し、「それは自分が完全に生き残れる保証でもあれば」
という大前提があればであって、自分の命が見えない状況でそれは絶対にあり得ない。
という返答がありました。
私の母も同じで、自分自身が大変な状況で、周囲を冷静に眺めるなんてあり得ないのです。

ただ「戦争だけは絶対にイヤ。もう二度とイヤ」
だからドラマ「大地の子」など絶対に観ようとしませんでした。
満蒙開拓団の悲劇は、歴史の中の取り返しの出来ない事実として、
だからと言って、今更どうにもならない悲劇として、
多くの歴史がそうである様に、流れ去っていくのですね。
本当に気の毒としか言えません。