河童の歌声

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この世の地獄・満蒙開拓団

2025-01-19 10:39:51 | 歴史
『山本慈昭 望郷の鐘~満蒙開拓団の落日』映画オリジナル予告編






かつて中国に「満州国」という国が在りました。
1932年(昭和7年)~1945年(昭和20年)までの13年間、
日本が作りあげた傀儡(かいらい)国家(あやつり人形)で、
首都は新京(旧、長春)でした。

1929年(昭和4年)にアメリカで起き、世界中を巻き込んでいった、
世界恐慌の影響が日本にも及び、1930年から1931年にかけて、
日本経済を危機的状況におとし入れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌が起きます。
それを昭和恐慌と言います。

これにより疲弊する日本人農民を中国大陸へ移民により救済すると発案する関東軍。
関東軍というのは中国大陸を制圧する日本軍の事で、
関東平野とは無関係の言葉です。
最大規模時には74万人を擁する、満州国の実質的な統治軍隊です。
満蒙開拓団には長野県出身者が多かったみたいです。
日中戦争が拡大すると、日本国内の農村労働力が不足し、
満州への移民希望者が激減したのですが、
日本は国策として満州への送出計画を変更しませんでした。
結果的に32万人が満州へ移住し、その内7万人が亡くなります。
移住者たちはまさか自分達が、日本軍の侵略戦争に加担しているなどとは、
夢にも思わなかったのです。

侵略戦争というのは、長い目で見ると絶対に勝利はあり得ません。
結局は負けてしまうのです。
自分達が戦争加害者であるなどと夢にも思わなかった農民たちは、
戦争に負けた途端に、徹底的な被害者となって地獄を見る羽目になりました。
「この世の地獄」を目の当たりにし、絶望しかない命に苦しむのでした。











これらの写真に写っている人達は、
ひとり残らず生き地獄を見る事になったのでした。

開拓団の人々には若い男性は兵隊に取られほぼ居ません(一部、学校の教師とか)
殆どが老人と、女子供といった最も弱い人達が絶望的な逃避行者だったのです。

敗戦になると、今まで近所に住んでいた中国人が、牙を剥いて日本人達に襲い掛かります。
火事場泥棒的に参戦した、ソ連軍が何の武器も持たない弱い人達に襲いかかります。
頼りになるべき日本の軍隊は、取り残された人などお構いなしに一目散に逃げだし、
彼等を護ってくれる人など、どこにも居ません。
彼等は日本人の持っている(物)を要求し奪い去っていきます。
ソ連兵はレイプする為に女をよこせと襲い掛かります。
まだ幼い女の子達は顔を泥で真っ黒にし、髪の毛を短く切って男の子を装います。
隠しようもない女性をソ連兵に差し出して、何とか命だけは助けてもらおうとします。
レイプされても命だけが助かればいいと観念しても、結局は殺されてしまったのかも知れません。

金目の物、衣類、全てを奪われた人達は、
何の当てもなく食料さえも無く、ただ南へ南へ(海のある、船のある)と歩きます。
絶望しか無い毎日に、生きる望みも失ってしまった人達が、集団自殺もしました。
ソ連兵に気づかれるのを恐れる指揮者から「子供を殺せ」と命令され、
泣きながら子供の首を絞めて殺す母親。
死んだ子供の遺骸を捨てられず、いつもでも腐るまで抱っこして歩く母親。



辿り着いた場所も分からない駅から無蓋車に乗って、
どこに行くのかも知らずに生死を彷徨う弱い人々。
雨が降れば濡れネズミ、揺り落とされればそれっきり。
停まった無蓋車から降りてトイレに行ってる隙に動き出す列車、乗れなければ永遠の別れ。
今日はどうにか生き延びた、しかし明日への希望は何処にあるのでしょうか?

私の母も満州からの引揚者でしたが、
いわゆる満蒙開拓団ではなく、南満州の旅順に近かったので、
中ソ国境の黒竜江省などの人達みたいな悲惨な目に遭わずに済んだのですが、
それでも逃避行は逃避行ですから、きっと怖かったのだろ思います。

タイタニック号で生き延びた人に、
「もしもう一度人生をやり直す」としたら何をしたいかという質問に、
その人は「もう一度タイタニック号に乗って、あの最期の光景を眺めてみたい」
と言った人に対し、「それは自分が完全に生き残れる保証でもあれば」
という大前提があればであって、自分の命が見えない状況でそれは絶対にあり得ない。
という返答がありました。
私の母も同じで、自分自身が大変な状況で、周囲を冷静に眺めるなんてあり得ないのです。



ただ「戦争だけは絶対にイヤ。もう二度とイヤ」
だからドラマ「大地の子」など絶対に観ようとしませんでした。

満蒙開拓団の悲劇は、歴史の中の取り返しの出来ない事実として、
だからと言って、今更どうにもならない悲劇として、
多くの歴史がそうである様に、流れ去っていくのですね。
本当に気の毒としか言えません。



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紫式部と清少納言

2024-03-14 05:40:27 | 歴史
現在NHKの大河ドラマでは「光る君へ」というのをやっているらしい。
その主人公は紫式部だということです。

私は歴史が好きなんですが、そうなったのは社会人になってからであり、
学校での歴史の授業などでは、どうでもいい世界でした。
ですから紫式部などは、女流作家だった程度の認識しか無かったのです。

歴史に少しは興味があった(らしい)私でしたが、
大河ドラマはあまり観なかった。
というのはテレビでの、あの描き方に辟易した思いがあるからです。
いつテレビを観ても、なにか怒鳴り合っている光景ばかり。
それが社会的地位があったり、歴史上の人物であっても、
彼等は普段は普通に生活しているのであり、
年がら年中怒鳴ったり、怒り狂ったりしてる筈などないのです。
そういったわざとらしい演出に嫌気が差して、観なくなっていったのです。
それに自分が社会人である人は、大河ドラマなど悠長に観てる時間などあまり無いのです。

現在やっているらしい大河ドラマは紫式部。
「観ないなー、そんな人物など観る気にならないよ」
紫式部が書いたとされる「源氏物語」
光源氏という架空の男子が主人公の小説ですよね。

源平の時代とはいえ、私は真実を追った「平家物語」には、
底知れない興味を持つのですが、
架空の話などには全く興味を感じません。

ですから吉川英治著の「宮本武蔵」とか山岡荘八の「徳川家康」とかには、
まるで興味もないのです。
それどころか、歴史の真実を自分流の作り話に置き換えてしまう、
吉川英治らには、怒りすら覚えるのです。
そういった小説が書きたいのであれば、全くの架空話でいいだろう。
架空を真実だと思い込ませるような行為は許されません。

紫式部という女性は平安時代に生きた人です。
同じ時代を生きた、やはり物書きだった女性に、清少納言がいます。
「紫式部」といい「清少納言」といい、
本名は何なんだという気もしますが、
それはともかく、清少納言は「枕草子」の著者です。
それがどういった書籍であるか、私は全く知りません。
でも、それを読む事は絶対と言っていいほどあり得ないと思っています。
彼女達は同じ時代を生きた作家同士でありながら、
お互いの存在を知りながら、会った事は一度も無いんだとか。

歴史という「文化」は世界中に溢れている真実であり、
東洋の一小国である「日本」であっても、
それは長く底知れない時間の積み重ねなのです。
その長い時間の中から、自分というたった一人の人間が見られる世界など、
全くもって僅かでしかありません。
その中から何を選ぶか?
私には「平家物語」がそうだったに過ぎません。

これから「源氏物語」や「枕草子」を読みますか?
そんなのより興味を感じるのは「ローマ帝国」であり、
「ナチスドイツ」であり「ジンギスカン」だったりと世界の歴史は、
途方もなく広ろ過ぎるのです、
紫式部や清少納言の世界を、私は彷徨うのか?
やっぱり、それはあり得ないと思うのです。



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平家、落人伝説

2024-02-17 16:26:49 | 歴史
1185年、関門海峡の壇ノ浦で平家は滅亡しました。
平家に非ずば人に非ず、有頂天の極みはわずか19年間のおごりでした。
「ただ春の夜の夢のごとし」
たったそれだけの短い言葉に、どれほどの悲しみが詰まっているか・・・

一族郎党ことごとく無く(亡く)なっていく憐れさは、まさに悲劇です。
全滅と言っても必ず生き残りはいます。
故に平家の落人伝説は数多く残っているのです。
天皇だった、平清盛の孫安徳天皇はまだ7歳でした。
清盛の妻だった時子(二位尼)つまり祖母に抱かれて海へ身を投げます。
「お婆様、何処に行くのですか?」
「海の下にも都はあります」
何と悲しい言葉でしょうか。

周囲を見渡すと、平家の名のある武将たちは海へと身を投げていきます。
もう平家は負けだ、終わりだと己に言い聞かせ身を投げる。
7歳の子供には、意味が理解できないのは当たり前。
その悲しみあわれさが、多くの「安徳天皇生存説」となって数多く残っているのです。

「隠田(おんでん)百姓村」というのがあります。
戦国時代から江戸時代にかけて隠田百姓村が数多く生まれましたが、
平家の落人たちが開発したと言われている平家谷もそのひとつです。
その数は全国で100を超えていると言われています。

栃木の湯西川、飛騨の白川郷、四国の祖谷、九州の椎葉村、五家荘。
そういった名だたる平家落人部落。
東京にもあるのです、日野市、七生南平(豊田駅の近くです)
信じられないのは、平家滅亡の地、壇ノ浦から数キロの所にもあるのです。

隠田というのは年貢の徴収を免れる為に密かに開拓した畑の事で、
為政者から見れば脱税にあたり厳しく取り締まられたのです。
という事は為政者たちが、おいそれと近づけない奥地だったり、
厳しい地形の場所に存在したのです。

平家の残党たちは奥深い山奥(上流)で隠れて生きていました。
下流に住む人達は、上流に人が住んでいるとは知りませんでした。
しかしある時、上流からお椀といった食器が流れてきて、その存在を知ったのです。
平家の落人は、川の下流から上流へと登っていったのではなく、
反対側から山を越えて谷の一番奥へ住みついたのでしょう。

そして川下の村々が農業を生業にしているのに、
川上では、まるで違った狩りや林業で生計を立てている者が多かったのです。
平家落人と言われる人々の生活様式は、ほとんど周囲から孤立しているのに、
平家谷同士の間には若干の共通性があり、
場所が離れているのに意外にも親密があったりするのです。

源頼朝が、己の人生は(源氏)という血の存続であり、
その血が平家を滅亡へと追い込んだのですから、
源氏が完璧な天下人になる為には、平家の血を絶対に根絶やしにしなければなりません。
ですから頼朝の、平家の残党狩りは徹底的に、執念深く行われました。
日本の最高権力者が、日本中に力の限り平家断絶に躍起となるのですから、
見つかったが最後の恐ろしさに平家落人たちは、蛇に睨まれたカエル状態。
死に物狂いで逃げていったのです。

誰一人助けてくれる人などいません。
自分達、数少ない生き残りで助け合い、支え合って生きるしかないのです。
平家の残党を見つけた者には源氏から褒章金が出ます。
貧しい人々は、褒賞金目当てで、顔立ちが良かったり、美しい言葉を話している若者など見つけると、
「こいつは平家だ」と訴え出ます。
そうなった人に逃げ道などなく、すぐに殺されてしまうのです。
平家の残党は必死になって、山奥へと山奥へと逃げて行きました。

その光景を思うと、いくらいい気になり過ぎた一族とは言っても、
可哀想に、あわれに思います。
もうこのくらいで勘弁してやったら、と思っても、
頼朝はそんな甘い事など認める訳がありません。
恐かったでしょうね。どれほど「誰か助けて~」っと叫びたかったでしょうね。



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終わった時が始まりだった・・源頼朝

2024-02-10 07:18:38 | 歴史
源頼朝(みなもと、よりとも)は鎌倉幕府を開いた武将です。
1147年~1199年(52歳)



頼朝のお爺さんは、為朝(ためよし)といいます。
彼は保元の乱(1156年・後白河天皇と崇徳上皇が対立)で、
崇徳上皇側について敗北し、我が息子である、
源義朝(よしとも)の手で処刑されます。(60歳)

父、為朝を処刑した、頼朝の父親・源義朝は、
平治の乱(1159年)平清盛と対立し、それに敗れ処刑されます。(37歳)
義朝の3男として生まれた頼朝(当時13歳)は、本来、死刑となる筈でした。
しかし、それに待ったをかけた女性がいました。
平清盛の継母(清盛の父親の妻)に当たる、池禅尼(当時55歳)です。
彼女は早世した(26歳)次男、家盛に瓜二つだと、清盛に嘆願し、
後に平家滅亡の根幹となる源頼朝を処刑せずに伊豆に流したのです。
この事が後に大変な事態を招くとは、あの悲劇を招くとは・・・

13歳で伊豆の地に流刑となった頼朝。
彼は幼心に「本来なら死刑になっていた自分の人生ははもう終わった」と思ったでしょう。
しかし、終わったと思った時から、彼の人生は大きく始まっていったのです。

京都では平清盛の平家一族が我が世の春を謳歌し、
平家に非ずば人に非ずと、やりたい放題でした。
あまりの傍若無人に朝廷からも不平不満の声が絶えませんでした。
そういった声は、一度は地に堕ちた源氏に、打倒平家を望む人々からの期待がかかります。
今では遠い関東の地に追いやられた源氏ですが、
源というブランド名は、やはり他の家柄を圧倒する名門でした。
平家一門に愛想を尽かした人々の期待は、源頼朝の双肩にかかってきたのです。
遂に頼朝は腰を上げざるを得なくなりました。

それからの源平合戦は良く知られる戦いです。
倶利伽羅峠、一の谷、屋島、壇ノ浦。
そして平家断絶の後は、恐ろしい平家の残党狩り。
頼朝は、温情によって生き永らえた自分の事が、生きた見本であるので、
平家の血は一滴たりとも絶やさずにおくものかと死に物狂いで平家を探し出します。
見つけたが最後、例え女子であろうが幼子であろうが、徹底的に殺します。
生かしておいたら、子供が自分に向かって牙を剥いてくるのは、
自分自身がそうだったのですから。

そして平家滅亡後の頼朝は、鎌倉幕府を興します。
1192年に鎌倉幕府が始まります。
しかし、始まったばかりの1199年に頼朝は52歳の若さで亡くなってしまいました。

自分の人生は終わったと思った時が、始まりで、
始まったと思った時が、終わりだったなんて、実に皮肉ですね。


平家物語で、何が本当か?どれが真実か?なんて、
今となっては解りようがありません。
みな琵琶法師による語りから、多分この辺が真実だろうなと、
何もかもが憶測の域を出ないのです。
とは言っても、その栄枯盛衰の様は、あまりにも悲劇的で、
私達の胸を打ち、心を揺さぶるのです。

あれは一体なんだったのだろう?
「ただ春の夜の夢のごとし」


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木曽義仲・・平家滅亡の前奏曲

2023-12-31 14:35:20 | 歴史


木曽義仲は、本名、源義仲。(1154~1184)30歳。
つまり彼は源氏の武将なのです。
長野県の木曽地方に育ったために、木曽義仲と言われます。

若い頃、木曽方面をドライブしていた私は、
路肩に「木曽義仲生誕の地」という看板を見かけ、
(はて?木曽義仲、聞いた事はあるけど、誰なんだろう?)
と思った事から、歴史に興味を持つキッカケになったという武将です。
鎌倉幕府を開いた、源頼朝、源義経(牛若丸)とは従兄弟にあたります。

義仲は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)によって、
平家追討を掲げ挙兵します。
(令旨)とは、皇太子などの命令を伝える文書です。
木曽義仲の前半生に関する史料はほとんどありません。

打倒平家を目指す義仲は、
1181年6月、長野市の横田河原の戦いに勝利しました。
しかし、その後の火打城の戦いでは平家に負けてしまいました。

さて、年が変わって1183年6月。
石川県の倶利伽羅峠で、世に名高い、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いが起こります。



砺波山に陣取る平家軍が寝静まった深夜、
背後に回った義仲軍は400~500頭の牛の角に松明をくくり付け、
平家陣目指して突撃させたのです。
寝込みを襲われ、真っ暗な山中を驚いた兵たちは逃げ惑うばかり。
逃げ惑った先に在ったのは倶利伽羅峠の断崖絶壁でした。
この戦いで10万の平家軍は大半を失い京へと退却して行きました。

勝利に乗じた木曽義仲が京都に上洛したのは1ヵ月後でした。
源氏である木曽義仲軍が攻め入って来るとの恐怖におびえた、
平家一門は、遂に京の都を捨て、西国へと落ちのびて行きました。
有名な「平家の都落ち」です。
これを最後に、平家が京の地を踏む事は、二度とありませんでした。

京都に着いた義仲軍は、京都の公家、貴族の生活様式などまるで知らず、
粗野で武骨の、木曽の山猿と言われる始末。
彼等の兵隊たちの食糧事情などの問題などあって、
次第に京都人からうとまれる存在になっていきました。



鎌倉の源頼朝の指示などあり、源義経が義仲打倒に京都を目指して進軍してきます。
義仲は徐々に迫りくる鎌倉勢に、恐れおののきます。
木曽義仲はいよいよ最期を悟り、幼い頃から苦楽を共にしてきた、
巴御前と共に覚悟を決めます。
見方の離反などあり宇治川の合戦に敗れた義仲は、遂に討ち死してしまいます。
それは、壇ノ浦で平家が滅亡する1年2か月前の事です。

いよいよ、平家の滅亡は時間の問題となっていったのでした。

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