河童の歌声

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紫式部と清少納言

2024-03-14 05:40:27 | 歴史
現在NHKの大河ドラマでは「光る君へ」というのをやっているらしい。
その主人公は紫式部だということです。

私は歴史が好きなんですが、そうなったのは社会人になってからであり、
学校での歴史の授業などでは、どうでもいい世界でした。
ですから紫式部などは、女流作家だった程度の認識しか無かったのです。

歴史に少しは興味があった(らしい)私でしたが、
大河ドラマはあまり観なかった。
というのはテレビでの、あの描き方に辟易した思いがあるからです。
いつテレビを観ても、なにか怒鳴り合っている光景ばかり。
それが社会的地位があったり、歴史上の人物であっても、
彼等は普段は普通に生活しているのであり、
年がら年中怒鳴ったり、怒り狂ったりしてる筈などないのです。
そういったわざとらしい演出に嫌気が差して、観なくなっていったのです。
それに自分が社会人である人は、大河ドラマなど悠長に観てる時間などあまり無いのです。

現在やっているらしい大河ドラマは紫式部。
「観ないなー、そんな人物など観る気にならないよ」
紫式部が書いたとされる「源氏物語」
光源氏という架空の男子が主人公の小説ですよね。

源平の時代とはいえ、私は真実を追った「平家物語」には、
底知れない興味を持つのですが、
架空の話などには全く興味を感じません。

ですから吉川英治著の「宮本武蔵」とか山岡荘八の「徳川家康」とかには、
まるで興味もないのです。
それどころか、歴史の真実を自分流の作り話に置き換えてしまう、
吉川英治らには、怒りすら覚えるのです。
そういった小説が書きたいのであれば、全くの架空話でいいだろう。
架空を真実だと思い込ませるような行為は許されません。

紫式部という女性は平安時代に生きた人です。
同じ時代を生きた、やはり物書きだった女性に、清少納言がいます。
「紫式部」といい「清少納言」といい、
本名は何なんだという気もしますが、
それはともかく、清少納言は「枕草子」の著者です。
それがどういった書籍であるか、私は全く知りません。
でも、それを読む事は絶対と言っていいほどあり得ないと思っています。
彼女達は同じ時代を生きた作家同士でありながら、
お互いの存在を知りながら、会った事は一度も無いんだとか。

歴史という「文化」は世界中に溢れている真実であり、
東洋の一小国である「日本」であっても、
それは長く底知れない時間の積み重ねなのです。
その長い時間の中から、自分というたった一人の人間が見られる世界など、
全くもって僅かでしかありません。
その中から何を選ぶか?
私には「平家物語」がそうだったに過ぎません。

これから「源氏物語」や「枕草子」を読みますか?
そんなのより興味を感じるのは「ローマ帝国」であり、
「ナチスドイツ」であり「ジンギスカン」だったりと世界の歴史は、
途方もなく広ろ過ぎるのです、
紫式部や清少納言の世界を、私は彷徨うのか?
やっぱり、それはあり得ないと思うのです。



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平家、落人伝説

2024-02-17 16:26:49 | 歴史
1185年、関門海峡の壇ノ浦で平家は滅亡しました。
平家に非ずば人に非ず、有頂天の極みはわずか19年間のおごりでした。
「ただ春の夜の夢のごとし」
たったそれだけの短い言葉に、どれほどの悲しみが詰まっているか・・・

一族郎党ことごとく無く(亡く)なっていく憐れさは、まさに悲劇です。
全滅と言っても必ず生き残りはいます。
故に平家の落人伝説は数多く残っているのです。
天皇だった、平清盛の孫安徳天皇はまだ7歳でした。
清盛の妻だった時子(二位尼)つまり祖母に抱かれて海へ身を投げます。
「お婆様、何処に行くのですか?」
「海の下にも都はあります」
何と悲しい言葉でしょうか。

周囲を見渡すと、平家の名のある武将たちは海へと身を投げていきます。
もう平家は負けだ、終わりだと己に言い聞かせ身を投げる。
7歳の子供には、意味が理解できないのは当たり前。
その悲しみあわれさが、多くの「安徳天皇生存説」となって数多く残っているのです。

「隠田(おんでん)百姓村」というのがあります。
戦国時代から江戸時代にかけて隠田百姓村が数多く生まれましたが、
平家の落人たちが開発したと言われている平家谷もそのひとつです。
その数は全国で100を超えていると言われています。

栃木の湯西川、飛騨の白川郷、四国の祖谷、九州の椎葉村、五家荘。
そういった名だたる平家落人部落。
東京にもあるのです、日野市、七生南平(豊田駅の近くです)
信じられないのは、平家滅亡の地、壇ノ浦から数キロの所にもあるのです。

隠田というのは年貢の徴収を免れる為に密かに開拓した畑の事で、
為政者から見れば脱税にあたり厳しく取り締まられたのです。
という事は為政者たちが、おいそれと近づけない奥地だったり、
厳しい地形の場所に存在したのです。

平家の残党たちは奥深い山奥(上流)で隠れて生きていました。
下流に住む人達は、上流に人が住んでいるとは知りませんでした。
しかしある時、上流からお椀といった食器が流れてきて、その存在を知ったのです。
平家の落人は、川の下流から上流へと登っていったのではなく、
反対側から山を越えて谷の一番奥へ住みついたのでしょう。

そして川下の村々が農業を生業にしているのに、
川上では、まるで違った狩りや林業で生計を立てている者が多かったのです。
平家落人と言われる人々の生活様式は、ほとんど周囲から孤立しているのに、
平家谷同士の間には若干の共通性があり、
場所が離れているのに意外にも親密があったりするのです。

源頼朝が、己の人生は(源氏)という血の存続であり、
その血が平家を滅亡へと追い込んだのですから、
源氏が完璧な天下人になる為には、平家の血を絶対に根絶やしにしなければなりません。
ですから頼朝の、平家の残党狩りは徹底的に、執念深く行われました。
日本の最高権力者が、日本中に力の限り平家断絶に躍起となるのですから、
見つかったが最後の恐ろしさに平家落人たちは、蛇に睨まれたカエル状態。
死に物狂いで逃げていったのです。

誰一人助けてくれる人などいません。
自分達、数少ない生き残りで助け合い、支え合って生きるしかないのです。
平家の残党を見つけた者には源氏から褒章金が出ます。
貧しい人々は、褒賞金目当てで、顔立ちが良かったり、美しい言葉を話している若者など見つけると、
「こいつは平家だ」と訴え出ます。
そうなった人に逃げ道などなく、すぐに殺されてしまうのです。
平家の残党は必死になって、山奥へと山奥へと逃げて行きました。

その光景を思うと、いくらいい気になり過ぎた一族とは言っても、
可哀想に、あわれに思います。
もうこのくらいで勘弁してやったら、と思っても、
頼朝はそんな甘い事など認める訳がありません。
恐かったでしょうね。どれほど「誰か助けて~」っと叫びたかったでしょうね。



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終わった時が始まりだった・・源頼朝

2024-02-10 07:18:38 | 歴史
源頼朝(みなもと、よりとも)は鎌倉幕府を開いた武将です。
1147年~1199年(52歳)



頼朝のお爺さんは、為朝(ためよし)といいます。
彼は保元の乱(1156年・後白河天皇と崇徳上皇が対立)で、
崇徳上皇側について敗北し、我が息子である、
源義朝(よしとも)の手で処刑されます。(60歳)

父、為朝を処刑した、頼朝の父親・源義朝は、
平治の乱(1159年)平清盛と対立し、それに敗れ処刑されます。(37歳)
義朝の3男として生まれた頼朝(当時13歳)は、本来、死刑となる筈でした。
しかし、それに待ったをかけた女性がいました。
平清盛の継母(清盛の父親の妻)に当たる、池禅尼(当時55歳)です。
彼女は早世した(26歳)次男、家盛に瓜二つだと、清盛に嘆願し、
後に平家滅亡の根幹となる源頼朝を処刑せずに伊豆に流したのです。
この事が後に大変な事態を招くとは、あの悲劇を招くとは・・・

13歳で伊豆の地に流刑となった頼朝。
彼は幼心に「本来なら死刑になっていた自分の人生ははもう終わった」と思ったでしょう。
しかし、終わったと思った時から、彼の人生は大きく始まっていったのです。

京都では平清盛の平家一族が我が世の春を謳歌し、
平家に非ずば人に非ずと、やりたい放題でした。
あまりの傍若無人に朝廷からも不平不満の声が絶えませんでした。
そういった声は、一度は地に堕ちた源氏に、打倒平家を望む人々からの期待がかかります。
今では遠い関東の地に追いやられた源氏ですが、
源というブランド名は、やはり他の家柄を圧倒する名門でした。
平家一門に愛想を尽かした人々の期待は、源頼朝の双肩にかかってきたのです。
遂に頼朝は腰を上げざるを得なくなりました。

それからの源平合戦は良く知られる戦いです。
倶利伽羅峠、一の谷、屋島、壇ノ浦。
そして平家断絶の後は、恐ろしい平家の残党狩り。
頼朝は、温情によって生き永らえた自分の事が、生きた見本であるので、
平家の血は一滴たりとも絶やさずにおくものかと死に物狂いで平家を探し出します。
見つけたが最後、例え女子であろうが幼子であろうが、徹底的に殺します。
生かしておいたら、子供が自分に向かって牙を剥いてくるのは、
自分自身がそうだったのですから。

そして平家滅亡後の頼朝は、鎌倉幕府を興します。
1192年に鎌倉幕府が始まります。
しかし、始まったばかりの1199年に頼朝は52歳の若さで亡くなってしまいました。

自分の人生は終わったと思った時が、始まりで、
始まったと思った時が、終わりだったなんて、実に皮肉ですね。


平家物語で、何が本当か?どれが真実か?なんて、
今となっては解りようがありません。
みな琵琶法師による語りから、多分この辺が真実だろうなと、
何もかもが憶測の域を出ないのです。
とは言っても、その栄枯盛衰の様は、あまりにも悲劇的で、
私達の胸を打ち、心を揺さぶるのです。

あれは一体なんだったのだろう?
「ただ春の夜の夢のごとし」


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木曽義仲・・平家滅亡の前奏曲

2023-12-31 14:35:20 | 歴史


木曽義仲は、本名、源義仲。(1154~1184)30歳。
つまり彼は源氏の武将なのです。
長野県の木曽地方に育ったために、木曽義仲と言われます。

若い頃、木曽方面をドライブしていた私は、
路肩に「木曽義仲生誕の地」という看板を見かけ、
(はて?木曽義仲、聞いた事はあるけど、誰なんだろう?)
と思った事から、歴史に興味を持つキッカケになったという武将です。
鎌倉幕府を開いた、源頼朝、源義経(牛若丸)とは従兄弟にあたります。

義仲は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)によって、
平家追討を掲げ挙兵します。
(令旨)とは、皇太子などの命令を伝える文書です。
木曽義仲の前半生に関する史料はほとんどありません。

打倒平家を目指す義仲は、
1181年6月、長野市の横田河原の戦いに勝利しました。
しかし、その後の火打城の戦いでは平家に負けてしまいました。

さて、年が変わって1183年6月。
石川県の倶利伽羅峠で、世に名高い、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いが起こります。



砺波山に陣取る平家軍が寝静まった深夜、
背後に回った義仲軍は400~500頭の牛の角に松明をくくり付け、
平家陣目指して突撃させたのです。
寝込みを襲われ、真っ暗な山中を驚いた兵たちは逃げ惑うばかり。
逃げ惑った先に在ったのは倶利伽羅峠の断崖絶壁でした。
この戦いで10万の平家軍は大半を失い京へと退却して行きました。

勝利に乗じた木曽義仲が京都に上洛したのは1ヵ月後でした。
源氏である木曽義仲軍が攻め入って来るとの恐怖におびえた、
平家一門は、遂に京の都を捨て、西国へと落ちのびて行きました。
有名な「平家の都落ち」です。
これを最後に、平家が京の地を踏む事は、二度とありませんでした。

京都に着いた義仲軍は、京都の公家、貴族の生活様式などまるで知らず、
粗野で武骨の、木曽の山猿と言われる始末。
彼等の兵隊たちの食糧事情などの問題などあって、
次第に京都人からうとまれる存在になっていきました。



鎌倉の源頼朝の指示などあり、源義経が義仲打倒に京都を目指して進軍してきます。
義仲は徐々に迫りくる鎌倉勢に、恐れおののきます。
木曽義仲はいよいよ最期を悟り、幼い頃から苦楽を共にしてきた、
巴御前と共に覚悟を決めます。
見方の離反などあり宇治川の合戦に敗れた義仲は、遂に討ち死してしまいます。
それは、壇ノ浦で平家が滅亡する1年2か月前の事です。

いよいよ、平家の滅亡は時間の問題となっていったのでした。

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陽気な独裁者

2023-12-04 07:57:12 | 歴史
Song of General KIM IL SUNG «김일성장군의 노래» Песня о Полководце Ким Ир Сене 金日成將軍之歌


「金日成将軍の歌」
歌詞の内容はともかく、音楽として、行進曲として好きなメロディーです。

金日成、1912年~1982年(82歳)
現在の北朝鮮の基を創り上げた最高指導者(独裁者)
20世紀の世界は、多くの独裁者が登場し乱立した過渡期でもありました。



イタリアのムッソリーニ。



ドイツのヒトラー。



中国の毛沢東。



ソ連のスターリン。



カンボジアのポルポト。



フィリピンのマルコス。



ルーマニアのチャウシェスク。



ウガンダのアミン。



ロシアのプーチン。

その全員が恐ろしいイメージしかありません。
彼ら独裁者の悪口を言ったり、逆らったりしたら即刻処刑のイメージしかありません。

こういった。いわゆる権力の極限、独裁者の中で、
北朝鮮の金日成くらい、明るく陽気で、いつも笑顔を絶やさない独裁者は彼だけです。
世界最大のと殺者、恐怖の粛清者、スターリン。
この独裁者が、その共産主義を押し付け、それに応えてくれる、操り人形。
スターリンの眼鏡に叶った陽気な男、それが金日成でした。



抗日運動の英雄、本物の「金日成」は、
既にスターリンの粛清で処刑され死んでいたのですが、
1945年当時、計算上は57歳だった英雄の名を語り、
北朝鮮国民の前に現れた英雄、偽物の金日成は、わずか33歳の若僧でした。

人々は57歳の英雄の姿を一目見ようと集まっていました。
そこに現れた33歳の偽物の若僧。
人々は驚愕しますが、素知らぬ顔で英雄を演じる、偽物、金日成。
あの笑顔を絶やさない陽気な彼だったから、それが出来たのでしょうね。

頭脳が特別優れていた訳でも、特別秀でた才能を持っていた訳でもなく、
彼は周囲の人から好かれ、「彼だったら頼れる人物」そういったイメージだったのでしょう。
そして、その陽気さは北朝鮮という国家を創り上げてしまいました。



しかし、世襲制で息子に権力を伝承させましたが、
流石に孫の代になると、恐怖政治が一段と厳しくなりましたね。
果たして、こんな歪んだ世襲制国家の運命や如何に?




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