歳のせいか、最近自分が死ぬ時の事を考えるようになっています。
生まれてきた以上、絶対に訪れるその時。
人はその時、何を思いながら逝くのでしょう。
私が、身近で最初に亡くなったのは、私と同じ歳だったいとこでした。
母の姉の息子で、まだ24歳でした。
早稲田大学山岳部のOBだったのか、山岳部でヒマラヤに行き、
彼一人だけ、彼一人だけが転落して若き命を落としました。
その兄によると、亡くなる前の写真では、疲労困憊してるのが顔でハッキリと分かったそうです。
彼はとても人間性が良く、誰からも愛される人柄だったのですが、
その為に、他人の荷物を背負ってあげたり、色々と面倒をみてあげたり、
そういったしなくてもいい事をしたので、疲れ切ってしまったみたいです。
彼の姉は、そんな心優しい弟が大好きだったので、ひどく悲しみ、落ち込み、
その後遺症は今もって変わらないみたいです。
また小学校の校長だった父親は、愛する息子の痕跡を訪ねて、
ヒマラヤへ行き、死亡現場までは辿り着けないものの、出来るだけ近くへと行き、
その記録を冊子にして関係者に配布したのです。
親より先に逝くというのは、実に親不孝ですね。
社会人になってから、仕事先の管理者の彼とは、よく話をしましたが、
私と同じ歳、36歳の時にガンになってしまいました。
学生時代は柔道部だったのでガタイもよく、すこぶる元気だったのに。
入院して一時退院した時に、彼は涙ぐんで職場の人達を眺めていたのが忘れられません。
もう自分の人生が終わってしまう事を察していたのです。
まだ小さい子供3人を残して・・やっぱり駄目でした。
写真学校で、同期生だった彼は、
千葉県庁の嘱託カメラマンをしていたのですが、
仕事中に心臓麻痺でいきなり逝ってしまいました。
まだ46歳の働き盛り、男盛りでした。
子供は3人で下はまだ幼稚園で、お父さんの葬儀の時も楽しそうにはしゃいでいて、
それを見た人達は、みな泣かずにはいられませんでした。
ヒッチハイクの達人で、50円玉ひとつで北海道に1ヵ月も行ってたり、
誰からも愛され、彼の葬儀には、その交際範囲の広さ、
愛され方の半端ではなかった事に、写真仲間達はみなビックリでした。
60歳になってから好きになった趣味、歌声喫茶。
年齢的に高齢者が多い訳ですから、見送った人も多いのです。
ある男性は、亡くなる10分前に親しい友人に電話をしてきて、
自分は歌声葬で皆さんから見送られたい頼んできたそうです。
これ、頼まれた方はチョッと困ったでしょうね。
ある男性は若い頃からの最愛の妻に、若くして先立たれてしまい、
葬儀の時は妻の棺にすがり付いて泣き崩れてしまいました。
その姿を見て涙を流さなかった人は、一人もいなかったと思います。
その彼は妻の遺骨を墓に入れずに、部屋の中で一緒に暮らしていました。
あれだけ愛した妻とは絶対に離れたくなかったのです。
4年後、その彼は愛する妻のもとへと、旅だっていきました。
もっと早く、妻のもとへ行きたかったのでしょう。
今、彼等は永遠にひとつになれました。
ある男性は、風呂上がりにいきなり逝ってしまいました。
彼(彼ら)の死は、後日新聞ダネになり、それは悲しい死でした。
足が不自由で動けなかった母親が、結局、餓死してしまったのです。
ある女性は、彼女とは6人で一緒に旅行にいったりした仲ですが、
ガンで逝ってしまいました。
明るくいつも楽しい印象しかない素敵な女性でしたが、
自分がガンになってから、涙を流したのはたった1回だけだったそうです。
その気持ちを思うと、
「そんな頑張らなくてもよかったのに、悲しかったら泣けばよかったのに」と、
彼女の笑顔を思い出しながら切なくなるのです。
私の母は96歳という、大往生でした。
しかし母は、自分が何処で死んでいったのかを全然知らないのです。
それまで長年住んでいた団地から、5キロくらい離れた(老健)という施設に居たのですが、
ある日、体調が悪くなり救急車で運ばれた先は、
田園都市線の藤が丘という駅の近くの病院でした。
老健から連絡を受けた私は翌日、姉夫婦、その息子と一緒に藤が丘まで行きました。
でも母は危険を脱し、安定した状態になっていて、私達は母と話し込んだのです。
「明日また来るからね」
病院から帰宅した私は、歌声喫茶に出かける為に、家の前のバス停にいました。
バスを待っている私の携帯が鳴りました。
見ると、さっきまでいた病院からです。
「赤川さん、何分で病院へ来られますか?」
すぐに理解しました。つまり危篤という事です。
それからは慌てても間に合わない事は分かっていたので、普通に駆けつけました。
母は病室に横たわり、横にある機器の丸い窓には、ピーンと横一線が。
心臓が止まっているという事です。
母を見下ろしながら、ただ涙が流れました。
「ありがとう、今まで本当にありがとう、お母さんさようなら」
テレビドラマみたいに、
ベッドの周りに家族が集まって、そんな人たちを見回しながら、
「みなさん、ありがとう、それじゃさよならですね」
などという光景は、ほぼあり得ないのだそうです。
そんな状態の人間は、もう意識は殆ど無いのだそうです。
でも、せめて自分は何処で死んで行くんだとくらいは、分かっていたい。
何も分かっていない死なんて、それは御免こうむりたい。
それにしても、人が死ぬ、知り合いが死ぬという事は、本当に悲しいものです。
今、痛切に思うのは、妻に先立たれたくない。
俺を残して先に、逝ってしまうのだけは勘弁してほしい。
俺はもう独りになるのだけはマッピラだ。
俺は絶対に孤独では生きていけない。
頼むから、俺を見捨てないでくれ~~~~!
最後は、泣きが入っちゃったよ、やれやれ。
生まれてきた以上、絶対に訪れるその時。
人はその時、何を思いながら逝くのでしょう。
私が、身近で最初に亡くなったのは、私と同じ歳だったいとこでした。
母の姉の息子で、まだ24歳でした。
早稲田大学山岳部のOBだったのか、山岳部でヒマラヤに行き、
彼一人だけ、彼一人だけが転落して若き命を落としました。
その兄によると、亡くなる前の写真では、疲労困憊してるのが顔でハッキリと分かったそうです。
彼はとても人間性が良く、誰からも愛される人柄だったのですが、
その為に、他人の荷物を背負ってあげたり、色々と面倒をみてあげたり、
そういったしなくてもいい事をしたので、疲れ切ってしまったみたいです。
彼の姉は、そんな心優しい弟が大好きだったので、ひどく悲しみ、落ち込み、
その後遺症は今もって変わらないみたいです。
また小学校の校長だった父親は、愛する息子の痕跡を訪ねて、
ヒマラヤへ行き、死亡現場までは辿り着けないものの、出来るだけ近くへと行き、
その記録を冊子にして関係者に配布したのです。
親より先に逝くというのは、実に親不孝ですね。
社会人になってから、仕事先の管理者の彼とは、よく話をしましたが、
私と同じ歳、36歳の時にガンになってしまいました。
学生時代は柔道部だったのでガタイもよく、すこぶる元気だったのに。
入院して一時退院した時に、彼は涙ぐんで職場の人達を眺めていたのが忘れられません。
もう自分の人生が終わってしまう事を察していたのです。
まだ小さい子供3人を残して・・やっぱり駄目でした。
写真学校で、同期生だった彼は、
千葉県庁の嘱託カメラマンをしていたのですが、
仕事中に心臓麻痺でいきなり逝ってしまいました。
まだ46歳の働き盛り、男盛りでした。
子供は3人で下はまだ幼稚園で、お父さんの葬儀の時も楽しそうにはしゃいでいて、
それを見た人達は、みな泣かずにはいられませんでした。
ヒッチハイクの達人で、50円玉ひとつで北海道に1ヵ月も行ってたり、
誰からも愛され、彼の葬儀には、その交際範囲の広さ、
愛され方の半端ではなかった事に、写真仲間達はみなビックリでした。
60歳になってから好きになった趣味、歌声喫茶。
年齢的に高齢者が多い訳ですから、見送った人も多いのです。
ある男性は、亡くなる10分前に親しい友人に電話をしてきて、
自分は歌声葬で皆さんから見送られたい頼んできたそうです。
これ、頼まれた方はチョッと困ったでしょうね。
ある男性は若い頃からの最愛の妻に、若くして先立たれてしまい、
葬儀の時は妻の棺にすがり付いて泣き崩れてしまいました。
その姿を見て涙を流さなかった人は、一人もいなかったと思います。
その彼は妻の遺骨を墓に入れずに、部屋の中で一緒に暮らしていました。
あれだけ愛した妻とは絶対に離れたくなかったのです。
4年後、その彼は愛する妻のもとへと、旅だっていきました。
もっと早く、妻のもとへ行きたかったのでしょう。
今、彼等は永遠にひとつになれました。
ある男性は、風呂上がりにいきなり逝ってしまいました。
彼(彼ら)の死は、後日新聞ダネになり、それは悲しい死でした。
足が不自由で動けなかった母親が、結局、餓死してしまったのです。
ある女性は、彼女とは6人で一緒に旅行にいったりした仲ですが、
ガンで逝ってしまいました。
明るくいつも楽しい印象しかない素敵な女性でしたが、
自分がガンになってから、涙を流したのはたった1回だけだったそうです。
その気持ちを思うと、
「そんな頑張らなくてもよかったのに、悲しかったら泣けばよかったのに」と、
彼女の笑顔を思い出しながら切なくなるのです。
私の母は96歳という、大往生でした。
しかし母は、自分が何処で死んでいったのかを全然知らないのです。
それまで長年住んでいた団地から、5キロくらい離れた(老健)という施設に居たのですが、
ある日、体調が悪くなり救急車で運ばれた先は、
田園都市線の藤が丘という駅の近くの病院でした。
老健から連絡を受けた私は翌日、姉夫婦、その息子と一緒に藤が丘まで行きました。
でも母は危険を脱し、安定した状態になっていて、私達は母と話し込んだのです。
「明日また来るからね」
病院から帰宅した私は、歌声喫茶に出かける為に、家の前のバス停にいました。
バスを待っている私の携帯が鳴りました。
見ると、さっきまでいた病院からです。
「赤川さん、何分で病院へ来られますか?」
すぐに理解しました。つまり危篤という事です。
それからは慌てても間に合わない事は分かっていたので、普通に駆けつけました。
母は病室に横たわり、横にある機器の丸い窓には、ピーンと横一線が。
心臓が止まっているという事です。
母を見下ろしながら、ただ涙が流れました。
「ありがとう、今まで本当にありがとう、お母さんさようなら」
テレビドラマみたいに、
ベッドの周りに家族が集まって、そんな人たちを見回しながら、
「みなさん、ありがとう、それじゃさよならですね」
などという光景は、ほぼあり得ないのだそうです。
そんな状態の人間は、もう意識は殆ど無いのだそうです。
でも、せめて自分は何処で死んで行くんだとくらいは、分かっていたい。
何も分かっていない死なんて、それは御免こうむりたい。
それにしても、人が死ぬ、知り合いが死ぬという事は、本当に悲しいものです。
今、痛切に思うのは、妻に先立たれたくない。
俺を残して先に、逝ってしまうのだけは勘弁してほしい。
俺はもう独りになるのだけはマッピラだ。
俺は絶対に孤独では生きていけない。
頼むから、俺を見捨てないでくれ~~~~!
最後は、泣きが入っちゃったよ、やれやれ。
藤が丘、、、妻の職場です。
人の縁というかつながりも不思議なものです
駅から南へ徒歩10分以内だと思うのですが、
新しい大きな病院でした。
愛する人との別れほど悲しい事はありませんね。
ひょっとすると、ご対応させていただいてる
かもしれないですよ
その病院は、土地を持っていた方が
病院を建ててほしいと無償で土地をご提供され
つくられたんです
まさか貴方の奥様の勤務先だった(?)とは・・
写真添付が全然出来ないので、
新しいブログとして添付しました。
どうでしょう、同じ病院でしょうか?