15.12.26.夕張の子・歌声喫茶・仙台バラライカ
「夕張の子」という悲しい歌があります。
それは本当に悲しい、実際にあった話をもとにした歌です。
夕張市は炭鉱の町でした。
でしたという過去形は、つまり現在は炭鉱は廃坑になってしまい存在しないからです。
石狩炭田の中心地として栄えた夕張市は1990年までに、全てが廃鉱となりました。
夕張(ゆうばり)という名前はアイヌ語のユーパロ(鉱泉の湧き出る所)からきています。
1960年(昭和35年)には人口11万7千人を抱える都市となりましたが、
そこからの人口減少率は全国でトップクラスで、
2023年現在の人口は6500人に過ぎません。
1977年(昭和52年)には、
山田洋二監督の映画「幸福の黄色いハンカチ」で、
その舞台となった夕張は、一躍注目されました。
しかし、映画から4年後の1981年(昭和56年)10月16日、
北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が発生。
死者は93名に及び、
戦後の炭鉱事故では、
1963年、三井三池炭鉱事故・・458名。
1965年、三井山野事故・・・・237名に次いで3番目の大事故になりました。
10月16日、午後12時41分。
海面下810メートル。坑口から約3キロで、大規模なガス突出事故が発生。
これから後は、救助隊の入坑があり、
また二次災害の発生がありの紆余曲折がかなりあります。
関係者たちは炭鉱の深い場所に取り残された炭鉱夫たちを何としても助けたい、
どんな事をしても助けたいと悩み苦しみ様々な手を打つのです。
しかし、事故から3日目の18日になっても小爆発が発生していて、
火災が収まる兆しは見えず、
6日後の10月21日、会社は59名の安否不明者に生存の可能性が無いと判断。
家族への説明会を開き、林社長は、家族へ「お命頂戴いたします」と発言。
家族の同意書を取り付けます。
10月23日、13時30分。
夕張市内にサイレンが鳴り響き、炭鉱へ鎮火の為の注水が始まりました。
夕張市民はサイレンの音に手を合わせ、生存安否不明者たちに別れを告げたのです。
その音に全夕張市民は、深い悲しみに包まれたのです。
人間は、自分がこれから死刑になる瞬間であっても、
「誰かが助けに来てくれる、きっと自分は助かる」そう思うと言います。
彼等、地底の奥深くに取り残され炭鉱夫たちも、
きっと助けてくれると最後まで信じていたんだと思います。
そういった彼等の気持ちが分るだけに、
関係者たちは何としても助けたかった。
しかし、望みは完全に絶たれた。
悲しかったんだと思います。
林社長は、事故の後、手首を切って自殺を図りましたが、
助かったみたいです。
その後、廃坑になった事故の炭鉱は、
コンクリートで塞ぐ事はせずに、死んでいった彼等が息を出来る様にと、
鉄格子にして空気が流れる様にしてあります。
まだ生きてるかも知れない仲間達を見殺しにせざるを得なかった人達。
本当に、一生悲しみ、苦しむでしょう、だって人間なんだから。
「夕張の子」という悲しい歌があります。
それは本当に悲しい、実際にあった話をもとにした歌です。
夕張市は炭鉱の町でした。
でしたという過去形は、つまり現在は炭鉱は廃坑になってしまい存在しないからです。
石狩炭田の中心地として栄えた夕張市は1990年までに、全てが廃鉱となりました。
夕張(ゆうばり)という名前はアイヌ語のユーパロ(鉱泉の湧き出る所)からきています。
1960年(昭和35年)には人口11万7千人を抱える都市となりましたが、
そこからの人口減少率は全国でトップクラスで、
2023年現在の人口は6500人に過ぎません。
1977年(昭和52年)には、
山田洋二監督の映画「幸福の黄色いハンカチ」で、
その舞台となった夕張は、一躍注目されました。
しかし、映画から4年後の1981年(昭和56年)10月16日、
北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が発生。
死者は93名に及び、
戦後の炭鉱事故では、
1963年、三井三池炭鉱事故・・458名。
1965年、三井山野事故・・・・237名に次いで3番目の大事故になりました。
10月16日、午後12時41分。
海面下810メートル。坑口から約3キロで、大規模なガス突出事故が発生。
これから後は、救助隊の入坑があり、
また二次災害の発生がありの紆余曲折がかなりあります。
関係者たちは炭鉱の深い場所に取り残された炭鉱夫たちを何としても助けたい、
どんな事をしても助けたいと悩み苦しみ様々な手を打つのです。
しかし、事故から3日目の18日になっても小爆発が発生していて、
火災が収まる兆しは見えず、
6日後の10月21日、会社は59名の安否不明者に生存の可能性が無いと判断。
家族への説明会を開き、林社長は、家族へ「お命頂戴いたします」と発言。
家族の同意書を取り付けます。
10月23日、13時30分。
夕張市内にサイレンが鳴り響き、炭鉱へ鎮火の為の注水が始まりました。
夕張市民はサイレンの音に手を合わせ、生存安否不明者たちに別れを告げたのです。
その音に全夕張市民は、深い悲しみに包まれたのです。
人間は、自分がこれから死刑になる瞬間であっても、
「誰かが助けに来てくれる、きっと自分は助かる」そう思うと言います。
彼等、地底の奥深くに取り残され炭鉱夫たちも、
きっと助けてくれると最後まで信じていたんだと思います。
そういった彼等の気持ちが分るだけに、
関係者たちは何としても助けたかった。
しかし、望みは完全に絶たれた。
悲しかったんだと思います。
林社長は、事故の後、手首を切って自殺を図りましたが、
助かったみたいです。
その後、廃坑になった事故の炭鉱は、
コンクリートで塞ぐ事はせずに、死んでいった彼等が息を出来る様にと、
鉄格子にして空気が流れる様にしてあります。
まだ生きてるかも知れない仲間達を見殺しにせざるを得なかった人達。
本当に、一生悲しみ、苦しむでしょう、だって人間なんだから。