goo blog サービス終了のお知らせ 

河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

ミシシッピー川の蒸気船

2024-09-12 14:33:33 | 事件・事故


アメリカのミシシッピー川は世界第4位の長河で、総延長は約6000キロ。
支流に、アーカンソー川、イリノイ川、ミズーリ川、オハイオ川、レッド川などがあり、
その支流も日本感覚で言うと、大変な大河です。
この川は、北アメリカに鉄道が敷設される前から、大陸の南北を結ぶ、
重要な交通路でした。

特に船の動力として蒸気機関が登場すると、
多くの船舶に採用され、それは川の流れに逆らって通行する為の最良の手段となりました。
輸送される物資は小麦、トウモロコシ、綿花などの農産物が大半でした。
この様な蒸気河船は1830年代終わり頃には1000隻を超えていました。





これらの河船には大きな特徴がありました。
川幅は広いのですが、水深が浅いので、喫水は精々1,5メートルほど。
乾舷(水面から甲板までの高さ)も50センチ程度。
しかし海と違って波も無い事からそれで充分だったのです。

河船の規模は700トン。全長79メートル、全幅13メートルでした。
これらの河船は貨物を上甲板に積めるだけ積むという方法でした。
綿花の袋などは波が無いだけに転覆の心配もなく、
まるで巨大な綿花の塊が流れている様な光景でした。

一方では事故と切り離せない歴史もありました。
事故のほぼ全てはボイラー(缶)の爆発でした。
1800年代中頃の40年間に約500隻でボイラー爆発事故が起き、
(1ヵ月に1隻強)犠牲者の数は4000人(年間100人)を超えていました。

当時のボイラーは強度の弱い軟鉄をハンマーで叩きあげて曲面加工し、
これをリベット打ちしてボイラーを造りあげるのです。
しかし、工作、加工精度に均一性が無く、
高圧に耐えられない部分が破裂しボイラ爆発となるのです。

1865年4月27日に最悪の事故が発生しました。
1660トンのサルターナ号がミシシッピー川の中流、メンフィス沖で起きました。
この船には南北戦争の終結にともない、北の故郷に向かう兵士達1500名と、
一般乗客367名が乗船していましたが、
ボイラー爆発は大規模で、全船が吹き飛んでしまったのです。
1800名が犠牲となる大惨事で、アメリカ船舶史上最悪の事件だったのです
これは1500名が犠牲になったタイタニック号より300名も多いのです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ人はなぜ日本が大好きなのか ➂

2024-07-31 06:00:42 | 事件・事故




1890年、エルトゥールル事件から90年後の1980年、
イラン、イラク戦争が勃発しました。
戦争の原因は、民族、宗教など歴史的に根深いものがあり、
我々日本人にはなかなか理解し難い戦争です。



イランを率いるのはホメイニ氏。



片や、イラクを率いるのはフセイン大統領です。

戦争から5年目の1985年3月17日。
イラクのフセイン大統領は、「今から48時間後にイランの上空を飛ぶ飛行機は無差別に攻撃する」
という発表をしました。
イランに住んでいた日本人は大あわてでテヘラン空港からの出国を試みましたが、
どの飛行機も満席で搭乗する事ができません。
世界各国は自国民を救出する為に救援機を出しましたが、
日本からの救援機は、航行の安全が確保できないとの理由から見送られ、
空港にいた日本人は途方に暮れていました。





そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコ共和国でした。
トルコから駆け付けた救援機2機により、
日本人215名全員がイランを脱出する事に成功したのです。
それは攻撃までのタイムリミット、ぎりぎりの1時間前の事でした。
当時テヘランには多くのトルコ人が在住していましたが、
航空機を日本人に提供し、彼等は陸路で避難したそうです。
何故トルコ航空機が来てくれたのか、
日本政府もマスコミも分からずにいたのですが、駐日トルコ大使が次のように語ったのです。





「エルトゥールル号の遭難に際して、日本人がしてくれた献身的な救助を、
今もトルコの人達は忘れていません。
私も小学校の時に歴史の教科書で学びました。
トルコは子供達でさえ、エルトゥールル号の事は知っています。
今の日本人が知らないだけです。
それで困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだのです」

トルコが何故そこまで日本の為にしてくれるのか?
殆どの日本人はその理由を知らないのです。
トルコでは教科書でそれを教えているというのに。
これは日本人として、本当に恥ずかしい事です。





1890年のエルトゥールル号の遭難。
1985年のイラン、テヘラン空港からの奇跡の脱出。



これらを日本とトルコの合作での2015年製の映画があります。
「海難1890」です。

実は私はこの映画をまだ観ていません。
これは観ないとまずいよな、と感じていますが・・・

日本人に対する大いなる友情を今でも忘れないトルコ人の為にも、
私達は、学ばなければなりませんね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ人はなぜ日本が大好きなのか ➁

2024-07-30 15:16:09 | 事件・事故
1890年(明治23年)9月16日、夜10時半頃、
激しい風雨の中、樫野崎灯台の官舎の扉を激しく叩く、10名ほどの一団があった。
彼等は全身ずぶ濡れで、その多くは衣類もはぎ取られ、息も絶え絶えで疲労困憊の様子だった。
彼等は命からがら灯台の真下の岩場に這い上がり、
救助を求めて来たトルコ海軍の乗組員たちであった。



官舎の玄関の扉を開けた管理人は、突然目の前に現れた大柄なずぶ濡れで衣類もほとんど、
はぎ取られた人々を見てさすがに、すぐに事情を察し官舎の中に彼等を入れたのです。
家人総出で彼等の傷の手当てをする一方、言葉も分からない外国人の身体を拭き、
震える体のマッサージを始めたのです。
しかし、官舎以外に人家の無い所であるだけに、
夜明けまでに更に50名以上の同じ様な外国人が現われ、その数は69名に達したのです。
しかし、管理人達は彼等の話す言葉が全く分かりません。
どこかの国の船が下の危険な岩場に座礁し救助を求めに来たのは分かりますが、
どうにも事態の掌握ができないままに一夜が明けました。



翌日は前夜の嵐が嘘のように穏やかな快晴の朝になりました。
管理人は早速、大島村の村長に事態を連絡したのです。
村長の連絡を受けた数十名の村人たちが官舎に駆け付けました。
そして言葉は分からないものの、外国人たちの傷の手当と共に食事の準備を始めたのです。
この樫野の岩場は、昔から航海の難所として知られており、
村人達はそれまでも遭難した船乗りたちを助けてきた経験があったのです。

言葉の分らない外国人たちに何を食べさせていいのかも分らず、
家々にあった野菜や、飼っていた数羽の鶏まで持ち込んで料理を始め、
これを遭難した外国人に与えたのですが、
彼等はむさぼる様にその全てを平らげたのでした。
官舎では大勢の人々の収容は不可能な為、村の寺や神社に分散して彼等を収容しました。
困ったのは衣類を殆どはぎ取られ裸同然の彼等の衣類の準備でした。
裕福ではないこの村に家々にあるのは着古した浴衣や着物でした。
集められるだけ集めた、そういった衣類を大柄な彼等に着方を教えながら着せ、
とに角、彼等を一旦落ち着かせる事には成功したのでした。



そして言葉の全く分からないこの事態を、解決する人が偶然現われたのです。
それは、この嵐を避ける為に大島に隣接する串本の港に一隻の貨物船が避難しており、
その船長がカタコトではあるが英語を話せたのです。
幸運にも遭難者の中に多少の英語を話す士官がいたのです。
その結果、彼等はトルコの軍艦、エルトゥールル号の乗組員で、
横浜から帰路の途中で船が沈没し、多くの乗組員が行方不明になっている事が分かったのでした。
そして、その日から海岸に多くの外国人の水死体が漂着したのです。
その数は219体に達し、司令官のオスマン提督を含む321名が行方不明となったのです。

村人たちは、はるか異国の地で命を失った犠牲者の遺体を一か所に集め、丁寧に埋葬。
この事態は大島村から直ちに東京の外務省に連絡されました。
連絡を受けた外務省は遭難者の救助の為に、日本赤十字に医師と看護婦を現地に派遣します。
しかし、遭難者たちは神戸に運ばれるとの連絡を受け、医師団を急遽、神戸に向かわせたのです。

当時トルコとの国交のない日本政府は、とりあえず神戸のドイツ領事館に事態説明し、
兵庫県知事の要請を受ける形で、神戸港に駐留中のドイツ軍艦ヴォルフ号を、
串本に派遣する事になります。
そして遭難者全員を神戸に移送する事になりました。

日本政府がここまで遭難者の救助と保護に力を推進させたのは、明治天皇でした。
明治天皇はエルトゥールル号の遭難を知ると、事態を嘆き、
直ちに名代を神戸に派遣し、日本赤十字に事後の遺漏のない処置を託したのです。



日本政府はエルトゥールル号の生存者をトルコへ送還する事を決めます。
その送還の為には明治天皇からの答礼も含め、日本海軍の軍艦を派遣する事を決めました。
派遣艦として巡洋艦「比叡」と「金剛」の2隻が選ばれ、
この2隻に生存者を分乗させ、明治天皇の親書も携え、
これをもってトルコの特派使節に対する謝意を表わそうとし、
二隻の派遣艦の艦長を派遣代表としたのです。

1890年10月7日、二隻の巡洋艦は横須賀を出港し、
神戸から生存者69名が乗り込みました。
69名の生存者はそれぞれ階級に応じた日本海軍の制服が支給され、それを着ていましたが、
頭にはトルコ海軍の将兵を示す赤いトルコ帽が用意されていました。
それは全て日本海軍からの好意からの準備でした。

しかし日本の派遣隊の側では問題が発生していました。
両国の将兵の言葉が全く通じなく、意思の疎通を欠く心配が懸念されていたのです。
しかし都合よく神戸で移留外人相手に酒類の販売をしていたルーマニア人が居たのです。
彼はトルコ語、英語、そしてカタコトの日本語が話せたのです。
その彼を臨時の通訳として派遣隊に同行を海軍が依頼。
それによってまどろっこしいのですが、会話が可能となったのです。

生存者たちは25日という異例の速さでトルコへの帰還が果たせたのです。
これは当時の諸事情を考えると、異例と言える速さでした。
途中、国交問題とかの事情により、すんなりとはトルコへの入国が出来なかったのですが、
トルコ側のハミド二世皇帝の決断により可能となったのでした。
1891年1月2日、二隻の巡洋艦はイスタンブールに入港し、
様々なトルコ側の歓迎行事を受け、滞在は1ヵ月に及びました。

エルトゥールル号の遭難事件に対する日本人の心暖まる対応が知られると、
トルコ国民はこぞって日本に対し感謝と感動の言葉を送ったのです。
そして2年後にトルコ政府は皇帝侍従武官を答礼の為に、日本に派遣してきたのです。

このエルトゥールル号事件は、その後日本とトルコとの密接な関係の礎となり、
ロシアにより苦杯を舐め続けていたトルコは、
日露戦争の日本の勝利に湧きかえり、その後のトルコの無類の日本贔屓の基礎が出来上がったのでした。



樫野の丘には遭難事件の翌年1891年に、地元有志によって集められた義援金によって、
石造りの「エルトゥールル号忠魂碑」が建立された。
そして1929年に昭和天皇がこの丘を訪ねたことを機に、
新生トルコの初代大統領ケマル・アタチュルクの発案により、
トルコ政府の基金で1937年に高さ12メートルの立派な慰霊碑が建立されました。





現在では慰霊碑に隣接して串本町が、
日本とトルコの友好の証としてトルコ記念館を建設し、
館内にはエルトゥールル号の様々な遺品が展示されています。

エルトウールル号遭難から134年の月日が流れていますが、
現在でも地元串本町では定期的に遭難追悼式を開催しており、
その際にはトルコ大使が隣席するのが習慣になっています。
2008年には来日中のトルコ大統領アブドル・ギュル氏が、
遭難者追悼式に列席したのでした。





トルコ人の日本贔屓は現在も国民の中に生き続けており、
我が子の名前に日本の名前を命名する人もいるのです。





トルコ人が、なぜ日本が大好きか?
それは130年以上も前に起きた、船の遭難事件の際に、
貧乏な村人たちからの暖かい対応に彼等が心から感動し感謝した為だったのです。
言葉の全く分からない、傷つき疲れ切って、お腹を空かせた自分達に、
村人たちは、同じ人間だから、困っているのだからと、
献身的に助けてくれた行為は、どれだけ彼等の心を打ったのでしょう。
それが脈々とトルコ国民の心に、日本贔屓となって伝わっているのです。


なお、このドラマには続編があります。
それは「トルコ人はなぜ日本が大好きなのか ➂」に書きます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ人はなぜ日本が大好きなのか ➀

2024-07-28 12:59:57 | 事件・事故




トルコは、ヨーロッパとアジアとの境目にあります。
トルコの南側には地中海があり、北側には黒海があります。
最も西側(左)には有名な都市、イスタンブールがあり、
イスタンブールは西洋とアジアとの境目と言われたりします。



国土面積は77,5万㎢で、日本の37,8万㎢のほぼ2倍の大きさです。
人口は8500万人で、日本の約70%です。
公用語はトルコ語。宗教はほぼイスラム教。
平均寿命は日本人より10歳くらい低くなっています。
最も人口の多い都市はイスタンブール(約1500万人)で、
それは首都アンカラの3倍近くになっています。
日本との時差は7時間。

さて、それほど遠いトルコが何故、日本が大好きなのでしょうか?
日本から近い朝鮮、中国などからはそれほど好かれていないのにです。
それより、トルコ人が日本が大好きだったなんて、
知らなかった、初耳だという人の方が多いんだと思います。

それは、1890年(明治23年)9月16日、夜10時半頃、
和歌山県、紀伊半島の南端でトルコの軍艦が岩礁地帯に激突した、
難破事件がその始まりでした。





軍艦の名は、エルトゥールル号、トルコ海軍正規の巡洋艦で、
2344トン、全長75メートル。全幅15メートル。
3本マストの帆船ですが、600馬力のエンジンを備えており、時速18キロを出せました。
兵装には15センチ砲8門。8センチ砲5門を備えていました。
ただ、艦齢は39年という老朽艦で、日本までの長距離航行に多少の懸念はありましたが、
トルコ海軍の事情で、これ以外の最適な軍艦の選択はできなかったのです。

そもそもトルコ海軍が何故、日本に来る事になったのでしょう?
当時のオスマントルコ(オスマン帝国の実権国)は、
長く続いた隆盛の時期から後退を始め、ロシア、イギリス、バルカン諸国との中で、
劣勢を強いられていたのです。
この不利な情勢の中、世界に向けて国家の威信の喧伝(けんでん)に懸命の努力をしていたのです。
その一貫としてまだ国交のない日本に親善使節を送り、
国交樹立の準備を図ろうとしたのです。





この派遣艦の司令官は、オスマン・ベイ海軍大佐。
艦長はアル・ベイ海軍中佐でした。
乗組員の総数は609名。

エルトゥールル号は1889年7月14日にイスタンブールを出港。
スエズ運河を通りシンガポールに到着したのは11月16日。
実に4か月の時間を要したのは、スエズ運河を通過中に座礁事故を起こし、
その修理に2か月を要した為です。
その後、南シナ海の天候の安定を待つ為にシンガポールに長期滞在し、
長崎に到着したのは翌1890年5月22日で、
最終目的地の横浜に到着したのは6月7日。
トルコから実に10ヵ月という大航海でした。
これは事故の修理や天候待ちに7か月を要した事もありますが、
乗組員が長距離の大航海の経験に乏しく、
エルトゥールル号の老朽化による安全性の配慮が原因と思われます。

横浜から司令官、艦長といった主だった幹部は、
皇居に向かい、明治天皇に謁見したのです。
そしてトルコ側から明治天皇に、明治天皇からはトルコ側に、
お互いに国書や勲章といった物が交換され、任務は全て終了したのです。

エルトゥールル号は3か月間横浜に停泊し、
日本とトルコとの様々な親善行事に参加した後、
9月14日にトルコへの帰途につきました。

エルトゥールル号は横浜から紀伊半島を廻り神戸に行く予定でした。
しかし、横浜を出港した時、日本には台風が接近していたのです。
当時、日本には台風を事前に察知し、その後の状況を観測する体制は存在せず、
エルトゥールル号が横浜を出港した時に、この嵐は全く予知されていませんでした。



昼過ぎから風雨は強くなり嵐の兆しが見え始めていました。
紀伊半島に近づいていましたが、その頃には完全に暴風雨になっていました。







夜になって横転を防ぐ為にアル艦長は全ての帆をたたみ、
エンジンだけで走っていましたが、船体は激しい強風と波浪に翻弄されていました。
その中でアル艦長は樫野灯台の光を発見し、
それを基準に艦を進めていましたが、艦はいつの間にか灯台の方に押し流されていたのです。





夜9時過ぎ、最も危険な岩場地帯に流されたエルトゥールル号は、
甲羅岩礁に激突し、老朽化した木製の船体は大きく破壊され、沈没してしまったのです。

沈没後の話は ➁に続きます。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三毛別羆事件・・後日談

2023-12-14 13:41:50 | 事件・事故
先月、11月13日に、
「日本最大の獣害事件・・三毛別羆事件」を書きましたが、
その事件には長期間に及ぶ、後日談があります。





北海道・苫前郡三毛別地区で死者7人を出す、羆獣害事件が起こったのは、
1915年(大正4年)12月9日~14日までの6日間の出来事でした。
その時、2番目に襲われた家で、気絶して生き残った少年がいました。
それが三毛別区長であった大川与三吉の息子、当時6歳の大川春義でした。
春義は父親から「お前はマタギになれ」と言われ、
春義本人も幼かった自分の目の前でヒグマに喰われる人達を見ていた惨めさ、口惜しさがあるので、
自分は大人になったら、絶対に仇を打つ、
殺された人、一人につき10頭のヒグマを撃つと誓ったそうです。



春義は、三毛別事件の巨大羆を撃ち取り、
生涯に300頭の羆を撃ち取った伝説のマタギ、山本兵吉を師と仰ぎ、
マタギへの道を歩んで行きました。
しかし、いざ羆に相対すると、あの、子供の時の恐怖から怖気づいてしまい、
発砲する事が出来なかったのです。
春義が初めて羆を撃ち取ったのは、32歳の時でした。

春義は念願であった人間一人に付き10頭の羆。
7人の犠牲者で、70頭の羆のと殺を、ある日遂に達成したのですが、
その腕前から、周囲の人達から是非続けてほしいと頼まれます。

しかし春義は、ただ憎さから羆を撃ち取るのではなく、彼らに対する畏敬の念を持ち続け、
子熊をかばう母熊を撃ち取る事を躊躇する一面もあったそうです。
1977年(昭和52年)初めて羆に挑んでから37年、
遂に100頭の大台を達成しました。
春義の活躍により、1904年から三毛別事件までの10年間に、
死者46名、負傷101名、牛馬2600頭に及んでいた被害が、
春義の活躍により、その被害は1/3にまで減ったそうです。



事件後、無人となってしまった苫前町が町おこしの為に、
記念碑を設けたのは、事件から75年後の1990年の事でした。
春義は「本当に悪いのはヒグマではなく、彼等の住み家を荒らした、
私達人間のほうではないか」
そういったことを言う時もあったそうです。

1985年12月9日、三毛別事件の70回忌の法要が行われました。
76歳の大川春義は供養祭の行われる小学校での講演を始めた時に、
突然、バッタリと倒れ、そのまま息を引き取ってしまいました。
その日はまさに三毛別事件から丁度70年目の日だったのでした。





春義の長男である大川高義もまた、羆狩りの猟師として活躍し、
「北海太郎」と呼ばれた巨大羆を8年間の追跡の後、撃ち取ったのです。
それは、三毛別の羆が380キロだったのに対し、500キロという巨大さでした。

かつては日本の領土でもあった樺太(現在のサハリン)は、
羆の密生地でもあり、北海道以上に羆による悲惨な獣害事件が多発しています。

現在の日本では羆を射殺すると、
「可哀想だから熊を殺さないで」といった幼稚園児なみの幼い電話、
メールなどが多数寄せられ、現地では業務妨害として、即、電話を切るそうです。
先日も、大都会札幌の市街地で真昼間、歩行者が後ろから襲われ、
大怪我を負うという信じられない事件が起きています。
それでも「熊が可哀想」って、被害に遭う人間はどうなってもいいのでしょうか。

人間が羆の生活圏に入り込んでいるのは確かかもしれませんが、
どこかで線引きして、お互いの生活圏を犯さないようにしないと。
この問題は複雑で、単純には行きませんが、早急に何とかしないと、
羆が生息している地域の人々の安全は危険性が大きくなるばかりですね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする