河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

グーグル遊び

2025-03-16 05:59:00 | 日記
グーグルマップというのがあります。
Gと入力し検索すると、グーグルマップが出ると思います。



自分が見たい住所を検索すると普通の地図が出てきます。
これは、たまたま浅草方面の地図ですが、
その地図の右下にこういった黄色の人形があります。

その人形をクリックすると、普通の地図の道路が青い線に変わります。
その青い線の自分が見たいポイントをクリックすると、
人間の目線から見た風景が見られます。
それがグーグルストリートビューです。



こういった地図映像は、グーグルの専門車両が世界中の道路を走り回って、撮影した映像です。
私もそんな車を3回くらい見かけた事があります。
しかし、例えば狭い路地といった小道には車が入れなかったりするので、
その道路の映像は見たくても見られません。
あくまでも、(青い道路)だけしか見る事は出来ません。

とは言ってもほとんどの道路は見られるのです。
そうすると、どんな事が出来るのか?

例えば貴方の知人、友人がどんな場所に住んでいるのかが大体わかるのです。
正確な住所であればあるほど正確なポイントが見られます。
これは実に面白いのです。
今までは住所録といったノートがあっても、それは年賀状を書く時の手がかりでした。
しかし、私の様に年賀状という慣習を捨ててしまった人間には、
単なる電話帳でしかありませんでした。

しかし、これからは再び住所、所番地が重要になってきました。
住所を入力し検索すると、その人がどんな場所で生活してるのかが分かるのです。
これが実に面白いのです。
パソコンを相手にしながら、時間を忘れるくらい面白い遊びが新しく出来てしまいました。

なので、これからはフェイスブックのメッセンジャー欄で貴方の住所を訊くかもしれません。
どうか疑り深い目で見ない様に、考えない様にして頂きたいのです。
単なる野次馬なだけなんですから。
面白いですよ~、でも男の住所は要らないよ。
私は女性にしか興味は無いのですよ~。

その内、時代は変化して、貴方の家の中までパソコンで見られる様に、
なるかも知れないですね。
それだけは困りますね。
闇バイトのターゲットになっちゃいますからね。

そういった裏話ではなく、あくまでも楽しく遊びたいね。
インターネットの世界は、世の中をそういった具合に変えていくのですね。



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ともしび&ホワイトデー

2025-03-14 14:18:20 | 日記
昨日は、昼、夜、通しでの歌声を楽しんで来ました。
雨天を避けて一昨日を避けて行ったのですが、昼の部はとに角客が多かった。



夜の部では大好きな「私に人生と言えるものがあるなら」をリクエストしたのですが、
「私に人生・・」大好きを司会の修平さんが知っていたんでしょう、
前に出て唄いなさいよと手招き。
そりゃ好きな歌なんですから、喜んでマイクの前に行ったはいいんですが、
私を知らない方がいっぱい居るので困ってしまいました。
だって、司会者に手招きされたんですから、
皆さんは私をさぞ歌の上手い客なんだと思っているでしょう。
それじゃあまりにも恥ずかしいというので、
「私は声も良くないし」おまけに「歌も下手なんです」
「ただ顔で唄ってるだけなんです」と苦しい言い訳から入りました。
私は大好きな歌になると楽しくて楽しくて、それが態度と顔に出ちゃうんです。
ま、それを見たら、皆さんは「あ~なるほどね」と納得してくれるだろうと・・・



昨日のピアノ伴奏は斎藤社長だったのですが、
社長が河島英五大ファンである事を知っているので、
「酒と泪と男と女」をリクエストしたのです。
客からリクエストされたんですから、斉藤社長は唄ってくれましたが、
やはりその間のピアノは修平さん。(写真に映ってますね)
修平さんは、歌、司会、ピアノ、アコーディオン、ドラム、
そして料理は昔それで店をやってたとかで、本当に何をやらせても万能ですね。

斉藤社長に訊いたら、河島英五の歌はともしびには「酒と泪と男と女」
それと「時代おくれ」の2曲しか載ってないのですが、
好きな歌は、実はあまり流行らなかった歌とかにもいっぱい在るそうです。
となると、CDを買うしかないですね。
それにしても河島英五が48歳で早世するとは、悲しいですね。



客席に、ともしび店で何度もお見かけするこの男性客が居て、紹介されました。
この男性は、ともしび歌集にも載っている、
「さくらんぼ」・・・緑の歌集74ページ。
「雲が人々を殺さぬように」・・・緑の91ページ。
「ふるさと」・・・緑、73ページ。
 ★ 統一劇場の名称で1965年に創立され、創作劇の上演を心がける劇団で、
   ミュージカル「ふるさと」のテーマソングとして作られた歌。
   その後、山田洋二監督によって映画(同胞・・はらから)が撮られた時、
   その主題歌ともなって全国に広がった歌。
ともしび歌集にはこの3曲が載っていますが、
また、828歌集62ページには「ピースナイン」という歌があります。
仙台バラライカの歌集には「あき」という歌が25ページにあります。
 (この歌だけは探してもメロディーが出てきませんでした)
これら5曲を作曲したのが岡田京子さんという作曲家で、
この男性客は岡田京子さんの息子さんなのです。

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さて、今日は3月14日。
いわゆる、ホワイトデーという日。
2月14日のバレンタインデーは女性が男性にチョコレートを贈る日。
その1ヵ月後の今日は、男性がそのお返しをする日なんだそうです。
私はいつも妻から貰うばかりで、お返しをした事が無かった。
それでは、あまりに失礼だと思い、
1週間前に近所のケーキ屋さんに、こちらの希望(妻が好きなのはモンブラン)を伝え、
それに沿って作ってもらったホールケーキを受け取りに行きました。
それが写真に添付したケーキです。
今日と明日の2日間かけて、妻はモンブラン尽くめをします。
まぁ、こういった事もいいでしょう。
さてと、来年はどうしようかな・・?


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ジャック・キャシディー

2025-03-12 12:30:25 | 映画








ハリウッドスター、ジャック・キャシディーと聞いて、
「あ、あの男か」と分かる人は、恐らく皆無かと思います。

しかし、名前は知らなくても顔を見れば、
一度は見た事があるという人は、それなりに居るのでしょう。

私もそうでした。
「刑事コロンボ」では犯人役として3度も登場したそうです。
その印象が、それが強烈です。
あ、「あのイヤらしい男」「スケベったらしい男」「キザな男」
それに尽きるのです。
それに加えて言えるのは、「同性愛者(ホモ)にありがちな顔」
「ね、君って可愛い顔してるね」と、若い男に言いそうな顔。
「あ~、こいつ気持ち悪い」私はそう思っていました。

この俳優は、1927年~1976年。
アイルランド系の父と、ドイツ系の母との英独混血です。
彼は2度の結婚をしており、2度目の結婚は、
有名女優のシャーリー・ジョーンズでした。





彼等の間には3人の子供を授かりましたが、離婚しました。

クリント・イーストウッドとの映画「アイガー・サンクション」にも登場します。
「刑事コロンボ」の時には、その服装のセンスの良さに、どれほど魅せられた事か。
勿論それは彼個人がやる訳ではなく、
そういったスタッフが彼に着せるのですが、
あの「刑事コロンボ」は、全体を通して服装センスの素晴らしさにはため息ものでしたね。
そういった中でも、ジャック・キャシディーの着る服の華麗さは群を抜いて素晴らしかった。
ただ、彼の顔には独特の(いやらしさ)があって、それだけは誰にも真似できませんでした。

彼は息子に言わせると、双極性障害だったという事で、
それは(躁状態と鬱状態を繰り返す病気)だったという事です。

3度目の「刑事コロンボ」出演の後、
寝たばこが原因のマンション火災により49歳で亡くなりました。
遺体は損傷が激しく、歯型と指輪で本人と確認されるという悲劇的な死でした。



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あの日だけは忘れてはならない

2025-03-12 07:09:08 | 東日本大震災
【3.11】東日本大震災を忘れないで… 花は咲く 私は何を残しただろう Flowers bloom What did I leave behind?


昨日で、東日本大震災から14年が経ち、
日本中で様々な鎮魂の行事が行われました。
私はうかつにも午後2時46分を忘れてしまいました。
来年15年目には、うっかりなどというミスはしないからね。























皆さんも、是非被災地に行ってください。
被災者たちの現実を見てください。
もう14年前の現状は殆ど残っていないでしょう、復興の景色しかないかもしれません。
でも、そこへ行けば彼等の悲しみの心に触れ理解しようという気持ちになるでしょう。

私は最初、被災地を見たい(見物)という気持ちは、
彼等被災者の気持ちを逆なでし、凄く失礼だと思っていました。
しかし、それが全く逆であり、彼等は自分達が体験した恐ろしい現実を見てくれ、
その惨状を少しでも見てくれ、そして判って欲しかったのです。
彼等が最も嫌ったのは、自粛でした。
自粛して東北に行くのはやめよう、それは失礼だから。
いえ、彼等にとって自粛される事ほど恐ろしい事はありません。
どうか東北に来て、悲惨な現実を見て、お金を落として欲しいのです。
行けば何処かの店で食べるし、宿にも泊るでしょう。
お金が被災地に落ちるという事は凄く重大です。

被災者から聞きましたが「誰か知らないけど人間が歩いている」
その姿を見るだけで勇気が出てくると言ってました。
私は独りだけで被災地を歩きまわり写真を撮り続けました。
全く瓦礫ばかりの水溜まりを避け、おまけに物凄い臭いの中を歩くのは骨が折れました。
私が歩いている姿を見た人にも、
多少なりとも勇気が湧いた人が居たのかもしれません。
殆ど歩いている人の姿など、私も見なかったし、会いませんでした。
ホテルにも勿論泊まり、食事もしました、買い物もしました。
私一人が落としたお金など微々たる金額でしょうが、それでも確実に落ち、
そのお金は被災者たちの少しだけの支えになりました。
自粛などされたらたまったものではありません。

これまでの死者は15900人。行方不明者は2520人。
災害関連死者は3808人。 死者の合計は19708人。
あの大震災での死者行方不明者は22228人です。
これは戦後最大の大事件です。ある意味、戦争です。
どうか今からでも被災地に行って、例えば(語り部)からあの日の話を聞いてください。
盛り土で以前の姿ではなくなった場所でも、
そこの昔の姿を想像し、そこで亡くなってしまった人達の事を、
すこしでも考え想い、偲んでください。
若くして逝ってしまう自分がどれほど悲しく切なく、悔しかったでしょう。
これからいっぱいしたい事があったのに、まさかこんな死に方をするなんて。
せめて遺体だけは見つかって欲しい。
家族の下に返して欲しい。

昨日は日本中で彼等を偲ぶ集いがありました。
しかし、福島の原発被災地、あそこのたちの悪い陰湿さ。
放射能さえなかったら、土地は再生できるのに、
あそこだけは立ち入りすら出来ないのですから。
それでも人には故郷がありますから、少しだけの時間を許されて立ち入る人もいますが、
根本的解決には程遠い、その口惜しさ無念さは、当事者でなければ判らないでしょうね。

皆さんも、どうか一度は東北の被災地に行ってください。
あの(戦争)を忘れてはなりません。
行って、いっぱいお金を落として来てください。
それが、貴方に出来る最大の供養ですよ。


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被災地巡礼、最終章

2025-03-10 09:38:59 | 東日本大震災
2011年10月の気仙沼から4年後。
2015年12月25日に被災地、南三陸町を妻と共に訪れました。

あの日、眼下には地獄の様な光景が広がっていたのですが、
5年近い時が経過したその日は、復興の光景が広がっていました。



南三陸町の悲劇のシンボルにもなった防災対策庁舎。
高さ12メートルの建物は完全に水没し、
屋上のアンテナ柱にしがみ付いた10人だけが生き残ったのです。





この建物で最後まで避難のアナウンスをし続けた女性職員、遠藤未希さん。
職員たちの「未希ちゃん、上へあがって、上へあがって」という制止を振り切って、
最後の最後までまで避難を呼びかけ続け、24歳の若き命を落してしまいました。
まだ結婚式も挙げていない新婚さんでした。
建物の左には復興の盛土が見えています。
彼女の命を賭けたアナウンスで死なずに済んだ「未希さんありがとう」と言う人は沢山います。

妻は若くして逝った未希さんに想いを馳せ、泣いていました。



あの日、そこは阿鼻叫喚の世界しかありませんでした。
収まってしまえば、実に平和な世界なのです。



南三陸では、明神崎壮という民宿に泊まったのでした。



部屋からは、怒りの収まった平和な志津川湾が広がっていました。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2016年9月30日には、陸前高田へ行きました。



かつて7万本あったという松林は、たった1本を残して全滅してしまいました。
奇跡の1本松と言われ陸前高田のシンボルとなった松が見えました。



復興の盛り土と、新しい団地が出来上がっています。



鉄道は流されてしまったので、電車の替わりに線路があった部分にバスを走らせる、
BRT方式が移動手段となりました。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そして最後、2016年12月10日には、再び石巻へ行きました。
私は実は3回目ですが、妻は初めての石巻です。

5年前に見た、旧北上川河口には、石巻市立病院は取り壊されていました。



震災後は多くの亡霊が出て、そこに行くのを嫌がったタクシーが多かったそうですが、
2011年11月に、ダライラマ14世が石巻を供養で訪れてから、
亡霊はピタリと姿を現わさなくなったそうです。
しかし、「幽霊でもいいから逢いたい」という人も多かったと聞きます。





まだ献花台に人は絶える事なく、涙を誘います。





津波はここまで来たよという、高さ6,9メートルのポール。



私が初めて見た、衝撃的な石巻市街地は全てが更地になり、
復興記念公園となるそうです。と言うか、もうなっているのかもしれません。



あの火災で焼け落ちた門脇小学校も、それを残す事はせずに、
大きな池などを含む一大公園になるのですね。


あまりにも大きな災害でした。
私は被災地を5回(厳密には6回)訪れ、日本人として命を落した人々の悲しみは忘れない。
忘れてはならないと、強く思うのです。
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