goo blog サービス終了のお知らせ 

河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

女の浅知恵

2021-11-29 03:53:08 | 日記


昔、行きつけの食堂がありました。
そこのおばさんに聞いた話です。

その食堂に、近くに在る会社の社員たちがよく昼食に来ていたそうです。
その中のある3人は仲良しでした。
そんな彼等が「宝くじ」を3人でお金を出し合って買ったそうです。

さて、当選発表になった時、
何と3等、100万円が当たっていたのです。
そこまでは目出たかった。
しかし、そこから話はややこしい事になりました。



その当選券を持っていた一人の男の妻が、
「これは貴方が買ったんだから、全部貴方の物だ」と。
100万円を3人で一緒に買ったのだから一人33,3万円づつ分ければ何の問題もなかったのに、
その妻は頑としてそれを受け入れずに離そうとしないのです。
他の2人分の67万円を我が物であると言い張り、譲らないのです。

宝くじ券を売り場で買った本人は、彼等に「100万円当たった」と言ってしまいました。
ですから、彼等は早く33万円を俺達に頂戴よ。
と思っているのに、彼の女房が握ったまま決して離そうとはしないのです。

これには亭主も困り切ったと思います。
壮烈な夫婦喧嘩になったと思います。

33万円の(棚から牡丹餅)だったら、
普通の家庭ではかなりの遣い出があった筈です。
彼等3人は家族ともども豪華な料理で盛り上がったかも知れません。
それだったら、きっと全員が楽しかった筈です。

しかし、たった一人の女がそれを全部ぶち壊しにしてしまいました。
同じ会社で毎日彼等は顔を合わせるのですから、
当選した男は、もう居たたまれなくなり、結局会社を辞めざるを得なくなりました。

たった67万円を、いくら喉から手が出る程欲しかったとはいえ、
亭主の職まで失う程欲しがる女が何処にいるでしょう?

まさに「女の浅知恵」・・「馬鹿丸出し」
宝くじというのは、こういった買い方はやめておいた方が正解ですね。
それにしても、彼等夫婦はその後、離婚・・そうなったかも知れません。
もしそうだったとしたら、
その女は何もかもを失った、という事です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東郷元帥

2021-11-27 07:46:38 | 軍事
元帥(げんすい)という階級はなく、大将の上に位置する名誉みたいなものらしい。
日本軍には、陸軍に17人。海軍には13人の元帥が誕生しました。
陸海軍合計で30人。
最初に元帥が登場したのは1898年(明治31)からで、
最後は1944(昭和19年)までの46年間ですから、
1,5年に1人しか元帥にはなれなかったのですね。
東郷元帥はその30人の元帥のなかで、最も有名だった軍人でしょう。





東郷元帥・・東郷平八郎はその中でも国葬で祀られました。
国家が行う葬儀、国葬となったのは過去に25人で、
その中で軍人だったのは10人ですが、
名誉軍人も多く(〇〇親王とか、)純然たる軍人は3人くらいでしょうか。
国葬になった有名な人には、伊藤博文・岩倉具視・吉田茂・昭和天皇などがいます。





東郷元帥とはどんな人だったのでしょうか。
東郷平八郎は1848年(弘化4年)に鹿児島で生まれました。



体型は小柄でしたが美男子であり、若い頃は女性からとてもモテたそうです。
1871年(23歳)から1878年(29歳)までイギリスに留学しました。
イギリスでは国際法を学びました。

日清戦争(1894年)には、巡洋艦・浪速艦長(大佐)を務め、
豊島沖海戦・黄海海戦・威海衛海戦で活躍、少将に昇格し、
その冷静な判断力が、後に連合艦隊司令長官に人選される要素になります。



日露戦争前の1903年(明治36年)に、連合艦隊司令長官に任命されます。
東郷平八郎が(運のいい男)だった事が、その理由とも言われました。

1905年の日本海海戦に勝利し、国民的英雄となり、
アメリカのニュース雑誌「タイム」の表紙を飾った初の日本人となりました。



趣味は盆栽と碁で、質素倹約を旨として夫人と共に静かに戦後を過ごしました。
1934年(昭和9年)86歳で亡くなります。
全国から膨大な見舞状が届きましたが、
ある小学生が書いた「東郷元帥でも死ぬの?」という文面が新聞に載り、
大きな反響を呼びます。
イギリス・アメリカ・フランス・イタリア等、各国の軍艦が葬儀に訪日しました。



日露戦争・日本海海戦で一方的な完全勝利を収めた海軍軍人の功績は大きく、
イギリスは母国のネルソン提督と並び、東洋のネルソンと称えました。
アメリカは、ニミッツ提督・スプルーアンス海軍大将・ハルゼー提督も、
東郷提督への畏敬の念を強く持ち、賛辞を惜しみませんでした。



その功績を讃え、横須賀には戦艦三笠と東郷元帥が祀られ、







東京の渋谷には東郷神社が造られ、切手にもなりました。





墓地は多磨霊園にあり、山本五十六海軍元帥と隣り合って在ります。
東京・府中の別荘跡地には東郷寺が造られました。


私は、この東郷平八郎氏くらい、幸せな人生を送った人も珍しい気がします。
国民的英雄になり、侯爵となり、国葬で見送られ、
彼の死後、日本が戦争でメチャメチャになって行った事も知らずに逝く。
そういった意味で、軍人として最高の人生だったと思うのです。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供ながらの思いやり

2021-11-24 18:33:44 | 日記
小学校3年までを、目蒲線・洗足ですごした私でしたが。
丁度3年から4年生になる時に同じ品川区でも大井町に引っ越しをしました。
洗足が高級住宅地だったのに比べ、
大井町は下町的で、最初私はそういった雰囲気に中々馴染めませんでした。

今の時代は転校生はイジメの対象になったりする様ですが、
私の時代はまでそういった陰湿な事はなく、
転校生になった私はむしろ皆から珍しがれられ歓迎されたのでした。

あれは6年生になっていた頃だったか、
級友たち5~6人くらいで、友達仲間の家に行った事があります。





しかし、その彼(H君)の家はいわゆるクズ屋部落にありました。
今でこそ廃品回収業とか言われますが、
その当時、クズ屋というのはリヤカーで廃品を回収するのを皆が見ていて、
世間からさげすまれた職業で、クズ屋=貧乏人の極致的に思われていました。



でも、その彼(H君)は性格が明るく、みんなから愛されていました。
その一角は京浜東北線の線路沿いで、
その道は袋小路になっていたので、一般の人はまず立ち入る事はありません。
私達はその路地の入口まで来た時に、彼は「チョッと家に寄って来る」と小走りに行きました。
彼以外の皆は、お互いに顔を見合わせてそこから先に行く事をしませんでした。
彼だけが自分の家へ行き、皆は彼が戻って来るまでそこで待っていました。

彼が家を目指して去って行った時に、
誰かが言いました「行っちゃ悪いよ、ここで待ってような」
みんなは誰も反論などしませんでした。
みんな分かっていたのです。
見すぼらしい、掘っ建て小屋みたいな家など見られたくない、という事を。



子供と言ったって、みんなそういった優しい思いやりの心は共通でした。
あの頃はみんなが貧乏な時代。
その中でH君だけが飛びぬけて貧乏だったのですが、
皆は自分の両親たちも貧乏な中で精一杯頑張っているのを知っていて、
彼の辛さは自分達以上だと感じていたのですね。

あれは何の変哲もない、一瞬の時間でしたが、
今になって、あの一瞬の優しい思いやりだった時間が、
人生の中でどれだけ大切で美しい瞬間だったかと思い切なくなります。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小牧バレエ団

2021-11-24 06:59:26 | 日記
子供の頃は、品川区の目蒲線・洗足駅の近くに住んでいました。



その駅から近い所に「小牧バレエ団」がありました。
小牧バレエ団というのは、小牧正英という方が立ち上げたバレエ団です。





小牧正英 1911年ー2006年(94歳)
中学生の時に、太田黒元雄の「ロシア舞踏」という本に出会い、感動したそうです。

太田黒元雄 1893年ー1979年(86歳)は音楽評論家。
1946年から1964年までNHKラジオで放送された、
「話の泉」でレギュラーを務めていて、それは私も覚えています。
軽妙で博識で魅力的な方でした。

さて、小牧正英は1934年(23歳)、中国ハルピンでバレエ学校に入学します。
1939年まで中国でバレエの研鑽を積み、
日本に帰国後1947年(昭和22年)に小牧バレエ団を結成。
以後、日本バレエ界で活躍を続けました。

ところで、話の本筋は何も小牧正英という人物でも、バレエ団の歴史でもないんです。
私が何故、バレエの話などするかと言うと、それはランニングシャツなんです。



私が子供の頃は近所の男の子たちは、特に夏になるとみんなランニングシャツを着ていました。
ところが私はこのシャツが大嫌い。
何故嫌いなのかというと、子供のくせに肌を露出するのが嫌いだったのです。
これに困った母親が私を小牧バレエ団の教室に連れて行き、
窓越しから彼女たちの練習風景を見させて、
「ほら、み~んな裸でしょ」と言って説得したのです。(笑)







そりゃ、まぁ裸と言えなくもないけど、違うんじゃないの?
こういった風景を何度も何度も母に連れられて見に行ったな~。
でも、やっぱりランニングシャツは好きになれなかった。
今でも嫌い、子供の頃から全然進歩なし。
シャツは全部半袖シャツしか着ない。冬は長袖だけど。

母も変な男の子で苦労したんだね。
でもあれはきっと、母がバレエを見たかったというのが本音だったのかも知れない。
女性だったらみな一度はバレリーナに憧れるみたいだからね。
もうわかり様もないけど、本音を訊いとけばよかったな。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

登山靴の思い出

2021-11-23 20:09:49 | 登山


これは私がずっと愛用し続けた登山靴です。
もうこれを履く事はないなと、廃棄する前に記念に撮った写真です。
メーカー名は「ゴロー」確かSー7だったか?



登山を初めて最初に買ったのはザンバラン軽登山靴でした。
しかし、すぐに物足りなくなって、これは知人に安く売ってしまいました。
そして次が写真にあるゴローの登山靴です。
これは既製品ではなくオーダーメイドの靴でした。



「ゴロー」は何処に在るかといえば、巣鴨なんです。
わざわざ横浜から巣鴨まで行って型を採りあつらえて作ったのです。



何故、ゴローかと言えば、このスタイルに一目惚れでした。
「美しい~ッ」
私は女性も車も美しいのが大好き。
だから妻も車も登山靴も、(絶世の美人)ばっか。・・エッ?
カタログの写真はまだ保革油を塗る前のなめし皮みたいなスベスベした写真。
「美しい~」っと一目惚れでした。



しかし、本格的な登山靴は全てが、裏出し皮で出来ています。
動物の皮の表を表面にすると、一旦傷が付くと内部まで水分が浸透してしまいますが、
裏側を表面にしておくと、傷が付いても内側の皮は安全性が保たれ水分の侵入を弾いてくれます。
しかし裏側のままでは水分から護れません。
そこで保革油を塗って水分を弾くのです。



一旦、保革油を塗ると、外観は一変してしまいます。
もうあの麗しいバックスキン状の靴ではなく、黒くなって現実味を帯びてきます。
みんなそうやって山を歩いているのですね。

しかし、このゴローの靴は実は失敗作だったのです。
初心者だった私はそれを気づく事が悲しくも出来ませんでした。
要するに小さいのです。
ですから山から帰ると足は血豆が絶えず出ていました。
これは少しおかしいと思い、巣鴨まで靴を2回持って行きましたが、
ゴローでは靴の中側からコテで広げて修正をするのですが、
小さい靴が大きくなる筈はなく、とうとう最後まで悩まされていました。



ある時、他の山好きから聞いたのですが、
高田馬場の「トップ靴店」では、
そういった場合は最初から作り直してくれるんだそうです。
何でも、オーダー品といっても、1年に1足か2足はこういった失敗作が出るそうなんです。
それは修正などで補える話ではなく、作り直すしかないんですね。
それを聞いた時は心底ガックリしました。

考えてみると、今でこそゴローは有名になっていますが、
創業は1973年らしく、私が作ったのは多分、1975年くらい。
まだまだ職人の腕が未熟だったのかも知れないのです。

「あ~、トップで作れば良かったな~」と思っても後の祭りでした。
何故、トップ靴店にしなかったかと言えば、それは簡単。
スタイルがあまりにも魅力がなかったからです。



最初の頃はいつも、このザックばかりで山を歩いていました。
これも廃棄処分する前に記念に残した写真です。
何かのカタログでこのザックを見て、これも一目惚れ。
ある時、これも何かの写真を見て、お茶の水の登山用品店にこれが在ると分かり、
電話で確認して間違いなくウォークアバウトの水色かと尋ねて買いに行ったのでした。
私は何でも色に対してはこだわるのです。
車も色にこだわって全塗装した事があります。
ですから、素敵な色の服を着た女性など見ると、胸がときめきます。

ある時、向かい側から歩いて来る外人のネクタイがあまりに素晴らしい色で、
私はよほど「そのネクタイ売って下さい」と声をかけようと思いました。
しかし、とっさにそれが出来ないままに通り過ぎてしまった事があるのですが、
それは今もってクヤシイし無念だった。

登山靴と言っても、それは人によって思い出は千差万別。
まあとに角、無事で登山生活をまっとう出来た事はめでたしめでたしでした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする