河童の歌声

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アルプス三大北壁

2021-04-30 08:02:08 | 登山


ヨーロッパアルプスに三大北壁と呼ばれる大岩壁があります。

アイガー、マッターホルン、グランドジョラスにある三大北壁です。
この中で最も有名なのは、アイガー北壁でしょう。
マッターホルンは北壁というより、その山の姿があまりにも顕著なので知られています。
グランドジョラスを知る人は殆ど居ないと思いますが、
この3つの内で最も登攀が難しいのは、実はグランドジョラスだとも言われています。



マッターホルンは、スイス・イタリア国境にある4478メートルの鋭鋒で、
山を知らない人でも、この姿を見て「マッターホルン」と言える人は多いと思います。
写真で見る右側の岸壁が、いわゆる北壁で、標高差は1200メートルあります。



天を仰いでそそり立つ鋭鋒の頂上を極めたいと登山家だったら誰しも思います。
1865年、挿絵画家(ペン画)のエドワード・ウィンパーは、
7人編成で頂上を目指しました。(北壁ではない)
登頂は成功し、下山を始めましたが、
途中でハドロウが滑落し、ザイルに結ばれていた3人も巻き込まれて墜落してしまいます。



ウィンパーとタウクヴァルター父子の3人は、
滑落した4人の衝撃に耐える為に必死で岩にしがみつきますが、
何の衝撃もなく、ザイルは途中で切れてしまったのです。
目の前で4人が墜死していくのを見たタウクヴァルター父子は恐怖のあまりガタガタと震え、
殆ど役に立たない人になってしまったそうですが、
ウィンパーは彼等と共に生還しました。

しかし、世間からは自分達が助かりたいが為にザイルを切断したのだろうと、
長年、その疑惑から後ろ指を指されたそうです。
その疑惑のザイルがこれです。



エドワード・ウィンパーは頂上で、
夢か幻か、十字架を見たそうで、それを描いたのがこの絵です。

1931年に、難攻不落の北壁は初登攀されました。
1965年には日本人によっても初めて北壁登攀はされました。



さて、次は最も有名なアイガー北壁です。
アイガーはスイスに在る3970メートルの山です。
山麓にはグリンデルワルトの町があって、
北壁を登攀するアルピニストの姿を双眼鏡で見る事が出来るのです。

そういった場所柄から、眼前にそそり立つ標高差1800メートルの大岩壁は、
登山家だったら、こいつを征服し頂上を極めたいと、心が奮い立つのでしょう。
標高差1800メートルは、東京スカイツリーがほぼ3つ入る高さです。
そう思って眺めると、それがどれほど凄いかが理解できますね。

1934年、ドイツ人のWベックとG・レーヴィンガーが、
初の挑戦をしますが、2900メートルから墜死。
翌、1935年、マック・セドゥルマイヤーと、カール・メイリンガーが、
3300メートルで凍死し、その場所は(死のビバーク)と呼ばれました。
翌、1936年、アイガー北壁だけでなく、
登山界で最も有名で、最も悲劇的な事故が起こってしまいました。

それは「トニー・クルツの悲劇」としてあまりにも有名です。
ドイツ人のトニー・クルツと、アンドレアス・ヒンターシュトイサーが登攀を開始します。
それとは別にオーストリア人の、
エドアルド・ライナーとヴィリー・アングラーも登攀開始。
彼等は互いに初登攀目指して競争していましたが、
途中から登攀が難しくなり、お互いが協力して下山へと切り替えて下り始めました。



しかし、トニー・クルツ以外の3人が墜死してしまいました。
独り生き残ったトニーは、退路に行き詰まってしまいました。
それは登る時に相棒のヒンターシュトイサーが活路を切り開いた、
現在でも重要なルートとして名を残す、
ヒンターシュトイサー、トラバース(横切る)ルート、
それはザイルにぶら下がる自分の身体を時計の振り子の様に、
大きく左右に揺さぶって真横に移動するのです。
振り子の様に、右に左に岸壁を走って手がかりを求めるのです。
そのルートでヒンターシュトイサーは帰りはもう無いのだからと、
ザイルを回収してしまったのです。
そのザイルを回収さえしなかったら引き返せたのに。





アイガーには山の中を登山電車、ユングフラウ鉄道が走っていて、
途中のアイガーヴァント駅には北壁をくり抜いた窓が開いています。



ザイルに結ばれ宙づりになったトニーは、
右手は氷り付いて棒の様になって使えません。
宙づりのトニーの姿はその窓からホンの少しだけの距離です。
しかし、窓から彼を救助できる状態ではないのです。
彼は何としても自力で頑張るしか助からないのです。
その内、夜が更けて皆は翌日を待つしかありません。

一晩ほったらかしにされるトニーは氷点下の深夜では生きられない事を知っているので、
「ダメだダメだ」と必死に懇願しますが、
どうにも出来ないのです。



朝が明けると人々は信じられないものを見ました。
トニーはまだ生きていたのです。

しかし、カラビナ(金属の輪)にザイルの結び目がひっかって通りません。
それさえ通れば彼のザイルの長さが長くなり、彼は助かるのです。
人々は大声で彼を励まし続けます。
彼を救えるのは励ます事、ただそれしかないのです。
彼は左手と口だけで、何とかザイルの結び目を解こうと頑張るのですが、
もう体力は限界を超えていました。

「もうダメだ」それが彼の最後の言葉でした。
トニーは宙づりのまま逝ってしまいました。

それから2年後の1938年に北壁は初登攀されました。
1965年には日本人としての初登攀が達成されました。
現在、この大岩壁は2時間22分で登攀されています。
昔と比べて登山界の常識、知識、装備、技術、それはあまりにも進化しています。





さて、残るひとつはフランス・イタリア国境のグランドジョラスです。
標高は4208メートル。
岸壁の標高差は1200メートル。
マッターホルン北壁やアイガー北壁に比べて知名度が低く、
これといった逸話、ドラマとかは見聞きしません。
しかし、実はここが最も難しい北壁とか言われているみたいです。

1938年に初登攀され、
日本人としては1967年に高田光政が名を刻んでいます。
彼はアルプス三大北壁を初登攀した人物でもあります。
1979年には、あの長谷川恒雄が冬季単独初登攀の快挙を達成しました。
「狼は帰らず」のモデル、森田勝もここで墜死しました。

日本にも著名な岸壁はあります。
北アルプス、穂高の屏風岩。やはり穂高の滝谷。
南アルプスに、北岳バットレス。
上越には谷川岳、一の倉沢。
特に谷川岳の死者はヨーロッパ三大北壁の死者とは比較にならないくらい多くて、
現在までの死者は800人を超えていて、それはギネスブックにも載っています。

しかし、ヨーロッパ三大北壁ほどはアルピニストを奮い立たせはしないでしょう。
やはり、1200,1800メートル標高差と、
世界中の登山家から羨ましがれれる山は、
谷川岳の標高差1000メートではなし得ないのでしょうね。
でも、山男って、どうして死ぬまでやっちゃうんでしょう?




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いい思い出になった似顔絵

2021-04-29 15:55:17 | 日記


はとバスに乗って日帰り東京観光に行ったのは2016年11月でした。
まだ行った事のない、スカイツリーに行くのが一番の目的でした。



最上階の展望台には個人負担で行けるのですが、
天気がイマイチだったので、冬の晴れた日にもう一度来ようと、
その日はその下の展望台までにしました。

それから浅草に行ったり、隅田川で遊覧船に乗ったりしたのですが、
浅草の仲見世にあった似顔絵屋さんで、二人の似顔絵を描いてもらいました。



大道での似顔絵というと見かけた事はありますが、
何だか似てる様な似てない様なという宣伝絵が掲げてあります。
しかし、今までのそういった常識とはかけ離れた描き方に魅かれたのです。



ここには3人の絵師がいましたが、
どの人に描いてもらっても、基本的な手法は同じみたいなんですね。
つまり、そのデフォルムに個性があって面白いのです。







渡辺明美なんか本当に笑ってしまいました。
凄いでしょう。面白いでしょう。



描く時間は30分くらいだったか。
料金は5000円くらいだったかな・・
少し大きいので帰りが多少面倒でしたけど、
以来、部屋に飾ってあります。
とっても、いい思い出となっています。



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キャンプ写真集

2021-04-26 04:34:12 | キャンプ
何枚かのキャンプ写真をお楽しみください。









































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あれから10年、山手線一周歌声列車

2021-04-25 13:06:36 | 歌声喫茶
11.5.29.山手線歌声no1・ふるさと


11.5.29.山手線歌声no2・鐘の鳴る丘


毎年夏に府中で行われていた「歌声どんちゃか」や、
上野公園、野外ステージで行われた「大江戸どんちゃか」を立ち上げた、
歌声喫茶界の仕掛け人前田さんが、仕掛けたのは奇想天外な歌声喫茶でした。
それが10年前に開催された、山手線一周歌声列車。

あれは2011年5月29日の事でしたから、来月で10年となるのですね。
よく昨日の事の様にと言いますが、
私の感覚も全くそれで、まさかあれから10年も経つ事が信じられない気がします。

仙台からはバラライカ勢が来るし、
岩手県盛岡からも来る人はいるしで、大きな人気の歌声でした。





それをどこで知ったのか、あの芸能人の、
アントキの猪木さんもいらしたのです。
こう言っては失礼なんですが、私はその頃、
その芸能人・アントキの猪木さんを知りませんでした。(ごめんなさい)

しかし、お会いしてみると気さくな青年といった方でした。
と言っても当時の彼の年齢は37歳だったのですが、
見た感じそれよりずっと若く見えました。

しかし、体も大きく、顔も、猪木本人が「俺と似ている」と断言するくらい似ているし、
本当にソックリさんでした。
驚いた事がありました。
その芸能人のアントキの猪木さんが、
何と私に「一緒に写真撮らせてくれませんか?」と言ったのです。



その時の写真がこれ。
私がはしゃいでおバカな顔をしたのでした。
それは結局彼のブログに載せる為だったのです。
彼は現在、居酒屋をやってたり、
妻が経営する会社の仕事などもされているそうですね。

もう、二度と山手線を借り切っての歌声列車はありませんが、
アントキの猪木さんには、仕事と家庭で元気でいてほしいですね。



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あの日が恋しい

2021-04-23 19:29:23 | 日記
歌声喫茶を知ったのが2007年3月。
それから人生が格段に楽しくなった私。
離婚して家庭を失い淋しかった反動があるので嬉しくなりました。
そんな楽しい時の写真が、今は恋しくなります。



2008年7月・・横浜



2008年7月・・府中



2008年11月・・新宿



2009年11月・・新宿



2011年2月・・新橋



2011年11月・・榛名湖



2011年12月・・日暮里



2012年9月・・湯西川温泉



2012年10月・・日野



2012年11月・・鎌倉



2013年4月・・上野



2013年7月・・日野



2016年4月・・国立

何だかんだ言っても、やっぱり女性と一緒の写真は楽しい。
半分はデートに誘った女性、半分は何かの時に一緒に撮った女性。
2016年を最後にこういった写真が無くなってしまったのが淋しい。
もっともっと撮りたかったのに、無くなってしまった。

2010年からは一緒の生活ではないが、今の妻と実質的な夫婦関係になっていたので、
そりゃ当たり前と言えば当たり前なんですが、
やっぱり10年間も淋しかったので、
色んな女性と知り合えるのが楽しくて仕方がなかったんですね。

私が色々な女性と楽しそうにやってるのは、
勘のいい妻は面白くないのでやきもきさせた事もありました。
でも、よく言うでしょ。
女房の妬くほど亭主モテもせず。なんですよね。

でもあれから40年・・じゃなかった、あれから約5年。
それ以来、こういった楽しい写真が私から失われてしまった。
これはマズイぞ、男としての意地が許さないぞ。
かと言って女房を裏切る事など出来る筈もないし、
するつもりなど毛頭無いし。
むしろ妻にはいつも感謝してるんですから。

やっぱり、夢はこの辺でお開きにするしかないみたいですね。
だけどな~、あれほど口説いたのに・・・ま、いいか~。




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