ヨーロッパアルプスに三大北壁と呼ばれる大岩壁があります。
アイガー、マッターホルン、グランドジョラスにある三大北壁です。
この中で最も有名なのは、アイガー北壁でしょう。
マッターホルンは北壁というより、その山の姿があまりにも顕著なので知られています。
グランドジョラスを知る人は殆ど居ないと思いますが、
この3つの内で最も登攀が難しいのは、実はグランドジョラスだとも言われています。
マッターホルンは、スイス・イタリア国境にある4478メートルの鋭鋒で、
山を知らない人でも、この姿を見て「マッターホルン」と言える人は多いと思います。
写真で見る右側の岸壁が、いわゆる北壁で、標高差は1200メートルあります。
天を仰いでそそり立つ鋭鋒の頂上を極めたいと登山家だったら誰しも思います。
1865年、挿絵画家(ペン画)のエドワード・ウィンパーは、
7人編成で頂上を目指しました。(北壁ではない)
登頂は成功し、下山を始めましたが、
途中でハドロウが滑落し、ザイルに結ばれていた3人も巻き込まれて墜落してしまいます。
ウィンパーとタウクヴァルター父子の3人は、
滑落した4人の衝撃に耐える為に必死で岩にしがみつきますが、
何の衝撃もなく、ザイルは途中で切れてしまったのです。
目の前で4人が墜死していくのを見たタウクヴァルター父子は恐怖のあまりガタガタと震え、
殆ど役に立たない人になってしまったそうですが、
ウィンパーは彼等と共に生還しました。
しかし、世間からは自分達が助かりたいが為にザイルを切断したのだろうと、
長年、その疑惑から後ろ指を指されたそうです。
その疑惑のザイルがこれです。
エドワード・ウィンパーは頂上で、
夢か幻か、十字架を見たそうで、それを描いたのがこの絵です。
1931年に、難攻不落の北壁は初登攀されました。
1965年には日本人によっても初めて北壁登攀はされました。
さて、次は最も有名なアイガー北壁です。
アイガーはスイスに在る3970メートルの山です。
山麓にはグリンデルワルトの町があって、
北壁を登攀するアルピニストの姿を双眼鏡で見る事が出来るのです。
そういった場所柄から、眼前にそそり立つ標高差1800メートルの大岩壁は、
登山家だったら、こいつを征服し頂上を極めたいと、心が奮い立つのでしょう。
標高差1800メートルは、東京スカイツリーがほぼ3つ入る高さです。
そう思って眺めると、それがどれほど凄いかが理解できますね。
1934年、ドイツ人のWベックとG・レーヴィンガーが、
初の挑戦をしますが、2900メートルから墜死。
翌、1935年、マック・セドゥルマイヤーと、カール・メイリンガーが、
3300メートルで凍死し、その場所は(死のビバーク)と呼ばれました。
翌、1936年、アイガー北壁だけでなく、
登山界で最も有名で、最も悲劇的な事故が起こってしまいました。
それは「トニー・クルツの悲劇」としてあまりにも有名です。
ドイツ人のトニー・クルツと、アンドレアス・ヒンターシュトイサーが登攀を開始します。
それとは別にオーストリア人の、
エドアルド・ライナーとヴィリー・アングラーも登攀開始。
彼等は互いに初登攀目指して競争していましたが、
途中から登攀が難しくなり、お互いが協力して下山へと切り替えて下り始めました。
しかし、トニー・クルツ以外の3人が墜死してしまいました。
独り生き残ったトニーは、退路に行き詰まってしまいました。
それは登る時に相棒のヒンターシュトイサーが活路を切り開いた、
現在でも重要なルートとして名を残す、
ヒンターシュトイサー、トラバース(横切る)ルート、
それはザイルにぶら下がる自分の身体を時計の振り子の様に、
大きく左右に揺さぶって真横に移動するのです。
振り子の様に、右に左に岸壁を走って手がかりを求めるのです。
そのルートでヒンターシュトイサーは帰りはもう無いのだからと、
ザイルを回収してしまったのです。
そのザイルを回収さえしなかったら引き返せたのに。
アイガーには山の中を登山電車、ユングフラウ鉄道が走っていて、
途中のアイガーヴァント駅には北壁をくり抜いた窓が開いています。
ザイルに結ばれ宙づりになったトニーは、
右手は氷り付いて棒の様になって使えません。
宙づりのトニーの姿はその窓からホンの少しだけの距離です。
しかし、窓から彼を救助できる状態ではないのです。
彼は何としても自力で頑張るしか助からないのです。
その内、夜が更けて皆は翌日を待つしかありません。
一晩ほったらかしにされるトニーは氷点下の深夜では生きられない事を知っているので、
「ダメだダメだ」と必死に懇願しますが、
どうにも出来ないのです。
朝が明けると人々は信じられないものを見ました。
トニーはまだ生きていたのです。
しかし、カラビナ(金属の輪)にザイルの結び目がひっかって通りません。
それさえ通れば彼のザイルの長さが長くなり、彼は助かるのです。
人々は大声で彼を励まし続けます。
彼を救えるのは励ます事、ただそれしかないのです。
彼は左手と口だけで、何とかザイルの結び目を解こうと頑張るのですが、
もう体力は限界を超えていました。
「もうダメだ」それが彼の最後の言葉でした。
トニーは宙づりのまま逝ってしまいました。
それから2年後の1938年に北壁は初登攀されました。
1965年には日本人としての初登攀が達成されました。
現在、この大岩壁は2時間22分で登攀されています。
昔と比べて登山界の常識、知識、装備、技術、それはあまりにも進化しています。
さて、残るひとつはフランス・イタリア国境のグランドジョラスです。
標高は4208メートル。
岸壁の標高差は1200メートル。
マッターホルン北壁やアイガー北壁に比べて知名度が低く、
これといった逸話、ドラマとかは見聞きしません。
しかし、実はここが最も難しい北壁とか言われているみたいです。
1938年に初登攀され、
日本人としては1967年に高田光政が名を刻んでいます。
彼はアルプス三大北壁を初登攀した人物でもあります。
1979年には、あの長谷川恒雄が冬季単独初登攀の快挙を達成しました。
「狼は帰らず」のモデル、森田勝もここで墜死しました。
日本にも著名な岸壁はあります。
北アルプス、穂高の屏風岩。やはり穂高の滝谷。
南アルプスに、北岳バットレス。
上越には谷川岳、一の倉沢。
特に谷川岳の死者はヨーロッパ三大北壁の死者とは比較にならないくらい多くて、
現在までの死者は800人を超えていて、それはギネスブックにも載っています。
しかし、ヨーロッパ三大北壁ほどはアルピニストを奮い立たせはしないでしょう。
やはり、1200,1800メートル標高差と、
世界中の登山家から羨ましがれれる山は、
谷川岳の標高差1000メートではなし得ないのでしょうね。
でも、山男って、どうして死ぬまでやっちゃうんでしょう?