ハイサイおじさん
「ハイサイおじさん」は、
歌声喫茶でもお馴染みの「花」を作曲した喜納昌吉の歌です。
喜納昌吉は1948年に、
琉球民謡の第一人者・喜納昌永の4男として生まれました。
昌吉は高校時代には、賭博で大儲けをして金持ちになり、
外人のガールフレンドをはべらせたりする、破天荒、型破りな人生を送っていました。
その挙句、覚せい剤で逮捕され、数年間の牢獄生活をしました。
そんな昌吉が高校生の時に作ったのが、この「ハイサイおじさん」です。
ハイサイというのは「こんにちは」の意味です。
彼の家の隣に、酒浸りのおじさんが住んでいました。
そのおじさんは、家族に猟奇的な事件があって崩壊し、
それからだったのでしょうか?酒浸りになったみたいです。
しかし、世間から見捨てられたそのおじさんを、
昌吉は優しく見守り、おじさんの事を歌にしたのが、この歌でした。
○ ハイサイおじさん ハイサイおじさん
昨夜(ゆうび)ぬ 三合瓶小(ぐゎ)残(ぬく)とんな
残(ぬく)とら我(わ)んに 分(わ)きらんば
ありあり童(わらば) いえー童(わらば)
三合瓶ぬあたいし 我(わ)んにんかい
あんせおじさん 三合瓶し不足(ふずぐ)やみせぇーら
一升(いっす)ビン 我(わ)んに呉(くぃ)みせーみ
● コンニチハおじさん コンニチハおじさん
夕べ飲んでいた酒は残っているかい
残っているなら俺に分けてくれ
おいおい小僧 やい小僧
三合瓶程度の酒で この俺に
残っているかと訊いているのかい やい小僧
それならおじさん
三合瓶で不足というなら
一升瓶を俺にくれると言うのかい
昌吉は、そのおじさんが好きだったんでしょうね。きっと。
この歌は30万枚を売る、ヒット曲となりました。
1976年発売という事なのですが、
これが、どうにも納得できないのです。
私が、この歌を聴いたのは、写真学校の合宿で沖縄に行った時。
その時は、1974年くらいだった筈なんですから。
沖縄本島が最も狭まった場所にあるのが、仲泊。
島の向こう側までは3キロ弱という場所に、その民宿はありました。
「南国荘」
その民宿には今では珍しくなった(ジュークボックス)があり、
学生たちは、よくそれで音楽をかけていました。
ほどなく学生たちは、ある曲ばかりをかける様になりました。
それが「ハイサイおじさん」
みんなが、その歌に夢中になってしまったのです。
この30万枚の大ヒットは、沖縄の人達を驚愕させました。
沖縄の人達は、自分たちの沖縄音楽が、
本土(つまり日本)で流行るなんて誰しも考えもしなかったのです。
沖縄言葉(ウチナーグチ)は日本人には理解できないのは解っています。
ですから、そんな歌が本土の人に受け入れられるなど誰も思わなかったのです。
それが、青天の霹靂の大ヒット。
これを境に沖縄は日本はおろか世界に羽ばたいていきました。
沖縄独特の(レとラ)の無い、いわゆる2,6抜き。
ドミファソシドという音階の魅力を知った海外の人達にも、
沖縄音楽の虜になる人も出る様になっていきました。
それもこれも「ハイサイおじさん」から始まったのですね。
その後には勢いのいいサウンドでの再録音バージョンになりますが、
私たち学生がジュークボックスで夢中になったのは、
この細々として、まだか弱い初期のこの歌でした。
その後の喜納昌吉は「チャンプルーズ」として、
広く羽ばたいていったのですね。
「ハイサイおじさん」は、
歌声喫茶でもお馴染みの「花」を作曲した喜納昌吉の歌です。
喜納昌吉は1948年に、
琉球民謡の第一人者・喜納昌永の4男として生まれました。
昌吉は高校時代には、賭博で大儲けをして金持ちになり、
外人のガールフレンドをはべらせたりする、破天荒、型破りな人生を送っていました。
その挙句、覚せい剤で逮捕され、数年間の牢獄生活をしました。
そんな昌吉が高校生の時に作ったのが、この「ハイサイおじさん」です。
ハイサイというのは「こんにちは」の意味です。
彼の家の隣に、酒浸りのおじさんが住んでいました。
そのおじさんは、家族に猟奇的な事件があって崩壊し、
それからだったのでしょうか?酒浸りになったみたいです。
しかし、世間から見捨てられたそのおじさんを、
昌吉は優しく見守り、おじさんの事を歌にしたのが、この歌でした。
○ ハイサイおじさん ハイサイおじさん
昨夜(ゆうび)ぬ 三合瓶小(ぐゎ)残(ぬく)とんな
残(ぬく)とら我(わ)んに 分(わ)きらんば
ありあり童(わらば) いえー童(わらば)
三合瓶ぬあたいし 我(わ)んにんかい
あんせおじさん 三合瓶し不足(ふずぐ)やみせぇーら
一升(いっす)ビン 我(わ)んに呉(くぃ)みせーみ
● コンニチハおじさん コンニチハおじさん
夕べ飲んでいた酒は残っているかい
残っているなら俺に分けてくれ
おいおい小僧 やい小僧
三合瓶程度の酒で この俺に
残っているかと訊いているのかい やい小僧
それならおじさん
三合瓶で不足というなら
一升瓶を俺にくれると言うのかい
昌吉は、そのおじさんが好きだったんでしょうね。きっと。
この歌は30万枚を売る、ヒット曲となりました。
1976年発売という事なのですが、
これが、どうにも納得できないのです。
私が、この歌を聴いたのは、写真学校の合宿で沖縄に行った時。
その時は、1974年くらいだった筈なんですから。
沖縄本島が最も狭まった場所にあるのが、仲泊。
島の向こう側までは3キロ弱という場所に、その民宿はありました。
「南国荘」
その民宿には今では珍しくなった(ジュークボックス)があり、
学生たちは、よくそれで音楽をかけていました。
ほどなく学生たちは、ある曲ばかりをかける様になりました。
それが「ハイサイおじさん」
みんなが、その歌に夢中になってしまったのです。
この30万枚の大ヒットは、沖縄の人達を驚愕させました。
沖縄の人達は、自分たちの沖縄音楽が、
本土(つまり日本)で流行るなんて誰しも考えもしなかったのです。
沖縄言葉(ウチナーグチ)は日本人には理解できないのは解っています。
ですから、そんな歌が本土の人に受け入れられるなど誰も思わなかったのです。
それが、青天の霹靂の大ヒット。
これを境に沖縄は日本はおろか世界に羽ばたいていきました。
沖縄独特の(レとラ)の無い、いわゆる2,6抜き。
ドミファソシドという音階の魅力を知った海外の人達にも、
沖縄音楽の虜になる人も出る様になっていきました。
それもこれも「ハイサイおじさん」から始まったのですね。
その後には勢いのいいサウンドでの再録音バージョンになりますが、
私たち学生がジュークボックスで夢中になったのは、
この細々として、まだか弱い初期のこの歌でした。
その後の喜納昌吉は「チャンプルーズ」として、
広く羽ばたいていったのですね。