河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

映画・小さいおうち

2021-03-24 09:35:23 | 映画
『小さいおうち』予告編


たまたまテレビを付けたらこの映画をやっていた。
まだ始まってそれほど時間が経っていなかったみたいだった。
山田洋二監督という事で、ふ~んと少し観ていたら離れられなくなっていた。





東京郊外の赤い屋根の家が舞台。
玩具会社の重役をしている中産階級がその家の主人。

その妻は前夫を事故で亡くし、再婚の若い妻である。
亭主とは10歳違い。



それを演じるのは、松たか子。



そこで女中をしているのが、黒木華。
奥様とは8歳ちがいのまだ若い女中さんだ。
彼女は奥様からは可愛がられている。



ある日、家の主人が働いている会社の若い社員が来宅する。
それを演じるのは吉岡秀隆。
その彼と奥様とは7歳違いの若い社員であるが、
その彼を奥様が好きになってしまい、いわゆる不倫関係となる。



ある日、奥様はその若い男性社員の下宿先へ用事で出かけたのです。
しかし、帰宅した奥様の和装の帯の柄が、
出かけた時と逆になっている事を見た女中は、奥様の不倫を感じ取ります。
そこから、その女中さんの苦悩が始まってゆくのでした。

若い男性社員にも時代の波は押し寄せ、
軍隊から招集令状が届き、いよいよ彼は出征する事になりました。



いよいよ最後の機会となったある日、
奥様は彼の元に逢瀬へ出かけようとしますが、
女中は彼女の行動を何とか阻止し、家庭の平和を保とうとします。

戦争が終わり、数十年後。
女中さんは老婆となっていて、過去を振り返って文章にしたためていました。
奥様が彼とどういった顛末になり、
あの時、どういった経緯があったかが初めて明らかになったのでした。

たまたまテレビを付けなかったら観る事のなかった映画。
でも、いい映画を観てしまいました。

いつまでも「余韻」が残る映画でした。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出の仙台バラライカ・その5

2021-03-21 14:08:42 | 歌声喫茶
11.12.24.私に人生と言えるものがあるなら・仙台バラライカ


10月8日にみんなと行ったばかりの深浦の歌声の日から、
まだ2か月半経しか経っていないクリスマスの歌声に、
エリカさんと2人で行って来ました。
彼女とはまだ正式には結婚してなかった時でした。

エリカさんの声はよく通りますが、
私の声は本当に通らない声ですね~。
歌声喫茶でみんなと一緒に唄うのは大好きですけど、
私はやっぱり歌には向いていない。
ブラスバンドで楽器を演奏してた時の方が向いていると感じます。
いつも私は楽器の人間だと思っています。

スケさん(三橋さん)がカメラを回して動画を撮ってくれたのですが、
彼は動画の撮り方を分かっている人で良かった。
私はそういった時にしか絶対に写らないので、たまに自分が写るのは嬉しかった。
自分が写っている動画なんて、数えるほどしか無いんですね。

いつもは有名なアコーディオン奏者である南部さんが、
この時は珍しくピアノで演奏しましたが、
きっと楽譜通りではない、そのアドリブが大好きです。
何でここで、この音を出すんだと感心させられます。

1.12.24.ともしび・仙台バラライカ


10月の時と違って、
この日は東京勢は私達2人だけ、
みんな仙台勢で、これでこそバラライカだとその雰囲気に浸りました。

私達も仙台勢からだんだんと歓迎される様になり、
顔馴染みも増えていき、ますますバラライカにはまっていくのを感じたのでした。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が母校の校歌

2021-03-20 06:28:09 | 日記
品川区立第二延山小学校 校歌【MIDI演奏】【DTM DAW MIDI】【打ち込み】


ユーチューブ動画というのは、本当に凄いですね。

私が人生で初めて通った小学校の校歌が出てきました。
東京都品川区立第二延山小学校。
こんなのが出てくるなんて本当に嬉しい。

「庭に集えば空広く 友と友とは親しみて
 磨くも嬉し輝かに 日本の光この誠 第二延山我が母校」

私の家の最寄り駅は、当時は東急・目蒲線の洗足駅でしたが、
小学校の最寄り駅は同じく東急ですが、大井町線の旗の台駅でした。
家から学校まで地図で計ったら400メートル程度でした。
小学生の足で10分くらい歩いていた様な気がします。

学校の真横には立会川が流れていて、
現在は多分、暗渠になっているのでしょうが、
当時はかなり深く切り込まれた川になっていました。

1年生の時の、人生で初めての担任の先生は、
上園先生という鹿児島出身の色の黒い小柄な男性教師でした。
まだ教師になって日が浅かったと思いました。
「これが桜島大根だよ」と言って、
白い部分がまん丸い大きな大根を持ってきて生徒たちに見せてくれました。
まだ小さい子供でしたが、
子供心に「この先生はいい人なんだな~」と感じていたのを、よく覚えています。

2,3年は同じ担任の先生で、
名前は(たてや先生)漢字が分からない・・という男性教師でした。
身体が大きく、ハンサムで父兄(特に母親)から、かなり人気があったみたいです。
きっと、いい先生だったのでしょうが、あまり印象に残っていないんです。

今でもその歌詞「だいに~、え~んざん、わ~が~母校」のメロディーを思い出します。
いい学校だったな~。

品川区立城南中学校校歌


もうひとつは、
同じ品川区立の城南中学校校歌。

品川区でも、最初は目蒲線・洗足駅でしたが、
小学校3年生になる時に、大井町へ引っ越しました。
それで小学校は、浅間台小学校になって6年生で卒業。

中学校は指定区域では東海中学だったのですが、
母が近所の評判を聞いて、城南中学へ越境入学をさせたのです。

評判通り、いい学校だったと今でも思います。
初恋を経験したのも、この中学でした。
最後まで同じクラスにはなれなかったのが悔しかったのですが、
ブラスバンドでクラリネットを吹いていた可愛いこでした。

この中学の同窓会は卒業して間もない頃、
一度だけ行った様な記憶が微かにあるだけで、
その後はあちこち引っ越したりしたので縁が切れてしまい、連絡も無しでした。
ただ同じ中学を卒業した姉が比較的、そういった同窓会とかを、
やっていたので、
50歳になりかならずかの時に、同期会に行った事があります。
もう既に数人の男性が鬼籍に入っていましたね。

「東に開く品川の 八重の潮路の開く時 希望は胸に溢れきて
 我が窓常に風清し 嬉し我が 学びや嬉し」

この動画では、懐かしい理科の先生が写っていて、
本当に嬉しくなりました。
あの先生も、大人になってから、その人間性の良さを感じられて、
やっぱり人は最後には人間性しか残らないんだなと思いました。

小学校・中学校と、いい母校に恵まれた人生でした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後まで残った唯一の寝台車

2021-03-19 13:31:06 | 日記


現在、日本に残っている夜行寝台車は1本だけなんだそうです。
サンライズ瀬戸・出雲。



東京を夜の9時50分に出発して、
岡山までは一緒で、そこから別れます。
山陰の出雲に9時58分に到着。
一方の瀬戸は四国の琴平に8時39分に到着します。

もうひとつにサンライズ出雲があって、
それは東京駅を夜の10時21分に出発、
出雲市に13時07分に着きます。

私が若い頃には夜行寝台特急が全盛でした。





こういった、いわゆるブルートレインと呼ばれる
長距離の夜行列車がいっぱい走っていましたね。
「あさかぜ」・・よく乗ったな~。
懐かしい。
しかし、寝台料金だけを正当に支払って、
乗車料金はほぼ全額タダというとんでもない不正乗車でした。





ベッドにしたって、昼間は6人掛けのシートですが、
夜になると専門の係員がきてベッド仕様に造り替えるのです。
私はいつも、一番遅くまで寝ていられる最上部のベッド専門でした。
一度最上段が取れなく下段になって、やれやれと思っていたら、
最上段しか取れなかった人が、大喜びで私と入れ替わってくれました。
あれは好みがあるんですよね。





それに比べ、今の寝台ベッドはかなり進化してるんですね。
新幹線が九州まで行く様になったし、
昔に比べて飛行機代も安くなったしですから、夜行列車が無くなる訳ですね。

飛行機と言えば、飛行機も不正乗車ばっかりやってました。
21歳はとっくに過ぎているのに、
会社で21歳になる様に身分証明書を書いてもらったのです。
「おっかしいな~、あいつ、どう見ても21歳には見えないんだけどな~」
スカイメイトは現在は26歳までらしいのですが、
私の頃は21歳までだった。
でも、乗ったモン勝ちだもんね~(笑)

さて、どうなんでしょう?
島根県とか香川県へ、夜間に移動する人はかなり少ない気がしますね。
よほど、夜の列車旅がいいんだよな~とか、
趣味的な人でもないと、あまり利用しない気がしますね。

私が若い時みたいな、あんな呑気な(尤も当事者はけっこう大変な思いでしたが)不正乗車など、
今は出来うる筈もないし、良き時代でしたね。

夜行列車などという言葉は今の若い人には知らない人もいるのかも知れません。
消えゆく夜行寝台特急。
消え去る前に一度乗ってみるのも、いいかも知れないね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出の仙台バラライカ・その4

2021-03-19 05:14:02 | 歌声喫茶
11.10.08.収穫の歌・仙台バラライカ


毎年秋に開催される深浦歌声ツアー。
この年は何と言っても、東日本大震災後、初めてのツアーという事です。
2階にあるバラライカの店も鉄製の階段が被害で傷んでしまい、
それがバラライカの寿命を縮めてしまったのでした。



仙台ではみんなと市内観光。
青葉城や宮城県立美術館などを観光しました。

11.10.08.紅葉・仙台バラライカ


11.10.08.里の秋・仙台バラライカ


11.10.08.嵐・仙台バラライカ


そして、憧れのバラライカでの歌声喫茶。
本当に、バラライカのあの雰囲気は素晴らしい。
あれだけは何処の歌声喫茶にも無い、唯一の最高峰です。

11.10.10.気仙沼・鹿折唐桑地区・津波の惨状


バラライカの歌声から一夜明けた翌日。
皆んなは深浦へ向けて出発しましたが、
私はここから独りで別行動、被災地、気仙沼へ行きました。
みんなは「何で深浦へ行かないの?独りで淋しいでしょう」
とか散々言ってましたが、
私は深浦には御免なさいですが、頭は既に気仙沼しかありませんでした。

私には津波の被災地を何が何でもこの目で見たい、
被災者たちの目線に立って彼等の苦しさを少しでも理解したいという気持ちでした。
使わなくなっていたトランペットを地元の学校に寄付したいと思っていました。
動画を観ても感じるのですが、とにかく人が歩いていないんです。
人の姿などまず見ないのです。
それは、石巻・気仙沼・南三陸町・陸前高田、どこでもそうなんです。
私の様な部外者であっても、人が歩いている姿を見かけると、
何かホッとした思いがあるのです。

11.10.10.気仙沼漁港の朝


気仙沼は東北第一の漁港です。
マグロやカツオ船が沢山、出発の準備をしていました。
よく見るとかなりの船員が東南アジア系だという事がわかります。

どんな夜でも、朝は必ずやって来る。
そういった事を想いながらカメラを回していました。

私は皆さんに、出来る限り、一度被災地へ行ってほしいと思います。
もう10年経ってしまったので、
そのままの姿はまず残っていないとは思いますが、
それでも、その場に行けばきっと心に感じるものはあると思うのです。
そして、決して彼等の悲しさを忘れないで欲しいと願っているのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする