河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

コバエとの死闘

2024-04-30 11:36:42 | 日記
この数年、コバエとの死闘が続いている。
もう死に物狂いの長期戦が続いている。
チョッと疲れてきたので、休戦協定とかを望んでいるのだが、
敵にそういった気はまるで無いみたいだ。
何と挑戦的で、優しい思いやりとかに欠ける恐るべき敵だ。

時々思うのですが、昔はこんなコバエなどという敵は居なかった。
敵は大型の真っ黒けの奴らで、ハエ叩きでぶち殺していたもんです。



そんな無粋な真似はしたくない、
私は昆虫さんとは思いやりを持ってお付き合いして行きたい、
という方々には、こういったハエ取リボンという、
名前からして美的で静かで、それでいて効果が目視しやすい物がありました。
ただあれは、効果があればあるほど美的とはお世辞にも言えない、
な~んとなく、汚らしい物体と化してしまうという欠点がありました。
でも、よく八百屋や魚屋の店先には、当たり前にありましたね。

さて、そういった大型種が消え失せて、
現在の日本の家庭を席捲するするのは(コバエ)という新種です。



これが、あの大型種に比べて、アッタマにくるのは、
ハエ叩きという昔からの道具がほぼ使えなくなっているという事です。
食事をしている食卓の周りを、ブーンという音を発する事もなく、
目の前を勝手気儘に飛び回られる不快感ったらありません。
ハエ叩きを振り回す事も出来ず、
食卓の上に殺虫剤を吹き付ける事も出来ず、
ただただ、「君たちもう勝手におやんなさい」と見て見ぬフリで、
耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ、穏やかならざり我々、人類の気持ち。
そういった気持ちが君たちに理解できるだろうか?
我々人類は(万物の霊長)と格別な待遇で持てはやされる存在なんだよ。
そんな特別な存在の私達を、君たちはあざ笑う如くに勝手気ままに・・・

先日は机の上でパソコンをしていたら、君は俺をあざ笑った。
アッタマにきた私は、思いっきりパチーンと両手で叩きつけた、
だったのに戦果はゼロ。
それどころかコップに入った日本酒をコップごとブッ飛ばしてしまった。
あ~、勿体ない。
って、そ~ゆ~問題じゃないだろッ!
パソコンのキーボードにかからなかったのは幸いだったけど、
机の上、下のマットが日本酒まみれになるという大事件。
もうテンヤワンヤの大騒ぎ。

ある時、最も数多くのコバエが居るのが風呂場だと気づいた。
風呂場にはコバエが侵入しない様に、小窓をコマかい網に付け替えた。
だからコバエが居ない筈なのに最も多い。
それで色々調べたら、要するに何処かに卵が産みつけられているらしい。
それで風呂場を閉め切って換気をシャットアウトして、
殺虫スプレーを噴霧し、一定時間経過させてみた。
それが効果があったみたいで、コバエが劇的に居なくなっていた。



コバエ取りに我が家が使っているのはこいつ。
他の物も使ったのだが、これが最も成績がいいと妻が言っていた。
1ヵ月使えるらしいのだが、段々水気が蒸発して干からびてくる。
以前は水を垂らしていたのだが、水ではなく酢を垂らすといいらしい。

スマホやったりパソコンやったり、トイレなんかウォシュレット使ってるし、
歌声喫茶などという、な~んの生産性も皆無な世界に、
生きる悦びを見い出し、人間関係を構築しと、
君らバカタレの世界とは、まるで天と地、月とスッポンの世界に在る、
私達人類がネ、最後に頼るのは(これかい)って気はするんですが、
これなんだから仕方ない。

さて、まだ君らとの死闘は終わってはいない。
今日も一日頑張るぞ~、立派に行き抜いてやる~~ッ!




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史上最強の山岳会・・山学同志会

2024-04-29 14:35:53 | 登山
かつて、日本の登山史上に「最強集団」として、その名を轟かせた山岳会がありました。
その名を「山学同志会」といいます。
「山岳」ではなく「山学」という点に、彼等のこだわりがあるのかも知れません。
山学同志会ではなく、「ドーシカイ」という通り名で通用していたみたいです。
その名は日本の登山史上に、一世を風靡し燦然と輝いたのです。

今では時代も変わり、
もう死に物狂いでの登山などする若者も居なくなり、
「山学同志会」の現在がどうなっているのかは不明です。





この一世を風靡した最強集団を、率いたのは、小西正継(こにしまさつぐ)です。

小西正継(まさつぐ)1938年~1996年(57歳)
早くに父を亡くした小西は高校進学をあきらめ就職。
職場の山岳会の部長に連れられて山の世界へと足を踏み入れていきます。
18歳で「山学同志会」という山岳会に入ります。
この山岳会はまだ結成10年にも満たない小さな山岳会でした。

小西は山にのめり込みメキメキと頭角をあらわしていきます。
山に関する本をむさぼる様に読みあさり、海外の本も辞書と首っ引きで吸収しました。
小西はヨーロッパアルプス、ヒマラヤなどを見すえていました。
しかし、一緒にヒマラヤを目指していた仲間3人を国内の山で失ってしまいます。
その事故に対し、山岳会の古株達は危険な山行を禁止する措置をしました。

これに対し小西は「こんな連中と一緒ではとてもヒマラヤに行く事はできない」と、
山岳会の刷新を行い、選挙でチーフリーダーに選ばれます。
そして名ばかりの古株を降格させ、それに耐えられない人達は山岳会を去って行きました。
更に厳しい規律を設け、実力の無い会員、古株を追い払い、大規模な粛清を行います。
そして会員は25歳以下の男子に限るとします。
まさに山岳会史上最強の「鉄の集団」が築かれていったのです。
私もその強烈なフレーズを覚えています。
「会員は25歳以下の男子に限る」
そんじょそこらの軟派な山岳会などと一緒にされては困る、俺たちは最強集団なんだ。

1967年(29歳)
小西は会員2人と共に、冬季マッターホルン北壁登攀を目指します。
夏のマッターホルンも登った事がないのに、超難関の冬季北壁が登れる訳がないだろう。
と、高名な登山家からのアドバイスもありましたが、小西は全く耳を貸しませんでした。
そしてそれを登り、世界での第3登を果たしたのです。

その後、山岳会のトップと言うべき、日本山岳会から、ある招聘を受けます。
「前人未踏のエベレスト南西壁の登攀を計画している。君の様な優秀な登山家に、
一緒に行ってほしいという」という招聘でしたが、彼等大学生のレベルに低さに、
これを断ります。

その後も「山学同志会」は日本の登山界に刺激を与え続ける登攀を続け、
しかし、それ故に優秀な会員を何人も失う事故を起こします。
ですが、山学同志会と、その会長である小西政継の名は知れ渡っていきました。
1983年、山学同志会は、エベレスト西南壁に挑戦し、
一部は成功しますが、小西自身は登頂を果たさないままに終わります。

その後、小西はアウトドアグッズを販売する会社を立ち上げ、それに成功します。
それから10年、
小西政継は登山から引退したと思われ、その名前すら忘れられた存在でした。
しかし突然、小西政継の名前が再登場しました。

1994年、ヒマラヤの名峰ダウラギリ(8167m)に登頂。
これは小西には、初めての8000m登頂だったのです。
翌1995年、シシャパンマ(8207m)登頂。
1996年、マナスル(8163m)の登頂。
しかしそれらの山は、かつて山学同志会を率いていた小西が、
バカにして忌み嫌っていた登山スタイル。
つまり荷物運びのシェルパを雇い、酸素ボンベに頼るスタイル。
もう若い頃の体力は無くなり、事業に成功して、お金に困らなくなった彼は、
ヒマラヤの名峰登頂に、己の満足度を得ればいいのだと、変わったのでしょうか?

その時、一緒に登ったパートナーがテントに戻った時に小西の姿は無く、
そのまま小西は行方不明のまま現在に至っています。

それにしても「山学同志会」
本当に日本の山岳会に旋風を巻き起こし、一世を風靡しましたね。
鉄の男、小西政継の名も、忘れられない永遠の名前として残ったのです。

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ラブホテル初体験

2024-04-28 06:08:38 | 日記
わたくし、実はラブホテルという所の初体験をしてしまいました。
実は、この話はフェイスブックには発表したのですが、
ブログという世界にこれを発表するのは、初めてなんです(汗)

3月に、私は個人的な趣味の撮影で山梨方面に一泊で行きました。
その時、予約してビジネスホテルに泊まったのですが・・・



これまで、ビジネスホテルには数えきれないほど泊まったので、
その室内はよ~く分かっています。
しかし、そのホテルはセコかった。
ドアを開けて室内に入ると、すぐにトイレ室があります。
普通はそこにはユニットバス、あるいはシャワーがあります。
しかし、そのホテルはトイレだけしか無いのです。
一瞬「エッ?」と思いました。
今までシャワーすら無いホテルなど経験がありません。

おまけに室内スペースそのものが小さく狭いのです。
(こんな気の滅入りそうな部屋で寝るのか)
でも、もう入ってしまった以上、逃げようがありません。
私はコンビニで買って来た酒とツマミで晩酌をして、
そそくさと寝るしかありませんでした。
これで、6100円って、そりゃ安いけど、こんなのも~イヤッ!

翌月、私はまた趣味の撮影の為に信州に行きました。
しかし、私の心は前月とはまるで別人となっていたのです。
「この俺をいったい誰だと思ってやがんだッ!」
「この俺を舐めたらアカンで~、やったろうじゃんかッ!」
私は鼻の穴をふくらませて確固たる決心に燃えていたのです。キッ!

私の確固たる決心というのは、
あんなセコイ宿に泊まるくらいだったら、絶対にラブホテルの方がいい、でした。
実は私はラブホテルの経験はかなり多いのです。
皆様には黙って隠していた事を、この際お詫び致します。

若い頃は、新横浜のラブホテルなど大好きでした。
何故なら、まるで従業員との接触無しに、全て(コト)が終わるのです。
車を部屋の真下の駐車スペースに停め、横の階段で上の部屋に上がるのです。
コトが終わった後の会計は、部屋の機器で済ませます。
「どうだ~俺達がそういうコトに及んだなんて、誰も知らんのだぞ」

横浜駅から近いそのラブホでは、週末だったのか混みあっていて、
待合室で待機させられました。
その待合室はカーテンで仕切られていて、隣のカップルの足元が見えるのです。
カップルの女性は、何とセーラー服だったのです。
こちらは30歳の女、あちらは17,8歳の女子高校生。
う~ん、なんだかな~。



安曇野で泊まったホテルは、まさにこの部屋でした。
室内の広いこと。



そして風呂は足を伸ばしてゆったりと入れるのです。
もう、優雅というか、先月のホテルに泊まったのがバカに思えました。
これで7600円。
先月の下らないビジホより1500円高いだけ。

でも、最初は男独りで泊まらせてくれるのだろうか?と心配だったので電話したのです。
そうしたら若い女性スタッフが「あ、全然大丈夫ですよ」と優しい対応。
もう、嬉れしくなって、つい、スケベ心が・・・はい、やめます。
確かに向こうだって誰も泊まらなかったら儲けはゼロなんですからね。

一度だけ、あれは東名横浜インター近くのラブホでしたが、
従業員と完全な面接スタイルだったので、
いくらラブホ慣れしている私でも、いい歳こいていても面喰らいました。
やはり、あの男女間の秘密の世界で、対面式ってマズイよね。

ある日、御殿場のラブホテルに行ったのですが、
どこも満室で(皆さん、やっぱりあの世界がお好きなんですね~)
空いてたのは一番高い部屋だけでした。
私だって皆さんと同じで切羽詰まった緊急事態だったので(早くしたい)、
仕方なくその部屋に泊まったのですが・・・・
初めて知りました。
ラブホテルって一番高い部屋に泊まるもんですね~。

最上階の屋外に大きく丸い(直径2メートルくらい)風呂があって、
つまり星空を眺めながら彼女と風呂に入れるのです。
緊急事態だから安い部屋などと言わず、
一番高い部屋に一度泊まってみるべきだと、痛感というか達観しました。
ラブホテルに行って、人生を達観するなんて、本当に尊いものです。
お釈迦様に感謝いたしました。

話はチョッとズレますが、あのね、ラブホもいいんですけど、
青天井の下での、アレもいいもんなんですよ。
まるで原始時代に戻った人類の(源)を味わう如くなんですよ。

ま、つまらないビジネスホテルの予約が取れないなどと、
お嘆きの方々よ、発想を変えて(独りラブホ)をしましょう。
予約などしなくてもいいんですよ。
何だったら彼女を連れ込もうが、どうしようが勝手なんですよ。

ラブホテル・・人生の先達たちが作り上げてくれた夢の世界。
先達の尊い紆余曲折の集大成を味わなかったら、彼等に申し訳が立ちません。
皆様(この場合、女性限定ですが)一緒に味わいましょう。
お声かけ頂ければ、いつ如何なる場合でも対処する所存です、ハイ。


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レイモンド服部

2024-04-27 19:03:24 | 音楽
Cobalt Sky March コバルトの空 - 海上自衛隊東京音楽隊


レイモンド服部という作曲家を知ったのは、
高校でブラスバンド部に入ってからです。
「コバルトの空」これは服部が作曲した曲で最も有名な曲かもしれません。



最初はレイモンドなんてハーフの人なのかと思いましたが、
本名は服部逸郎(いつろう)と言います。
1907年~1973年。
作曲家、作詞家、歌手、元アナウンサーという経歴を持っています。
他の作曲には「東京ワルツ」や、歌声喫茶でも唄われる「小さな喫茶店」
などがあります。
しかし、最も有名なのは「コバルトの空」だと思います。

私は高校一年の時には、ユーフォニウムを吹いていました。
二年生になると、それより大型低音の中バス(こんな楽器は現在あるのだろうか?)
三年生になると大バス(いわゆるチューバとかスーザホーン)を吹いていました。

「コバルトの空」の運指も、ユーフォニウムの運指で覚えています。
この曲には、ドの半音上がりがあります。
それは3本のピストンバルブの演奏では唯一、
3本全部を押さえるというスタイルになります。
3本全部押さえというのは、この音ひとつだけなのですが、
その運指には欠点があり、音が多少ズレる(狂う)となるみたいです。



それを修正するには、画像はトランペットですが、
右下の3番スライドトリガー(丸い輪っかが付いている)だったかを、
左手で瞬間的に伸ばすとかして修正するのだったと思います。
私は高校生の未熟児だったので、そんな高等テクニックが使える筈もなく、
いつも3本バルブを押さえたままで演奏していました。
しかし、金管楽器の世界にその欠点を補う構造が出来ました。





4本目のバルブが新設されたのです。
それを操作するのは左手でしたが、それも更に進歩します。



現在は、もう左手などではなく、今までの3本バルブの横に、
4本目のバルブが付いています。
これは、右手の小指で押さえるものなのでしょう。
しかし、金管楽器の世界を知っているのは、かなり以前であり、
4本バルブの世界は、実を言うとそれほど把握している訳ではないのです。

ただ「コバルトの空」というと、その事が忘れられずに残っています。
そして、レイモンド服部という作曲家の事が思い出されるのです。
なお、服部良一という著名な作曲家がいますが、それとは全く無縁の方です。


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フォッサマグナ

2024-04-27 09:32:48 | 日記
フォッサマグナとはラテン語で、
フォッサ(大きな)マグナ(溝)という意味です。
初めてこの言葉を聞いたのは覚えていないずっと前ですが、
初めて意識したのは映画「日本沈没」でした。



地震学者の田所教授(小林桂樹)が、フォッサマグナという言葉を言ったのです。



日本列島にフォッサマグナを発見したのは、
ドイツ人の地質学者、ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(1854ー1927)でした。
ナウマンという名前を聞いて、はて?と思われると思います。



そうです、ナウマン象の化石を野尻湖底から発見した人なのです。
ナウマン象という名前は彼にちなんで名づけられました。

ナウマンは明治政府の招きで1875年(明治8年)若干20歳で来日しました。
政府が何だってまだ20歳の若僧を招いたのかは分かりませんが。
それから1885年までの実質9年間、
北海道を除く日本列島を1万キロ、主に徒歩で歩き調査し、
日本初の本格的な地質図を完成させました。



ナウマンは、JRで一番標高の高い所を走っている小海線沿いを調査していて、
野辺山辺りで、南アルプスと関東山地の間に広がる、
広大な平地を見渡して、ハッとひらめきました。
「ここに地溝帯があるんじゃないか」と。
その時、ナウマンは22歳~23歳の時でした。

ただ、キチンとしたメカニズムが解ったのは、
プレートテクトニクス理論以降なので、1980年以後です。

映画「日本沈没」の時にも、
「科学者にとって最も大切なのは何か?」と政界の重鎮に訊ねられた、
地震学の権威、田所博士は即答します。
「それは勘です」と。
一枚の新聞紙をビリビリと引き裂き、
「これが元は一枚の紙だったのは誰でも分かります。
しかし、バラバラになった紙が元は一枚の紙だった事には、誰も気づきません」
つまりそれがプレートテクトニクス論なのです。

2000万年前、日本列島はアジア大陸の一部でした。
1700万年前頃になると、大陸の一部に割れ目が入って、
巨大な湖が出来ます。これが日本海の原型といわれます。
1600万年前頃になると、日本列島がバキッと割れて、
真ん中が沈み、その沈んだ所がフォッサマグナと言われる。
フォッサマグナという言葉が名付けられたのは1886年で、
日本列島がアジア大陸から離れる時に出来た、
幅数十キロという大きな裂け目だという、
ナウマンの理論は、まだ認められる以前の発見だったのです。



ナウマンも日本列島が動いたとは思っていませんでした。
ただナウマンはフォッサマグナ周辺の特徴を見て、
溝の両側の地質が似ていて、溝にどうやら新しいのが溜まっていると、
そんな感じでフォッサマグナというのを考えたみたいです。

しかし凄いですね。
たった22、23歳といった若者が、
初めて来た日本という外国で、目の前に広がる山と山とに挟まれた、
平らな地形を見て、「これは溝じゃないか」とひらめくなんて。
それまで、ずっと日本に住んでいながら、
そんな事など全く思いもしなかった人達全員が考えもしなかったのに、
それを外国人の若者に見破られるなんて・・・

私はずっと昔、ドライブに行った時だったか、
長野県か山梨県辺りの何処かで、
「フォッサマグナが見られる場所」とかの看板に引き寄せられ、
見に行った事があります。



まあ、おおむねこんな地形が剥き出しになった場所でしたが、
これの何処がフォッサマグナなの?としか思いませんでした。
天才と凡人の差です。



何度も行った山梨県白州町のキャンプ場、オートキャンプ牧場チロル。
私達の居るのは南アルプス山脈の麓、
遠くには八ヶ岳の山並みがあり、その間には平地が広がっています。
ナウマンが見たのはここではありませんが、
つまり、こういった同じ様な地形を見て、彼はひらめいたのですね。

日本人全員が見抜けなかった事を、
外国の若者が見抜いてしまった。本当に凄い。



新潟県糸魚川市には、フォッサマグナミュージアムがあり、
同じ糸魚川市ですが、こことは違う場所に、
フォッサマグナパークというのもあります。
そちら方面に行く事がありましたら、一度行ってみるのもいいですね。



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