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河童の歌声

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タイタニック号遭難は騒ぎ過ぎ

2025-04-14 03:46:46 | 船舶

1912年、史上最大の船舶沈没ドラマが生まれました。
タイタニック号の遭難です。
世界最大の豪華客船の沈没。
(実は世界一の豪華客船とも言えない)
救命ボートの不足により、1500名の命が失われてしまった。

確かに今でも語り続けられる要因は多かった。
世界一の豪華客船、処女航海、多くの有名人が乗っていた、
絶対に沈まない設計だった、最後まで演奏を続けた楽団員たちの美しい姿。
それらは「タイタニックを美化するドラマ」であった事は間違いない。

そういったドラマ故に、今でも失われたタイタニックを追い求める、
例えば海底に沈むタイタニックを見に小型潜水艦で行ったり、
そういった類の話に事欠かないのです。

何ゆえにタイタニックドラマは何時までも終わらないのでしょうか?
私としては「もういいよ、そんなに美化しなくていいよ」
という思いを強く感じるのです。

ドイツの客船、グストロフ号。
敗戦の色濃いドイツは、北欧からドイツ本国へと向かうバルト海へ向かった。
必死の思いで逃げるドイツ一般人を詰め込めるだけ詰め込んだグストロフ号。
それを今までドイツ軍にいじめられてきたソ連は見逃さなかった。
ソ連の潜水艦は、それまでの積年の復讐を込めてグストロフ号に魚雷を叩きこんだ。
それは史上最大の9043人という人達を皆殺しにした。
同じ頃、同じ理由で、ゴヤ号6666人。
シュトイベン号3150人の一般ドイツ人が、ソ連の陰湿な復讐の犠牲になった。
それらは、タイタニックの様な、ある意味美しいドラマを生む時間もなく、
アッという間に沈められてしまった。
この3隻の犠牲者は約19000人。それはタイタニック号の12倍なのです。

1915年、アメリカ、ミシガン湖。
多くの観光客はイーストランド号の片側だけに乗り込んで、
多くの人達の目の前で横倒しになり、1810名が亡くなった。

1987年、フィリピン。
日本から買い込んだ船を改造したドニャパス号は、
クリスマス休暇で故郷に帰る人達を満載していた。
船内は立錐の余地も無い人と荷物で身動きも出来ない状態だった。
深夜にドニャパス号は、ガソリンを満載した小型貨物船と衝突。
二つの船は引火したガソリンで吹き飛んでしまった。
両船の乗組員は全滅、乗客も、数人が吹き飛ばされて生き残った他は、
全員(4400人くらい)が全滅してしまった。
そこにはタイタニックの様なドラマなど生まれる時間は無かった。
一瞬で火だるまになるという悲劇的な死だった。

そういった沈没に比べると、
確かにタイタニック号の最期はドラマチックだった。
面白いのは、それを予感させる、ある一冊の本があったのです。
タイタニック号沈没は1912年。
それより14年前の1898年。
アメリカ人の下級船員、モルガン・ロバートソンという男が、
一冊の本を書いていたのです。
その内容は、ある船の沈没事件を描いた本でした。
しかし、その内容があまりにもタイタニック号沈没を予感した内容だったのです。
世界最大の豪華客船、処女航海、出発港と目的港が同じ、多くの有名人が乗っていた。
船は氷山に衝突した、船の全長、大きさがタイタニック号とほぼ同じだった。
そして救命ボートが不足していて、亡くなった人の数が同じだった。
極めつけは船の名前はTAITAN(タイタン)
その後ろにICを付けると、何とタイタニックだったのです。
まるで鳥肌が立つほど小説は、事実と同じだったのです。

日本でも1954年の洞爺丸事件、1155名死亡。
1945年の緑十字船(赤十字船に次ぐ安全を保障された船)
阿波丸事件、2100名死亡。
阿波丸と同じ類の対馬丸事件、1418名死亡。
富山丸3695名死亡、摩耶山丸事件3437名死亡。

そういった名も無い悲劇があるのです。
タイタニックばかりが(悲劇)などではありません。
ただ、阿波丸や対馬丸といった多くの避難民をターゲットにされた、
船を美化する風潮があるのは、あまり支持できないのです。

それはそれとして、いつまでもタイタニックと大騒ぎするのは、
もういいよ、もう辞めたいと思うのです。

 

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海難史上最大の謎

2024-09-06 14:27:04 | 船舶
1918年3月、第一次世界大戦中、
アメリカ海軍の大型給炭船、サイクロプス号がカリブ海で消息を絶ちました。





サイクロプス号は、14500トン、全長159,1メートル。
給炭船とは、当時艦船の燃料は石油ではなく石炭でしたので、
それを運ぶ為の船は絶対に必要だったのです。

石炭の荷扱いの為、この船は特異な外観をしていました。
船首には簡単な船橋があり、船尾には居住施設があり、
その中間90メートルが石炭庫になっており、搭載量は18000トンでした。



サイクロプス号は1918年2月21日、
ブラジルのバイアでマンガン鉱石18000トンを積み、
ボルチモアへ向け出港しました。
この時、船には帰還する海軍将兵など73名が便乗し、
乗組員233名と合わせて306名が乗り込んでいました。



サイクロプス号は途中何処にも寄港せず、一気にボルチモアに向かう予定だったのですが、
バイア出港後10日の3月3日に、
突如バルバドス島の港に寄港し、燃料炭600トンと、食料18トンを積み込んだのです。
そしてすぐに出港したのですが、その後の消息は一切絶たれてしまいました。

到着予定日を過ぎても連絡のない旨の報告を受けた海軍は、
ただちに捜索を開始しましたが、何の痕跡も見つからないのでした。
サイクロプスの失踪に関しては様々な噂が飛び交いました。
中にはバミューダトライアングルの異常現象により消滅したといった、
奇説まで生まれたりしました。

現在に至るも船と乗組員306名の消息は一切不明のままで、
一切の手がかりも皆無であり、
世界の海難史上最大の謎のひとつとなっているのです。


(追記)
このブログを書くためにサイクロプス号をネットで調べていたら、
ある方の書いたブログが出てきました。
その、あまりにもいい加減な記事には呆れました。

サイクロプス号はアメリカの戦艦であり・・アメリカにそんな戦艦は存在しません。給炭船です。
マンガン鉱石1万トンを積み込んでいた・・1万トンの貨物を積み込める戦艦などあり得ません。
更にバミューダトライアングルの謎にも言及しています。が、
バミューダトライアングルが嘘八百であった事は、全部が解明されています。
(魔のバミューダ三角海域の謎・・2022年2月11日、河童の歌声)
そこに書いた様に現在ではそれを信じる行為は誰もしていません。
ただ油断すると、そういった嘘をさも本当らしく語りたがる輩が出没するのです。
荷崩れしやすい貨物であった為に、連絡など何も出来ない内に、
一瞬にして横転、沈没したという説、これは現在ではそう考えられているみたいです。


海というのは、ある意味恐ろしい世界であり、
死ぬにしても家族たちに、何故死んでいったのか、分かって欲しい。
せめて遺体くらいは身内の手に返して欲しいと思いますね。
何も分からない、手がかりがまるで無いとうのは、切ないですね。


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船の寿命

2024-08-31 05:13:42 | 船舶
皆さんは船の寿命は何年くらいだと思いますか?
と言うか、船に寿命があるなんて考えもしなかった人が多いのではないでしょうか。
でも、改めてそう問われると、
「人間と同じくらいかな?」そんなトコだと思います。
ところがです、船の寿命というのは意外と短いのです。

木造帆船時代の船の寿命、それは大体40年前後でした。
それは現代の船から見ると大変に長いのです。
時代が進み、木造船は鉄や鋼鉄で造られる様になると、
船の寿命は不思議な事に逆に短くなっていくのです。



何十万トンという途方もない巨体を誇る、オイルタンカー。
その寿命はせいぜい15年しかないのです。
大変な建造費をかけて造った船が、たった15年の寿命でしかない。
その事実に多くの人は驚かれると思います。

船の寿命には、船がそれ以上は動けなくなる限界、
物理的寿命がある訳ですが、
そういった状態まで船を動かすという事は殆どないのです。
現代の船の寿命というのは、経済的理由の寿命なのです。
つまり、船はまだ十分に動けるのに、動かせば動かすだけ赤字になる。
その時点で船の寿命は尽きるのが現代なのです。

経済的理由での寿命の極致が、マンモスタンカーなのです。
第二次大戦後の経済発展の中で、最も急成長を遂げたのは石油でした。
石油が無ければ経済の発展はあり得ません。
世界中の船会社が産油国からオイルを運ぶタンカーを造りました。
タンカーは大型船であればあるほど、1回に運べるオイルが増えますから、
みな大型タンカーを急造しました。

1950年までの世界の標準的なタンカーは12000万トン前後。
それからは毎年大型化されたタンカーとなり、
1960年代には10万トン。
1970年代には20万トンとなっていきました。
後から造られる大型タンカーの前には、まだそれほど経っていない中型タンカーは、
経済的に赤字のレッテルを貼られ解体されていくしかありません。

1971年に日石が世界最大のタンカー「日石丸」を完成しました。
18万5000トン、全長347メートル。
しかし、建造から14年後に経済的理由により解体されてしまいました。
たった14年の命だったのです。

こういった中でも世界には本当の意味での長寿船は存在します。
全てが曳船や遊覧船といった小型の船です。
しかし、その船が海を舞台に動いている場合は、塩分の影響で、
その寿命は60年前後、それ以上の船は全て真水の中で働いていた船なのです。





日本で最も長寿だったのは夕顔丸でした。
206トン、全長27,6メートル。

夕顔丸は、長崎市の海岸と、高島炭鉱との連絡と、
人々の輸送に使われたもので、90名前後の定員でした。
1887年(明治20年)建造。
1962年(昭和37年)までの75年間、
一日も欠航する事無く、7万5千回以上働き続けたのです。



世界一有名な船、タイタニック号。
1912年に史上最も有名な沈没事故で沈みました。
その寿命は、処女航海だった事もあり、たった15日間でした。



横浜、山下公園前に係留されている氷川丸。
1930年完成。1961年から横浜に係留されていますが、
後6年で建造から100年ですね。
湖ではなく海に係留されているのですから、当然塩害はあると思います。
どうなるのでしょうか?気になります。


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恐るべき海の病・脚気

2024-02-23 14:48:18 | 船舶
2017年1月27日に、
「壊血病、恐ろしき海の病」というブログを書きました。
外国の船舶は大西洋、太平洋、インド洋と気が遠くなる様な遠洋航海をしていましたが、
そういった果てしない航海で発生するのが、壊血病でした。
その死亡率は信じられない数字であり、
船乗りたちは生きるか死ぬかの、気も狂わんばかりの思いで大海原へ乗り出して行ったのです。
しかし壊血病という病気は、日本の船乗りには無縁でした。

日本の船は東南アジアを最遠とする貿易船であり、
1ヵ月以上かかる航海であっても、途中、中国各地の港に寄港しながらであったので、
いくらでも新鮮な野菜、果物を得る事ができたからです。
つまり日本の船乗りたちは壊血病の存在すら知らなかったのです。

しかし日本に近代的な海運、海軍が誕生し、
長距離の航海が行われる様になると、
西欧ではほとんどその存在すら知られていなかった病気と、
日本の船乗りたちは戦うことになったのです。

その病気とは脚気(かっけ)でした。
江戸時代になった頃、江戸に住む武家や町人たちに限って脚気が流行りだしたのです。
その為、脚気は(江戸患い)とさえ言われたのです。

脚気はビタミンB1の不足によって発生する病で、
足に浮腫みが現れ、膝の反射がなくなり、
更に進むと動悸や視力低下を起こし、遂には心臓機能が低下し、死に至る恐ろしい病気です。
江戸時代に江戸市民を中心に白米が常食になりだすと、
この病気は江戸特有の病となって「江戸患い」と呼ばれるようになります。

1882年(明治15年)、軍艦、龍驤事件が起こります。
軍艦「龍驤」による9か月間の太平洋航海が行われました。
ところが日本に帰国した時、
371人中160人(43%)が脚気を患い、25人が死亡していたのです。

この頃、一人の日本人海軍士官がイギリス留学から帰国しました。
彼は医学を学んで、後に日本海軍の医療の礎を築く人なのです。
その名を高木兼寛と言います。
彼はこの事件に注目して研究を始めていました。

彼は脚気という病気が西欧の人達や、いずれの国の国民の間にも全く見られず、
日本の船乗りでも、外国の港に入港中は脚気の症状が軽減される事を知ります。
問題は食事の内容しか考えられません。
そしてその結果、窒素分の少ない食物を大量に摂取する事によって、
脚気が発症する事に気づきます。

その対策は、食事の洋食化、(パンと白米を麦飯にするのと肉を食べる)でした。
1882年からこれを実行した効果は極めて顕著でした。
その後、高木が提唱した窒素分は、ビタミンB1である事が確認されます。
以来、海軍では白米に変わり麦飯が主食となったのです。

しかし、船乗りの病には、壊血病や脚気以上に恐ろしい病気が存在します。
それは伝染病です。
コレラ・ペスト・インフルエンザといった伝染病は、感染力が強く、
船内にそういった病原菌が一旦入ったが最後、
その感染力は狭い船の中ではたちまち伝染し、
船の運航すらままならない危険な状態になってしまうのです。

今では考えられない様なことであっても、
昔の船乗りたちは、実に頭の下がる思いで、己の人生を賭けていたのですね。


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氷川丸物語

2023-07-11 05:55:35 | 船舶








横浜に来て、氷川丸を見ずに帰る人は多くはないと思います。
横浜港を望む山下公園に係留されている、氷川丸。
以前、横浜市民だった私は、数えきれないほどその姿を見ていたし、
2、3回は船内に入った記憶があります。

さて、氷川丸なる船は、何故に現代まで残され、
いったいどんな過去を持つ船なのでしょうか・・・

「氷川丸」
11622トン。全長163,3メートル。全幅20,12メートル。
ディーゼルエンジン2基。11000馬力。速力18,21ノット(時速33,7キロ)
航海速度15ノット(時速27,8キロ)
船客 一等、76名。 二等、69名。 三等、186名。
貨物2600トンの貨客船でした。
(貨客船というのは、船客と貨物とを積む船です)

完成は1930年(昭和5年)4月25日。
終航は1960年(昭和35年)10月3日。

姉妹船に、平安丸と日枝丸があります。
船名の氷川は、大宮の氷川神社に由来し、平安は京都の平安神宮、
日枝は千代田区、日枝神社に由来し、3隻とも頭文字がHで統一されています。
氷川丸は日本では(ひかわ)ですが、アメリカでは(HIKAWA・ハイカワ)と発音されていました。



日本郵船では日本とアメリカを繋ぐ太平洋航路(シアトル航路)に、
氷川丸と平安丸を就航させます。
日本(横浜)とアメリカを結ぶには南部ルート(横浜~サンフランシスコ)と、
北部ルートがあるのですが、南部ルートに比べ北部ルートは、
1000マイル(約1600キロ)少ないので、北部シアトルとなったのです。
当時、太平洋横断には約2週間かかり、現在の金額で40万円~90万円かかったそうです。
そして太平洋横断中は、一度は海が荒れるのに遭遇し、
船酔いで苦しめられる人が多数出ていたそうです。
現在ではジェット機でひとッ飛びですから、まさに隔世の感ありですね。

氷川丸のサービスの良さは評判を呼び、
1932年には、チャップリンが乗船。1937年には秩父宮夫妻。
1939年には宝塚歌劇団一行など、華々しい活躍を続けました。



戦争が始まると、海軍特設病院船となり、3度蝕雷(機雷に触れる)しましたが、沈没を免れました。
しかし姉妹船、平安丸は海軍に徴用され潜水母艦となり撃沈され、日枝丸も撃沈されてしまいます。

戦争を生き抜いた氷川丸は、帰国者の引揚任務に従事します。
1953年(昭和28年)になってシアトル航路に復帰します。
そして船齢が30年になった1960年に現役を引退しました。
30年間で太平洋を254回往復、船客数は25000人を超える大活躍の人生でした。









1961年に山下公園に係留保存され、
2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンしました。

戦前の日本で建造された、現存する唯一の貨客船であり、
造船技術や船内の内装を伝える貴重な遺産として評価され、
2016年に「重要文化財」に指定されました。

私も、もう何十年も氷川丸に入った事がないので、
機会があれば、またあの船内に入ってみたい気がします。

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