河童の歌声

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悲劇の航空母艦・大鳳

2022-06-25 07:32:23 | 軍艦
太平洋戦争が、日本軍のハワイ真珠湾攻撃(1941年12月)から始まって、
僅か半年後(1942年6月)、
日本軍は太平洋のミッドウェー島をめぐる攻防戦で歴史的大敗北を喫してしまいました。
その頃の日本軍は破竹の勢いで進撃中で、軍部も国民もその勢いに狂喜していました。

その最中に起こった信じられないミッドウェー海戦の大敗北。
海軍は色を失い、国民にはその敗北が知られない様にしました。
ミッドウェー海戦で、日本はその全てと言っても過言ではなかった、
正規空母4隻全部を失ってしまったのです。
「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」
この頃になると「戦艦」は期待する戦力とはならない事が明らかになり、
航空母艦こそ最大の戦力である事が海軍にも分かってきました。
その最大戦力の全部をいっぺんに失ってしまったのです。

これではとてもじゃないが、戦争を続ける事は出来ない。
海軍は正規空母(最初から空母として設計された本格的空母)を、
建艦する事しか、この難局を乗り切る事は出来ないと悟ります。
ミッドウェー敗戦時に存在した日本の空母は、
商船や客船を改造した様な、脆弱な空母しか無かったのです。

日本軍が計画したのが「大鳳」でした。





満載排水量37000トン。全長253メートル。全幅33,6メートル。
16万馬力で33ノット(時速61キロ)の高速力です。

そして、その最大の特徴は航空甲板に防御板を張った事です。
航空母艦というのは、言うまでもなく内部に航空機を抱え込み、
そして航空機が抱える爆弾、魚雷、航空燃料といった危険物を大量に載せています。
ですから、一旦敵から攻撃されると非常に危険だし、防御力は殆ど無かったのです。
自艦を護るには、自艦に在る航空機によって敵機を撃ち落とす事でした。

そういった最大の弱点、脆弱さから、これを回避する為に、
空母・大鳳は甲板に防御板を張りました。
しかし、10センチ近い厚い装甲板の重さは大変な重量です。
それは、つまり(頭でっかち)となって不安定で転覆しやすくなります。



その為、大鳳は飛行甲板の中でも、
航空機が離発着する為に、最も重要な中心部分にだけ防御板を張りました。
と言ってもその重量にはまだまだ大変な重さがあります。
その重さの為に、防御板の無い空母だったら積めた筈の航空機の数は、
少なくなってしまいましたが我慢するしかありませんでした。

とに角、アメリカみたいに次から次にと建艦できる余裕は無いのですから、
絶対に沈まない空母を造るしか無かったのです。
そして、敵弾から内部を護る為にと、航空機格納庫や、
爆弾、魚雷といった危険物を火から護る為に、そういった部分を鉄板で覆ったのです。
しかし、その事が逆に大鳳の沈没を早めるという皮肉、アダとなってしまいました。

1944年(昭和19年)6月。
大鳳はマリアナ沖海戦に出撃しました。
この時、アメリカ潜水艦の放った1発の魚雷が大鳳の右舷前部に命中しました。
大鳳は1発の魚雷ごときで沈没する様なヤワな船体ではありません。
ところが前部に在った航空機の為のガソリンタンクからガソリン漏れが始まってしまいました。
大鳳の内部は敵弾攻撃から船体を護る為に防御鉄板が張ってあり、
ガソリンの気化ガスがその中に充満してきたのです。
それを外に逃がしたくても鉄板の覆いの為に外部に逃がす事が出来ないのです。

大鳳艦内では、絶対に火気を出すなと厳命し細心の注意を払っていましたが、
午前8時頃に魚雷が命中して、6時間後の午後2時ころ、
恐れていた最悪の事態が起こってしまいました。
気化ガスが艦内を覆い尽くした所に、何らかの火が点き、大爆発を起こしてしまったのです。
全艦火だるまの満身創痍となり、4時間後に手の施しようもなく沈没していったのでした。
日本海軍の期待を一身に受けた設計は、裏目に出てしまいました。





その頃のアメリカの空母はオープンデッキ方式で、
艦内での火災は閉じこもる事なく、外部に噴出するので、
枠の中に囲われた爆発力が膨張の極致の挙句に爆発するという悲劇は起こりませんでした。

しかし、日本海軍の期待を一身に受けたからこその、クローズドデッキが、
逆効果になってしまうなんて、誰が想像できたでしょうか。

日本海軍が期待を込めた航空母艦・大鳳は、
たった1本の魚雷で、あっ気なく沈んでしまったのでした。
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文部省特選映画など、観たいとは思いません

2022-06-22 20:05:43 | 映画
昔、文部省特選映画とか、選定映画というのがありました。
現在は文部科学省となったので、文科省特選映画というのでしょうか。



小学校の時は、たまにこういった映画を学校ぐるみで鑑賞に行きました。
中でも「砂漠は生きている」という映画だけが何故か心に残っています。
それなりに(いい映画)だったという事なんでしょう。



私と同じ歳の妻は、
ヘミングウェーの「誰が為に鐘は鳴る」を学校で観にいった事があるそうですが、
私の記憶に、この映画はありません。
私の学校では、きっとラブシーンのありそうな、こんな映画は観せて貰えませんでした。



最近では昨年だったか「MINAMATA]を観ました。
熊本の水俣病を撮った写真家、ユージン・スミスを描いています。



若い頃から写真を勉強してきたので、
ユージン・スミスや、桑原史成という写真家は知っているし、
人間として、日本人として観ておくべき映画、的な言われ方をしているのも知っていました。
しかし、私はそういった風に、
人として観ておくべきだ、みたいな映画は好きではありません。
「MINAMATA]も、同じで観て良かったなどとはまるで思いませんでした。

文科省が言う「いい映画」というと、
役人が建前を振りかざして頭ごなしに決めつけるムードがイヤです。

私は、そういった日常の常識の範疇から外れた映画を観たいのです。
私以外でも、そういった決められた枠から飛び出した、
そういった映画こそ観たいんだという人は沢山いると思います。



1960年代に登場し、ある種、一世を風靡し、
日本中にアタッシュケースを流行らせた007のジェームス・ボンド。



日本中を笑いと涙で包ませた寅さんシリーズ。
どっちも、文科省とはまるで無縁の映画ですが、沢山の人達の心を掴みました。





「大脱走」「ローマの休日」
私は何十回と観ている映画です。
観終わった後の、あの心地良い余韻は何でしょう。



90年の前の映画だというのに、それが如何に時代ずれしているとは言え、
映画というのは(楽しい事)が基本で、
観終わった後に残る(夢)(余韻)を強烈に感じた映画でした。
そういった分野に文科省などという(お役所)は関知してほしくないし、
それを観に行くという愚行はしない様に気をつけようと思います。

数年前に「万引き家族」という映画がありました。
私は勿論観ていないし、観たいなどとは全く思いません。
何故なら「万引き」などという人間の裏側の話が面白い筈がないし、
ましてや(夢)とは無縁だと思うからです。
映画は楽しくなければ映画に非ずと言うのが基本的姿勢です。
それが戦争映画であっても、どこかしらに楽しさはあり、
そんな中から尊い人間性を強く感じたりもします。

「人として観ておくべきだ」映画は好きではなく、
観終わった後に、いつまでも心地よい余韻が残る映画が、私は好きですね。



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永久に見つからない遺体

2022-06-22 14:01:35 | 日記
東日本大震災から11年 新たに3人の遺体の身元特定 現在も2523人が行方不明(2022年3月9日)


東日本大震災から既に11年が経ちました。
しかし、未だに見つからない方が2500余人います。
それは本当に悲しい事です。







あの時逃げ遅れ、眼前に迫る黒い大波を目にした時、
自分の死を直感した人は大勢いたと思います。
そして、迫り来る死を感じながら、自分は遺体すら発見して貰えないかと、
観念した人も大勢いたと私は思います。
しかし、いくら死ぬにしても、せめて遺体くらいは発見され、
家族たちに自分の死を見て欲しい、別離の言葉をかけて貰いたいと、
そう思った人も沢山いたと思うのです。
それが今まで生きてきた人、人間としての心だと思うのです。





この4月に発生した知床遊覧船沈没事故。
26名中、現在も10名だったかの人は、まだ遺体すら発見されていません。
あの事故が起こった時、
私は遺体すら永久に見つからない悲劇だけは、何とか避けてほしい。
死んだにしてもそれだけは勘弁してほしいと祈りました。
ですが、相手は広すぎる太平洋。
もうダメなのかもしれない、本当にやり切れません。







第二次大戦中には、各国沢山の潜水艦が太平洋、大西洋にと出撃していました。
陸地で戦争していれば、死んだにしても大体の死に場所は分かりますが、
潜水艦は全てが隠密行動ですから軍にしても、
彼等が何処で失われたかも把握できない事が多いのです。
ただ潜水艦〇〇号は西太平洋方面に出撃、以後消息不明といった具合に。
陸地で死んだのと違って、数千メートルの深海だったりすれば、
それは永久に発見される事は無いし、遺体の回収などあり得ません。
彼等は誰にも知られる事もなく永久にその死は葬られてしまうのです。
それは、あまりにも悲しすぎる。





2001年9月に発生したニューヨークテロ。
あのビルに突入した飛行機に乗っていた人は、
鉄骨さえ溶かしてしまう高熱に焼かれ、
人骨さえも燃え尽くし粉になってしまい、
挙句の果てにはビル崩壊により、人骨まみれの粉さえ瓦礫にまみれ、
何の痕跡も無いまま、記憶の中だけの人間になってしまいました。
人間が物体である以上、物理的な結末があったにしてもどうにもなりませんが、
でも遺族にすれば、せめて遺体くらいはと思います。
それが、何にも無い、ただ思い出だけしか残らなかったというのは、
あまりにも無慈悲で、狂わしく切ない。
それはないだろ。それだけはあまりにもやるせない。

衝撃の激しさに見るも無残で、まともに見られない遺体。
それでも、遺体は残った方がいいのか?

でも、その瞬間だけは気が狂いそうになろうが、
その人は死んでしまった、もう居ないのだという現実がある。
しかし、見たくても見られない、
掴みたくても掴めない、抱き締めたくても腕は空を切るばかり。
どっちにせよ、もう存在しないという事は理解できても、
やはり、逝ってしまった事実を確認したいと、私は思います。


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史上最大の大砲

2022-06-20 19:04:24 | 軍事


人類史上最大の大砲は、ナチスが開発したグスタフ列車砲です。
その大砲の口径は、驚きの80センチ。
右から2人目は、大きい兵器が大好きだったヒトラーです。



史上最大の戦艦、大和の主砲口径は46センチでしたから、
如何に驚異的な大きさであったかがわかります。



戦艦大和の砲弾が約1,5トンだったのに対し、
80センチ砲弾は榴弾(普通の砲弾)で、4,8トン。
ベトン弾(要塞の分厚いコンクリートを破壊する目的の砲弾)は、7,1トンありました。
この砲弾は厚さ7メートルの鉄筋コンクリートを貫通しました。

この巨砲は列車に載せて移動できる様に造られています。



しかし、その総重量は1350トン。
これは小型の駆逐艦に匹敵する途方もない重さです。
その全長は42,9メートル。全高11,6メートル。
砲身長は32,5メートル。射程距離は30~48キロでした。
発射速度は1時間に3,4発だったと言われています。
この列車砲は当初、フランスが誇る鉄壁の要塞マジノ線攻撃の為に造られました。

1934年から開発が始まり、1940年に完成しました。
最初は3基を製造する計画でしたが、マジノ線攻撃の必要が無くなり、
最終的に2基が製造されました。

あまりの巨大さの為に、通常の2本のレールでは移動できず、
4本のレールに8台の台車で移動しました。
しかし、輸送用貨車が走るレールが2本。
更にこの6本のレールを挟んで1本づつ敷設される2基の、
組み立て用クレーンの走行するレールがあり、合計8本のレールが必要でした。
また、トンネルや鉄橋を通過する為には、
分解するのに2週間。組み立てるには1ヵ月を要しました。

これが実際に使われたのは、ソ連が守備するクリミア半島の、
セバストポリ要塞の攻防戦に投入され、戦果を挙げています。
ここでは40発前後の巨弾を撃ち込み、
要塞の地下深くにあった弾薬庫を破壊しました。
しかし、砲身寿命が尽き、その後2年間に渡って運用は中止になっています。
ポーランドの首都、ワルシャワの戦闘で数発を発射、
実戦参加はこの2回だけで、発射弾数は50発に満たなかったのでした。

この巨大砲を稼働させるには1400人の兵士が必要で、
防衛、整備などで更に4000人以上が必要であり、
自軍の陣地内で使えても、敵軍が迫っている状況下では使えず、
マジノ線がそうであった様に、ほぼ使えない兵器であったのです。



しかし、ドイツというか、ナチスは、とんでもない兵器を造るもんですね。
まさに呆れ果ててしまいます。


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ダグラスDC-3型機

2022-06-20 07:00:16 | 歴史
ブライトリング ダグラス DC-3 福島空港離陸


ダグラスDC-3と聞いて、その飛行機の姿を覚えている人はどのくらい居るでしょう。
私は、まだ子供でしたが、ハッキリと覚えています。



ダグラスDC3型機は戦前の1936年に運用を開始しました。
それ以前の航空機はスピードも遅く、航続距離も短かかった為に、
より良い航空機を必要とされてきました。
それ以前のDC1型機、DC2型機より定員を5割増やしましたが、
運航経費はごく僅かのアップに過ぎませんでした。
飛行性能も安定しており、整備もしやすく、実に扱い易い機体でした。

戦争中は有能な貨物機として大活躍。
日本では1935年よりライセンス生産(他の企業が開発した技術を、
使用料を払って、生産する事)しました。



全長19,66M  全幅28,96M、  重さ7,65トン。
速度346キロ、 操縦員2名、 旅客数32名、 航続距離2420キロ。



当時の機体がこれと全く同じ室内だったかは分かりませんが、
とに角、質素で狭かった事はこれで分かりますね。

飛行性能は勿論、輸送力、経済性も高水準でバランスさせた稀有な飛行機でした。
1930年代から1940年にかけて、
世界の航空輸送の原動力となった不朽の傑作機です。
1945年(第二次世界大戦終了)までに1万機以上が製造されましたが、
これは双発輸送機、屈指の生産記録です。
また、世界で最初の本格的旅客機です。



あの頃のニュース映像を観ると、
後に傾いた機体のタラップから、
世界的な有名人、政治家といった面々が降りてくる写真をよく見ました。

しかし、1950年代に入ると航空機の大型化や、
新型機の導入が進み、徐々に第一線から姿を消していきました。



1952年(昭和27年)4月。
もく星号が伊豆大島の三原山に激突し、37名全員が死亡する事故が起こりました。
私は、それはダグラスDC3型機による事故だとばかり思っていたのですが、



それは間違いで、DC3より、若干大型のロッキード・マーチン・2-0-2型機という事でした。
確かにDC3と違って、着地の姿勢が傾かずに水平ですね。

DC3が起こした死亡事故には、全日空の下田沖墜落事故があり、
それは全日空が創業後、初めて起こした人身事故で、33名が死亡しました。

最初のDC3が登場してから80年以上経った現在でも、
僅かながら飛行できる機体は残っているそうです。
まさに稀代の傑作機だったのですね。


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