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河童の歌声

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駆逐艦綾波、伝説の戦い

2025-02-10 12:39:04 | 軍艦




オーストラリアの右上、ニューギニアの右に在るのがソロモン諸島です。
そこには、太平洋戦争で最大の激戦地となった、ガダルカナル島があります。
何故、日本とアメリカはそんな場所で激しく戦ったのでしょう?
それは米軍基地があるハワイと、オーストラリアの補給線上に在るからです。
その補給線を断ち切る為には、そこに日本軍が居座るのが絶対に有利です。
アメリカ軍はガダルカナル島に基地を造りヘンダーソン飛行場を造ります。

ラバウル基地とガダルカナル島との距離は、約1000キロ。
東京から九州までの距離です。
往復2000キロという長距離をラバウル航空隊のゼロ戦は飛んで、アメリカ軍と戦ったのです。

1942年10月、
日本海軍は2隻の戦艦の艦砲射撃でヘンダーソン飛行場を叩きのめしました。
青天の霹靂といった状態で、戦艦からの巨弾を浴びせられたアメリカ軍基地は、
恐怖におびえやられ放題の完敗でした。
しかし、そうは言ってられず、日本軍には無いブルトーザーを駆使して飛行場を元通りにしたのです。
そんな飛行場を再び戦艦の巨砲で叩くべく、2隻の戦艦が、
ガダルカナル島へ、1942年11月14日、多くの軍艦と共に攻撃に出陣しました。
第三次ソロモン海戦の始まりでした。



そういった中に、駆逐艦綾波も居ました。





綾波は特型駆逐艦の11番艦で、全長118メートル。1680トン。乗組員219名。
その日綾波は2隻の駆逐艦、1隻の軽巡洋艦、川内と行動を共にしたのですが、



深夜の暗闇だった為か、軽巡川内と2艦で行動する筈だったのに、
川内は他の2艦と一緒に、サボ島の向こう側へ廻ってしまい、
綾波はそれとは知らずに、たった1艦で行動していたのです。
川内との無線は、サボ島が邪魔になって届かなかったのです。

そういった暗闇の中で、綾波は敵艦と出会ってしまいました。
駆逐艦3隻と、何と戦艦サウスダコタでした。
戦艦サウスダコタは新鋭の16インチという巨砲9門を持つ戦艦です。
まともに打ち合えば、1680トンの綾波など一瞬で吹き飛んでしまいます。

しかし、ごく近距離だった綾波は3隻の駆逐艦に対し、砲撃を仕掛けます。
敵からも攻撃を受け、1基の魚雷発射管が使えなくなり、それは誘爆の危険性もありました。
綾波は残った2基の魚雷発射管から6本の魚雷を発射します。
その内3本が敵艦に命中し、1隻は沈没、1隻は戦闘不能になる(後に沈没)という殊勲をあげます。
残る1隻も火災を起こし、後に日本軍から沈められて行きました。



また、戦艦サウスダコタは綾波の弾丸により電気系統が故障し、
戦闘不能になるという情けない結果になったのでした。
間もなく綾波は敵弾により致命傷を負い、暗いソロモン海に沈んでいきました。
しかし、艦長の判断により早期の脱出が幸いし、
80%の乗組員が命が助かった(日本艦により救助された)のです。

沈没する綾波から海に逃れた兵士達は、
信じられない大戦果に狂喜し、浮遊物にしがみ付きながら、軍歌を唄っていたのです。
そんな事は聞いた事もありません。
それほど、あり得ない大戦果だったのです。



しかし、戦艦比叡(ひえい)は、
サウスダコタではなく、その存在を感知できなかった戦艦ワシントンの、
レーダー射撃により撃沈され、ヘンダーソン飛行場を壊滅出来なかった
日本軍は戦略的には敗北したのでした。

しかし、世界の軍艦の中で、それもこんなちっぽけな軍艦が、
これほどの大戦果を挙げた事は皆無です。
数多くの海戦にことごとく参加し、ほぼ無傷で生き残った、駆逐艦、雪風。
それは、まさに奇跡でしたが、生き残れなかったとはいえ、戦果としては綾波なのです。
どちらも日本海軍の駆逐艦だったというのが(凄い、凄ご過ぎる)


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実物大の戦艦長門が出現

2025-02-07 13:53:09 | 軍艦


戦艦長門(ながと)は長い間、日本海軍の象徴であり、日本国民の誇りでもありました。
1920年(大正9年、完成)全長225メートル。39000トン。
完成時には、世界の戦艦ビック7と言われた巨艦でした。
(写真、長門の艦首の背景に、戦艦大和が見えます)
長門型の2番艦に陸奥(むつ)がありましたが、
陸奥は1943年に広島湾に停泊中に謎の爆発で沈没してしまいました。

故に日本国民は戦艦長門を海軍の象徴として永くあがめていました。
後に、1941年(昭和16年)に世界最大の戦艦(大和・武蔵)が完成しますが、
その戦艦(大和・武蔵)の存在を知っているのは一部の海軍上層部だけであり、
一般国民は全くその存在を知らず、知ったのは戦後になってからでした。

さて、映画「トラトラトラ」・・ハワイの真珠湾奇襲攻撃を描いた、
1970年公開のアメリカ映画です。
日米合作と思っている方もいるでしょうが、合作ではなくアメリカ映画です。
当時のレート(1ドル360円)時代では、100億円前後の制作費だったそうです。
つまり途方もない大金をかけた映画だったのです。



私がこの「トラトラトラ」をDVDで観たのは、かなり前です。
映画館で観たのではなく、あくまでDVDだったのです。
その時は映画として、ストーリーだけを追っていたのでした。
あの、黒澤明監督という事で興味を持ったファンも、きっと居たと思うのですが、
これはアメリカ映画であり、日本映画の黒沢作品ではないのです。
黒澤明は、製作途中で監督を降りて(降ろされ)てしまいました。
アメリカ的な合理主義と黒澤流の完璧主義とに温度差があったのでしょうか?





以前から、山村総演じる山本五十六中将とその背景にある戦艦とに、
「あれ?何か変だな」とは思っていましたが、
改めて映像を観ると、やっぱり戦艦の大きさが半端ではない。
1970年といった時代にはCGも無かった筈なのに・・?
だったら、このリアルな戦艦はどうなってるの?

答えを知って私はビックリしました。
何と実物大の戦艦を全部、木で造ってしまったのです。
そんな事知らなかった~。





私が、実物大の戦艦大和を観に尾道に行ったのは2006年の事でした。
対岸には尾道の観光名所、千光寺があり、そこから一望出来たのです。
しかし、戦艦大和の全長263メートルの内、
右後ろには何もありません、主に左側2/3位が再現されそこで撮影されたのです。
そして鐘楼の上部構造物はありません、それは映画にする時にはCGだったのです。
でも、世界最大を肌で感じる事は充分に出来ました。



それに比べて戦艦長門は完全な復元だったみたいです。
船体の下には不要になった大量の電柱で支え、上は全部木とべニア板で造ったのです。
長門の横には、航空母艦赤城も造りました。
しかし、赤城は完全復元ではなく主要部分のみの再現でした。
飛行甲板と艦橋があれば、それで良かったのです。







福岡県の芦屋海岸には大勢の観光客が観光バスで訪れたそうです。
1969年頃と、37年後の2006年だと、
情報量の差で、観光客の数は比較にならない差だったと思われます。
その頃の私はそれほどの軍艦オタクではなかったし、
もし、それを知ったからといって、遠い九州まではきっと行かなかったと思います。





航空母艦、赤城は本来は戦艦になるべき艦でしたが、空母になった巨艦です。
映画では長門ほどの利用価値は無かったので、
航空機が発艦する姿を撮れれば良かったのでしょう、完全復元ではありませんでした。







赤城には27機の戦闘機を甲板に載せて撮影しましたが、
日本の戦闘機ではなく(そんな機体は残っていなかった)
アメリカのノースアメリカンT-6という機種だったそうで、
この機種は色々な形で映画にはよく使われたそうです。

戦闘機が空母に着艦する時は、かなりな低高度での着艦になる訳ですが、
その低高度が実際に出来ないと映画のシーンとしては不完全であり、
それが出来たのは、海軍出身パイロットと陸軍出身パイロットでは、
まるで勝負にならない確率で、海軍パイロットが優秀だったそうです。
やはり海上で狭い航空母艦の甲板に着艦できないと話にならない海軍パイロットは、
その点での練習量が陸軍とは違っていたのでしょうね。

戦艦長門は、終戦時まで生き残った戦艦4隻の中の1艦でしたが、
伊勢、日向、榛名の3艦は大破し着底した状態でしたが、
長門だけが中破で航行可能でした。
しかし、1946年(昭和21年)アメリカの核実験により、
ビキニ環礁で沈没し、日本国民の象徴は遂にその姿を消していきました。


しかし、私がまだまだ若かった時に、遠い福岡県で、
これほどの実物大戦艦が再現されていたとは、驚きでした。
軍艦好きの方は、きっと口を揃えて「見たかったな~」っとため息をつきますね。
これから先、これほどの軍艦の再現があるとは、
予算的な事もあり、また時代的な背景もあり、チョッと無いのでしょうね。
残念だったな~、本当に見たかったな~。



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後の祭り・第12回艦船模型合同展示会

2025-01-13 06:36:26 | 軍艦
商船模型同好会@艦船模型合同展示会 Oct.2024 展示紹介


昨年10月5日(土)~6日(日)に、
第12回艦船模型合同展示会というのが横須賀で開催されたという。
だいたい、そんな集まりがあるなんて全く知らなかったのです。
それも12回もやっていたなんて。
前回、2022年には大阪で開催されたという。
そして第13回は、島根県松江市で、海の日に開催されるそうだ。

昨年10月だったら、私は2日間とも空いていたし、
横須賀だったらすぐにでも行かれたものを・・本当に無念だ。





あれは2006年3月5日の事でした。
いつもは見ないスポーツ新聞をたまたま昼食に寄った食堂で見たのです。
そこには、映画「男たちの大和」のロケに使った実物大の戦艦大和を、
見物に行くツアーをやっていると知ったのです。
もう取るもの取らず、矢も楯もなく足も地に着かない状態で、
旅行会社に申し込んだのでした。

完全形とはいかないまでも、
要所要所はキッチリと再現された世界最大の戦艦を目の当たりに見た感動。
鳥肌は立つし、もうちびっちゃいそうでした。
多分、頭を後ろから小突かれても気がつかなかったと思います。
呆然自失とは、あぁいった事を指すのでしょう。

思えば、海上自衛隊の観艦式もそうでした。
それまで(あの頃はネットもやってなかったし)で知らなかったのを、
たまたま偶然に知る機会があって、
今ではプラチナ過ぎて、まるで手に入らなくなってしまった乗艦チケットを入手し、
3回も自衛艦(それはまさに軍艦なのです)に乗れたのです。

戦艦大和と同じで、あれほど感動した事などありませんでした。
しかし、今回は全く知らずにみずみず見逃してしまった。
来年になったら松江まで行くしかないのか・・
横須賀に比べて旅費は高いし、時間もかかるし。

これが例えば「深浦の歌声」の日と重なっていたら、
私はどっちを採るだろう?
深浦にみんなが行った日に、津波の被災地にこそ俺は絶対行きたいと、
皆さんとお別れして単独で別行動を採った私。
やっぱり艦船模型を採る様な気がします。
私には軍艦は子供の頃からの特別な思いがあるのです。
気がついた時には「軍艦大好き」な子供の自分がいたのです。
そんなものは今更直しようがないのですね。

それにしても、たまにこういったポカって発生するんですよね。
気がついた時は終わった後だった時の口惜しさ。
何とかどうにかして埋め合わせは出来ないものだろうか?

ありません。絶対に後戻りなど出来ないのです。
こういったのを「後の祭り」「後悔先に立たず」
「コンチクショー殺してやる~~」と言うのですね(涙)


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軍艦の迷彩色

2024-12-27 15:51:15 | 軍艦


迷彩色というと、普通はこういった軍人の迷彩服が思い浮かびます。
本当に周囲の風景の中に同化して、見えにくい。

軍艦にも迷彩服があるのです。
服というか、迷彩カラーです。
カラー(色)というか迷彩模様です。

軍艦は当たり前ですが、戦争をする武器です。
武器ですから敵から見えにくい色、模様にした方が絶対に有利です。









カメラの、例えば望遠レンズでピント合わせをした事のある人には分るでしょうが、
こんな模様をした(的)だったら、とってもピント合わせは上手くいきません。
最もピント合わせがしやすいのは、縦の直線です。
しかし、こんな迷彩色には、そんな真っすぐな直線など、どこにもありません。
いったい何処でピント合わせをしたらいいのか?
敵が悩めば悩むほど迷彩色は、その効果が最大に効いたという訳です。

しかし、こういったのは困るのです。
何が困るって・・美的ではないからです。
戦争と美的云々とは無関係です。
でも~・・やっぱり大好きな軍艦はあくまでも(美しく)あって欲しいと思うのです。



だから一番好きな「戦艦・シャルンホルスト」をプロの手で作った時は、
迷彩色は無しで・・という約束だったのに、
見て分かるかな~、少し迷彩色にしてしまうというミスをしてしまった。



「戦艦シュペー号の最後」という映画がありました。
シュペー号は、勿論沈没して失われてしまいましたが、
シュペー号と交戦したイギリスの巡洋艦たちは、そのままの現物が登場します。







その純白の(あるいは純白に近い)巡洋艦たちのなんと美しい事か。
溜息の出る美しさです。

戦争だからって、美しさなど放棄するのか、
イヤ、戦争だって美しくありたい、
同じ死ぬのだったら美しい軍艦の上で、死を迎えたいと思うのか?

日本の軍艦に迷彩色の軍艦は、見た事がありません。
イギリスみたいな純白とは違いますが、
日本の軍艦は、若干濃い目の灰色をしていました。



しかし、このたった1枚の写真だけしか見た事はないのですが、
終戦時、広島の呉軍港に燃料切れで動けなくなった、戦艦・榛名。
その1番主砲、2番主砲に迷彩色みたいな塗色が見てとれます。

あのね、やっぱりね、軍艦があくまで武器である事は認めます。
でもね、武器だからって美しくない事を選択するなよな。
それが何であろうが、人は美しいものが基本的に好きなんだよ。



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最多の同型艦を誇った駆逐艦

2024-09-15 07:58:25 | 軍艦


第二次大戦中、アメリカには最多の同型艦を誇った駆逐艦がありました。
フレッチャー級駆逐艦、その数は175隻という信じられない数でした。

1942年建造、排水量2110トン、全長115メートル、全幅12メートル。
速力38ノット(時速70キロ)航続距離15ノット(時速28キロ)で12000キロ。
12,7センチ(5インチ砲)5門、5連装魚雷発射管2基。
堂々たる性能を誇る、完成された駆逐艦でした。

第一次大戦中には、フラッシュ・デッカー型と言われる1918年製、
1090トンの小型駆逐艦があり、その同型艦は何と279隻でしたが、
全部が同型ではなく、大きくは3種類でした。
また時代と共に第二次大戦までに104隻が廃艦になり、
第二次大戦まで169隻が現役として残っていました。





それに対し、日本には特型駆逐艦と言われた、
吹雪型、陽炎型といわれた優秀な駆逐艦が生まれましたが、それでも38隻でした。



その全部が沈没する最前線で、たった1隻だけ生き延びた奇跡の駆逐艦が、雪風でした。
第二次大戦中に、世界中の軍艦が戦い散っていった中で、
これほどの奇跡がまさか起ころうとは、本当に信じられません。
数多の大海戦に出撃した中、殆ど死者も無く、深い損傷を受ける事無く生き延びたのです。

とは言っても、たった1艦が戦争の行方に係れる訳もなく、
フレッチャー級駆逐艦175隻の前には、なすすべありません。
大戦中に17隻が沈没しましたが、残った艦は、世界中の国に貸与されました。
日本の海上自衛隊にも2隻が貸与され、「ありあけ型」護衛艦となりました。



私が、海上自衛隊観艦式で初めて乗った護衛艦「あおくも」も、
殆どフレッチャー級駆逐艦と同じ大きさで、
私がその事にどれほど感激したことか。



余談ですが、私が最も好きな海戦映画に、1957年のアメリカ映画「眼下の敵」があります。
アメリカ駆逐艦と、ドイツ潜水艦との息詰まる戦いの映画です。
あの時のアメリカ駆逐艦はエヴァーツ型、1192トンの護衛駆逐艦です。



日本海軍、連合艦隊司令長官は、山本五十六大将でした。
山本はアメリカ留学経験もあり、アメリカという国をよく知っていました。
175隻という信じられない数の駆逐艦を造ってしまうアメリカ。
クリスマスには最前線で戦う息子にクリスマスケーキを送って来る母親が普通に居るアメリカ。
3人の息子が戦死した母親の為に、たった一人だけ残っている4男をアメリカに帰国させろと、
まるで砂漠の中から1本の針を見つけ出す様な、
ノルマンディーから、その息子を探せと命じる司令長官。



そういった国がアメリカである事を知っている山本五十六は、
戦争開始を命じられると「半年か、1年間は暴れてみせましょう」と、
ハワイ真珠湾への突撃を命令します。
山本五十六は、「絶対に勝てない、負ける」と百も承知で行かざるを得ない立場。
悲しかったでしょうね、やるせなかったでしょうね。



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