goo blog サービス終了のお知らせ 

河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

新しい横綱が誕生したとか・・

2025-02-01 18:26:48 | 相撲
先日、新しい横綱が誕生したと聞きました。
はて・・それって誰なんですか?
かつて相撲が大好きだった私。
しかし、今や・・もはや相撲には何の興味も無くなってしまいました。
本当の話、何という四股名の方なんですか?
でも、何となく又もやモンゴル力士とかの気がするんですが・・・

かつて、外人力士など居なかった時代には、
語るも美しく素晴らしい力士が溢れていました。



柏鵬全盛時代の美しい両力士。
力士って、こういった美しい体形が力士だった。
この2力士が相撲界に貢献した度合いは凄かったのです。



千代の山・・191センチ、122キロ。
まるで仁王様の再来みたいな忘れられない力士でしたね。



若浪・・178センチ、98キロの小兵ながら、
天を仰いでのつり出しを得意技にしていた風変わり、しかし記憶に残る力士。



朝汐太郎・・力士紹介で奄美大島と覚えさせられた力士。
初代、若乃花のライバルと言われましたが、対戦成績では勝てなかった。
188センチ、138キロの巨体ながら腹が出てなく、
胸毛自慢の、その勇壮な体形に魅せられました。



明歩谷、189センチ、113キロ。まさに長身痩躯の見本。
今もって彼を超える美形力士は出現しませんね。
その吊り出しは「起重機」と言われました。



比較的、最近ですが、舞の海。
168センチの小兵ながら旋風を巻き起こした、忘れられない力士です。





この力士を覚えているという方は殆ど居ないと思います。豊真将(ほうましょう)
最高位は小結でした。
下関出身でしたが進学した埼玉栄高校では1600名中10番以内と成績優秀でした。
趣味は読書と史跡巡り。
豊真将は土俵でも礼儀正しく、負けた時でも礼儀正しくその姿を見た人に、
「この人は並みの力士と違う」という印象を持った人はかなり居たと思います。
師匠の元寺尾関(錣山親方)は、豊真将関を「尊敬している」と言っていました。
親方が弟子を尊敬している・・そんなのは聞いた事がありません。
豊真将は力士として以前に、人間として素晴らしい人でした。



この人、チェコ出身力士、隆ノ山。
外人力士はあまり好きになれない私ですが、
この力士の気持ち(10年間は故郷には帰らない)と言って、
18歳で入門し、10年間は故郷にも帰らず母親にも逢わなかった。
まだ18歳の若者がそこまで思い込んだ心意気。
それは人間として素晴らしく、あまりにも立派でした。
身体が大きくならずに31歳で引退し、チェコに日本人の妻子と共に帰国しました。



そういった過去の色々な思い出を一瞬にして蹴散らしたのが、
このモンゴル力士です。
相撲という日本伝統の世界に、喧嘩を持ち込み、
勝ちさえすれば何でもありのプロレス世界に変えてしまったバカタレ。
相撲協会は、客を呼べればいいんだろ、稼げればいいんだろ「お前らは黙っとれ」
とモンゴル力士の前に何も言えなくなってしまいました。
彼、以後相撲界はモンゴルに席捲され、私は観る気を失ってしまいました。

格闘技でありながらお互いをかばい合う男の美しさを感じた時代。
本当に素晴らしく忘れられない世界だった。
それが全部とまでは言わないが、下品な世界になってしまった。
細身力士(ソップ型)が消滅し、
ただのデブが技も無くの押しくら饅頭相撲。
こんな世界に誰がした!
もう観る気は失せた、勝手にやっとれッ!

(追伸)
先日、このブログの閲覧回数が、250万回になりました。
本当にありがとうございます。
10年と、30日くらいかかったみたいです。
一日平均680回くらいなのかな・・
最近は以前に比べて書く回数が少なくなっています。
それほど楽しい、また見たいといったブログでない事は百も承知ですが、
思う事がある限り、書き続けるのも私の生き様かと・・・
今後ともよろしくお願い致します。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲劇の横綱、玉の海

2022-02-20 18:13:00 | 相撲




横綱、北の富士と玉の海は、良きライバルでした。
写真、左側の玉の海は177センチ、135キロ。
右の北の富士はそれより大きくて185センチ、135キロでした。

玉の海は1942年(昭和17年)生まれで、
ライバルの北の富士はそれより2歳年下の1944年(昭和19年)生まれでした。

しかし2つ違いでしかない彼等は最高峰の横綱を目指して、
しのぎを削るライバルでした。
目標が同じ彼等は、気が合ったみたいで親友となりました。
お互いに「北さん」「島ちゃん」と呼び合う仲になったのです。



1970年に「玉の海」が27歳で第51代横綱になりました。
同じ日に「北の富士」は25歳で第52代横綱に・・彼等は同時昇進を果たしたのです。





それからの玉の海の進撃は物凄かった。
横綱在位中の勝率は、あの双葉山に次ぐ勝率であり、
それは最近の白鳳に塗りかえられるまで続いていました。

しかし、それが彼の「我が世の春」だったのでした。
1971年7月、急性虫垂炎(盲腸)を発症。
しかし丁度、大横綱の大鵬が引退する間際だったが為に、
9月場所には、盲腸を薬で散らして強硬出場したのでした。

というのは、玉の海は、歴代横綱の中で唯一、初土俵以来、休場なしの皆勤であり、
それにこだわったのでしょうか出場したのです。
結果的にそれが彼の命を奪う悲劇になったのでした。

1971年10月2日、
横綱・大鵬引退相撲で、玉の海は太刀持ちとして土俵に上がりました。
それが終わった直後、直ちに入院して虫垂炎の緊急手術を受けましたが、
腹膜炎寸前の危険な状態でした。
10月12日は退院予定だったのですが、
その前日の11日早朝に突然、胸が苦しいと言って倒れたのです。
緊急手当ての甲斐も無く、そのまま玉の海は急死してしまいました。

その時、地方巡業で岐阜県に居た北の富士は、
「玉の海が亡くなった」と聞いて、
それは解説者であった(玉ノ海梅吉さん)が亡くなったのだと一瞬思ったそうです。
それが、現役横綱の玉の海さんだと言わても全く信ぜずに「ふざけるな」と激怒したそうです。
しかし、玉の海本人だと知り「むごい、島ちゃんがあまりにも可哀想だ」と、
人目をはばからず号泣したそうです。
その時の事を北の富士は「人が死んであれだけ泣いのは初めてだった」と述べています。

私も、あれは覚えていますが、
本当に人の何倍も元気だった人が、いきなり逝ってしまうというのは、
本当に残酷だし、本当に切なくなる気持ちは理解できます。
良きライバルであり、良き親友であった友達が、
ある日いきなり逝ってしまった男の心は、例えようもなく悲しかったのです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大好きだった力士、朝潮太郎

2020-12-31 10:28:59 | 相撲


子供の頃、最初に好きになった力士は朝潮太郎でした。
これは3代目の朝潮太郎です。



4代目の朝汐太郎もいましたが、
彼は大関までで横綱にはなれませんでした。
そして、私はこういった(ぶちゃむくれ体形)は好きになれません。





3代目、朝潮太郎は他の力士に比べて全然違っていました。
189センチの(当時は)長身。
それでいて145キロ(当時は凄い大型)の体重ながら、
腹が出っ張っていなく、肩幅が広く、物凄い体形をしていたのです。
若乃花が107キロで腹がかなり出ていたのに比べ、
145キロの朝潮は腹がそれほど出ていません。

私の叔父さんも、私と同じで朝潮贔屓でしたが、
その叔父さんいわく「あの体を見てごらん」と、
朝潮が今までの力士とは全然違う体形に惚れ込んでいたのです。

1929年(昭和4年)~1988年(昭和58年)享年58歳。
第46代横綱。
鹿児島県、徳之島出身(当時は奄美大島出身)とラジオで言ってたのを覚えています。

濃い胸毛と太い眉毛で人気を博し、
当時は、一に朝潮。二に長嶋(茂雄)三に三島由紀夫と、
胸毛の濃い著名人を謳うフレーズが聞かれました。

横綱昇進後は脊椎分離症などに悩まされ、強弱の差が激しく、
強い朝潮と弱い朝潮の2人が居ると言われました。
ライバルはひとつ前の45代横綱、若乃花でした。
その素質は戦後最高とまで言われましたが連勝も全勝も無く、
一時代を築く事はできませんでした。



若乃花は、その前の44代横綱、栃錦と栃若時代を作り上げた大横綱です。
身長179センチ。体重107キロ。
私の姉は大の若乃花ファン(彼は女性ファンが多かった)
それに比べると朝潮には男性ファンが多かった気がします。
朝潮が若乃花に負けたりすると姉は大喜び、私は涙を流して悔しがったものでした。(可愛いね~)

彼等の通算成績を見ると、
幕内通算勝率・・朝潮 63,5%。若乃花 69,9%。
横綱通算勝率・・朝潮 63,8%。若乃花 77,7%。
ですが、彼等の対戦成績は、朝潮から見て、16勝17敗なので、殆ど互角でした。
ただ優勝回数は朝潮5回。若乃花は10回でした。

最終的には若乃花の方が強かったと言えるのですが、
それにしても、朝潮みたいな堂々たる立派な体形の力士は、その後いませんね。
今もって強烈な思い出の残る力士です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チェコ出身力士・隆の山

2020-02-07 12:46:55 | 相撲
隆の山 テレ朝


隆の山と言って、分かる人、覚えている人は、
まず居ないと思います。





彼はヨーロッパの小国(人口1500万人)、
チェコ共和国から18歳の時に日本にやって来ました。

隆の山・・

1983年2月生まれ。
本名・・パヴェル・ボヤル。
身長186センチ・体重98キロ。
最高位・前頭12枚目。

両親は3歳の時に離婚。貧しい母子家庭で7歳の時に柔道を始めます。
17歳の時に、日本の両国国技館で行われた、
世界ジュニア相撲選手権大会に於いて、軽量級3位に入賞。
この時の活躍でチェコの協会から「プロを目指してみないか?」
と声がかかり、悩んだ末に鳴門部屋(元横綱・隆の里)に18歳で入門。

しかし、入門から3年経っても、
入門時の体重88キロから、たった3キロしか体重が増えず、
2009年まで体重が100キロを超える事がなかったのです。



2011年5月、十両に昇進。
晴れて関取の仲間入りを果たしました。
この年に4歳年上の日本人女性と結婚します。
いわゆる出来ちゃった婚みたいで、
すぐに女の子が生まれています。

2012年は幕内4場所・十両2場所。
2013年は幕内1場所・十両5場所。
2014年、十両2場所・幕下2場所。

7月の幕下戦で左腕を負傷し、
関取復帰の見込みが無くなった事で、引退を発表しました。
まだ31歳でした。



通算成績は、325勝・318敗。(勝率50、5%)
幕内、26勝・49敗。(勝率34、6%)でした。

しかし、私が彼を「立派だった」と思うのは、
何も分からない日本という遠い国へ来て、
10年間は故国チェコには帰らないと決心していた事です。

そして、その通り彼は10年間故国の土を踏む事はありませんでした。

18歳の、まだ少年だった男が、
そこまで思い詰め、逢いたい母親に逢う事もせず、
ひたすら増えない体重と戦いながら遠い異国で頑張った姿に感動するのです。

私は現在の外人全盛の大相撲は、もう観る気がしませんが、
こうやって外人の中にも、「人間として立派だった」と思える男が、
居たんだという事は、実に嬉しいですね。

日本国籍を取ることはしなかったので、
引退後は相撲協会から外れ、チェコに帰りました。
現在、彼は何をしているのでしょうね・・?
でもきっと、日本語が堪能という事で、
何かそれに係る仕事にでも就いていたらいいですね。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若貴ブーム

2018-09-26 13:35:52 | 相撲
1990年代に入ってすぐくらいに若貴ブームというのがありました。



父親である、プリンスと言われた貴ノ花を挟んで、
左が兄の若花田(後の若乃花)と貴乃花。
全くこの親子の四股名は、初代・若乃花が居たりで分りにくい。

今、相撲界に引退騒動を引き起こしている貴乃花と、
その兄である若乃花兄弟が幕の内上位を目指していた頃でした。



この角界のエリート兄弟が、日の出の勢いの時のブームは凄かった。
私は、まだ長女が幼かった時でしたが、
日本に来日してから、まだ5~6年といった、
中国人の元妻も彼等の大ファンとなっていました。

娘を連れてスーパーなどに行っても、
彼等兄弟の取り組み時間になると、
スーパー備え付けの大型テレビ前は黒山の人だかり。
私達も夢中になって声援を送ったものです。
彼等が勝とうものなら、皆は狂喜乱舞の大喝采。
あの光景は今思い出しても鳥肌ものでした。

特に弟の貴乃花は、
1992年1月、19歳5か月で初優勝。



その年の11月に、当時大人気の女優・宮沢りえと婚約発表。
まだ20歳の貴乃花と19歳の若き大スター同士の婚約は、
衝撃的であり、世間をアッと驚かせました。
この時、彼等の未来に暗雲が訪れようとは、誰しも思わなかったでしょう。

この二人の満面の笑顔は、
彼等の輝かしい未来を、相撲界に新しい光となるであろうと・・
みんながそう感じていた筈でした。・・が、

翌1993年1月、彼等の交際は、たった2ヶ月で婚約解消。
そんな事態になろうなんて、考えもしなかった事でした。



しかし、貴乃花はそんな障害をものとせずに、婚約解消の同月に、
20歳5か月で大関昇進を果たします。

1993年7月、兄の若乃花が大関に昇進。



翌、1994年11月。
貴乃花は22歳4か月で遂に角界最高峰の横綱に昇進。
兄の若乃花が横綱になったのは、
それから3年半の後の1998年5月、兄の若乃花も横綱に昇進し、
大相撲史上初となる兄弟での横綱という、
相撲ファンは、あまりの素晴らしさに感涙にむせんだ人もきっと、
沢山いた事でしょう。
他ならぬ私もそうでした。

しかし、若貴ブームもここまでが限界でした。

弟の貴乃花が、整体師による洗脳騒ぎとかの問題が起こり始め、
兄や、父親、母親と不仲になっていったのです。
父親である貴ノ花は、それから7年後に55歳の若さで亡くなりますが、
それまで、家庭内のいざこざは絶えずに、
力士時代が華やかだっただけに、悩みは絶えなかったのでは・・?

その後、この家族のいざこざは世間の話題になる事が多く、
私は、どっちかと言うと、
あまり聞きたくない、知りたくない、そう思っていました。

それで、昨今また、問題児・貴乃花が再びの大騒動。
相撲界から撤退する、引退する騒ぎ。
結局、この人の人間性に最大の問題点がある様な気もしますね。

これから先、一体どうなるのでしょう?

しかし、あの若貴ブーム・・
あの時は日本中が一丸となっての大フィーバーでしたから、
現在の姿を見ると、あまりの落差にガッカリします。

あの時が、大相撲界最大の(良き頃)だったな~。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする