河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

柳沢慎吾

2018-09-28 16:31:28 | 日記
【柳沢慎吾】日本一長い(!?)始球式


柳沢慎吾は、1962年(昭和37年)生まれの56歳。
私は、この男が好きです。
何故、好きかというと、彼の人間性の良さを感じるからです。

と言って彼の番組を特別に観たりとかはないんです。
でも、何か気になり応援したくなります。

先日、彼がデビュー以来、仕事が途絶えた事が無いという記事がありました。
嬉しいですね。
仕事が途絶えないという事が、どれだけ凄い事か・・

柳沢慎吾。

1978年(16歳)
ぎんざNOW・素人コメディアン道場で、
第19代チャンピオンになり、芸能界デビューをします。

1992年に、一般女性と結婚。
美人という訳でなく、ごく普通の女性だった記憶があります。
サッカーの一流選手たちが、判で押した様に美形妻なのに反し、
普通な女性だったという事が、逆に好感を持ちました。
如何にも人間性の良さがそこにありました。

小田原市出身の大の高校野球ファンという事で、
神奈川贔屓・横浜高校を熱烈に応援しているみたいです。


芸能界で長く生き残る人。
それは、どういう人なんでしょう?
それは、ひとえに人間性の良い人です。
これは絶対的にそうなんです。

スターと言われる人が居ます。
スターというのは、人気があるという人です。

人気がある内は誰もその人に逆らう事は出来ません。
芸能界というのは(人気)こそが全てという一面があるのですから。
だから、人気のあるスターは、(王様)です。

王様が白だと言ったら、みんなが白と言わなければなりません。
だって、取り巻きの収入はスターあってこそなんですから。

でも、一旦その人気に陰りが出てくると、
もうスタッフ達は、そのスターを相手にしなくなります。
だって、同じ仕事をするなら人間性の良い人と仕事をした方が、
気持ちがいいからです。
人気があった時は「こんな奴イヤだな~」と思っても、
一緒に仕事をせざるを得ません。

しかし、一旦人気が落ち目になろうものなら、
「ザマー見ろ」で、誰からも相手にされなくなってしまうんですね。

どんな仕事であろうが、
最終的に残るのは(人間性)だけです。

高齢者になっても、テレビに時々は出演している人。
それは、みな人間性の良い人です。

人間性の悪いスターは、いつの間にか芸能界から居なくなっています。
思い出そうとしても記憶にも残っていないスター。
運という一面も勿論ありますが、
大体は人間性に何処か問題があったんじゃないかな。

そういった意味で、
柳沢慎吾は、人間として応援したくなる人ですね。





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若貴ブーム

2018-09-26 13:35:52 | 相撲
1990年代に入ってすぐくらいに若貴ブームというのがありました。



父親である、プリンスと言われた貴ノ花を挟んで、
左が兄の若花田(後の若乃花)と貴乃花。
全くこの親子の四股名は、初代・若乃花が居たりで分りにくい。

今、相撲界に引退騒動を引き起こしている貴乃花と、
その兄である若乃花兄弟が幕の内上位を目指していた頃でした。



この角界のエリート兄弟が、日の出の勢いの時のブームは凄かった。
私は、まだ長女が幼かった時でしたが、
日本に来日してから、まだ5~6年といった、
中国人の元妻も彼等の大ファンとなっていました。

娘を連れてスーパーなどに行っても、
彼等兄弟の取り組み時間になると、
スーパー備え付けの大型テレビ前は黒山の人だかり。
私達も夢中になって声援を送ったものです。
彼等が勝とうものなら、皆は狂喜乱舞の大喝采。
あの光景は今思い出しても鳥肌ものでした。

特に弟の貴乃花は、
1992年1月、19歳5か月で初優勝。



その年の11月に、当時大人気の女優・宮沢りえと婚約発表。
まだ20歳の貴乃花と19歳の若き大スター同士の婚約は、
衝撃的であり、世間をアッと驚かせました。
この時、彼等の未来に暗雲が訪れようとは、誰しも思わなかったでしょう。

この二人の満面の笑顔は、
彼等の輝かしい未来を、相撲界に新しい光となるであろうと・・
みんながそう感じていた筈でした。・・が、

翌1993年1月、彼等の交際は、たった2ヶ月で婚約解消。
そんな事態になろうなんて、考えもしなかった事でした。



しかし、貴乃花はそんな障害をものとせずに、婚約解消の同月に、
20歳5か月で大関昇進を果たします。

1993年7月、兄の若乃花が大関に昇進。



翌、1994年11月。
貴乃花は22歳4か月で遂に角界最高峰の横綱に昇進。
兄の若乃花が横綱になったのは、
それから3年半の後の1998年5月、兄の若乃花も横綱に昇進し、
大相撲史上初となる兄弟での横綱という、
相撲ファンは、あまりの素晴らしさに感涙にむせんだ人もきっと、
沢山いた事でしょう。
他ならぬ私もそうでした。

しかし、若貴ブームもここまでが限界でした。

弟の貴乃花が、整体師による洗脳騒ぎとかの問題が起こり始め、
兄や、父親、母親と不仲になっていったのです。
父親である貴ノ花は、それから7年後に55歳の若さで亡くなりますが、
それまで、家庭内のいざこざは絶えずに、
力士時代が華やかだっただけに、悩みは絶えなかったのでは・・?

その後、この家族のいざこざは世間の話題になる事が多く、
私は、どっちかと言うと、
あまり聞きたくない、知りたくない、そう思っていました。

それで、昨今また、問題児・貴乃花が再びの大騒動。
相撲界から撤退する、引退する騒ぎ。
結局、この人の人間性に最大の問題点がある様な気もしますね。

これから先、一体どうなるのでしょう?

しかし、あの若貴ブーム・・
あの時は日本中が一丸となっての大フィーバーでしたから、
現在の姿を見ると、あまりの落差にガッカリします。

あの時が、大相撲界最大の(良き頃)だったな~。







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オートキャンプ牧場チロルへ

2018-09-19 06:37:19 | キャンプ


山梨県・北杜市のオートキャンプ牧場チロルへ行って来ました。
本来なら15(土)~17(月蔡)までの予定でしたが、
15日の天気予報が終日雨天というので、
一日延ばして、16(日)~18(火)までで行きました。

ここは先着順のキャンプ場ですので、
私達は早朝に家を出て、キャンプ場に8時に着きました。
行ってみてビックリ。
昨日、雨天でキャンプをしている人は、ほぼ居ないと踏んでいたのですが、
かなりのキャンパーがテントを張っていたのです。







予報通り、段々と天気は良くなってきました。
コスモスが綺麗でしたね。





今回は盛大に煙を立てて秋刀魚を焼こうが、ひとつのテーマでしたので、
七輪を持って行き、誰はばかる事もなく、秋刀魚を焼きました。
美味かったですね~。



その夜は、秋刀魚と刺身でやりました。





翌日早朝、南アルプスの名峰・甲斐駒ケ岳は朝焼けに染まっていました。
私は、まだ誰も起きて来ない早朝(5時前)のキャンプ場が大好き。
独りで焚火をして、朝ビールを飲んだり、
コーヒーを飲んだりして、皆が起きてくるまでの時間は、とってもいいんですね。











キャンプ場の良さは、2日目。
朝から夜まで、な~んもしない!

何かをしなきゃ!
ダメッ!
な~んもしちゃダメッ!
それが、キャンプ最大の(良さ)なんです。
だから、一泊二日なんて邪道なんですよ。
(と言って、サラリーマンは、そうせざるを得ない)
私達みたいなロートルキャンパーは、キャンプの王道を行ってるんですね。



八ヶ岳を挟んで、太目のオジサンとオバサンの記念写真。





この夜は、キャンパー全員が帰ってしまい、
私達2人だけのキャンプ場、独り占め。

2人でバーベキューをしながら酒を飲み、
焚火の炎を見つめながら、人生とは何かを語らったのです(嘘ですが)
ラジカセから流れるのは(歌声喫茶)の、あの歌この歌。





さて、最終日・帰宅の日。
2人だけの朝食(いつもの、雑炊)
この雄大な景色は、私達2人だけのもの。
キャンプって本当にいいな~。

正午には帰宅し、
夕方には国立・天笑楽の歌声喫茶に行きました。

やっぱりキャンプはやめられない。






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天城山心中・天国に結ぶ恋

2018-09-15 09:44:11 | 日記
1957年(昭和32年)12月10日。
伊豆・天城山で男女二人の心中遺体が捜索隊により発見されました。
いわゆる天城山心中事件です。



男性は、学習院大学生の大久保武道(20歳)




女性は、愛新覚羅慧生(あいしんかくら・えいせい)19歳。
彼女は学習院で大久保の同級生でした。





この心中事件は当時の世間を震撼させた大事件となりました。
まだ子供だった私も、
愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)という不思議な名前をハッキリと覚えています。

彼女は、愛新覚羅溥儀(ふぎ)
つまり清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)の姪。
皇帝・溥儀の弟・溥傑(ふけつ)の長女なのです。

皇帝・溥儀は清朝滅亡後・
日本軍の傀儡国家・満州国の初代皇帝になります。
日本軍が滅んで満州国も滅亡後は、一般人となりました。



その弟が、愛新覚羅溥傑で、
彼は日本人である、嵯峨侯爵家の娘・浩(ひろ)と、政略結婚します。
浩の長女として生まれたのが、慧生でした。

一方、大久保武道は、青森県・八戸市出身で、
父の弥三郎は八戸市議・南部鉄道常務、
八戸の漁具問屋を経営する裕福な家庭に育ちます。

大久保は合気道が強く、バンカラを地で行くような学生でした。
質実剛健・猪突猛進・愚直な性格で、
都会的で洗練された学習院の中では異質な存在でした。

二人は1956年4月に、
学習院大学・文学部・国文科に入学して知り合います。

慧生は美しく社交的で快活、いつも学生の中心に居る存在であり、
クラスの中で東北弁なまりで一人ぽつねんとしていた大久保に声をかけ、
気を配るといった関係から、二人の交際は始まってゆきました。
大久保は自分に優しくしてくれる慧生に感激し、女神の様に崇めますが、
慧生に心を寄せる男子も多く、大久保は特別な存在ではありませんでした。

6月・・大久保は初めて慧生を自宅まで送りますが、
他の学習院生とあまりに違う大久保の風体に、
慧生の家族の反応には厳しいものがありました。

大久保は「命がけ」という言葉をよく使い、
慧生に思いを寄せる他の男子学生との間に、決闘騒ぎも起こしています。

11月、慧生が体調を崩して大学を休むと、自宅に大久保が訪れ、
家族から面会を断わられても全く動こうとせず、家族から疑惑を抱かれます。

翌、1957年2月。
二人は長時間話し合って婚約を決めます。
しかし、その後、冷静さを取り戻した慧生は友人達の猛反対に会い、
何度も大久保に「婚約解消」を持ち出しますが、
その度に大久保が自暴自棄になって解消は立ち消えになるという事を繰り返します。

11月には、慧生は大久保に
「貴方が好き」といった内容の手紙を何通も書いています。

12月2日。
慧生は少なくとも3人の親しい友人にSOSのサインを送っています。
バッグから拳銃を取り出し、
「大久保がこれで自殺すると言っている」と話しています。
友人達はみな、大久保の自殺願望を知っていたのです。
この拳銃は大久保の父親が軍隊時代に持っていた物でした。

12月4日。
慧生は大学へ向かったのを最後に消息を絶ちます。
夜7時頃、自宅に戻らない事から、家族は関係各所に電話をかけ始めます。

その頃、伊豆の湯ヶ島の派出所に、
伊豆の山中で若い男女を降ろしたというタクシー運転手から、
「心中でもする気ではないか」という届けが入ります。

12月5日。
慧生から友人宅に最後の手紙が届き、
思い詰めた大久保に同行するが強制された訳ではないと書かれていました。
また、大久保と同室の寮生から、
2日前に身辺整理をしていたり、伊豆の地図を見ていたという証言が入ります。

12月6日。
寮生たちが伊豆方面に捜索に出ます。

12月7日。
慧生の友人達や、地元の消防団・警察が捜索に加わります。
タクシー運転手の証言では、「天城山まで行ってくれ」と言われ、
女性は「帰りましょう、ねえ、帰りましょう」
「今ならまだ間に合うから帰りましょう」と言い続けていて、
帰りのバスの時間を運転手に訊ねていたそうです。
午後5時に下車。
日暮れも近いので「お待ちしましょうか?」と言うと、
「帰っていい」と言ったそうです。

慧生は登山道に沿って、学習院のサークルチラシをちぎって行き、
目印を残していました。



12月10日。
天城山頂トンネルから八丁池へ登るコースの雑木林の中で、二人の遺体が発見されました。
拳銃で頭を打ち抜いていました。

慧生の母、浩や嵯峨家では二人の交際を認めてはおらず、
事件は無理心中であるとしていますが、
大久保家では、二人は合意の上での情死という認識で、
大久保家の墓には慧生の名前が刻まれているそうです。

慧生の一周忌を記念し、
1959年には、母親の浩が自分の半生記「流転の王妃」を出版し、
その中で慧生に死ぬ気はなく、心中ではないと主張しています。

また伯父の溥儀は自伝「我が半生」で慧生の死について、
恋愛の為に自殺したとしており、
無理心中を主張する嵯峨家に対し、
愛新覚羅家では同意の上の心中と認識されています。

慧生の親友は、
彼女はいつも大久保の母親の役割をしていた。
彼の自殺を思いとどまらせ様と一生懸命だった。
彼女は人を拒まない優しい性格で、その優しさが命とりになったんだと思っています。
彼女は本当は死にたくなかったんだと思います、と語っています。



「天城山心中・天国に結ぶ恋」は映画化され、ヒットしました。



愛新覚羅慧生を演じたのは、三ツ矢歌子でした。


彼女の親友が言った言葉。
「彼女は本当は死にたくなかった。
彼の自殺を思いとどまらせ様と一生懸命だった」
それが、本当のところだったと思います。
死ぬ気の人間が帰りのバスの時間は訊きませんよね。

私の歌仲間の女性で、
慧生と同じ様に、いつも他人の事を思いやり、
断れない性格の人が居ます。

愛新覚羅慧生の悲劇的な死を思うたびに、
歌声仲間の彼女の事を感じてしまいます。







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浜松・聖星高校オータムコンサート

2018-09-12 13:01:47 | 音楽
18.9.9.浜松聖星高校吹奏楽部・オータムコンサート・エンディング


先日行った、浜松聖星高校オータムコンサート。
帰りの駅には吹奏楽を多分やっているのだろう、
中学生や高校生たちでプラットホームはあふれ返っていました。
私達のそばに女子中学生3人が立ち話をしていました。

私は、「君達は吹奏楽をやっているの?」と訊ねました。
「はい、そうです」
私・・「みんな聖星高校に入りたいの?」
「はい、入りたいです」
私・・「この学校の吹奏楽部は有名なんでしょ」
「はい、静岡県ではとても有名です」

そうなんだろうな~。
私だって、もし中学生だったら、絶対に聖星高校に入りたい。
吹奏楽をやるのだったら、他の高校など考えられない。


私の高校時代は、吹奏楽をやっていると言っても、
聖星高校とは、あまりにも違い過ぎて話にもなりません。
私の学校の吹奏楽部員は30名足らず。
おまけに、顧問の先生が名前を連ねているだけで、
指導者など居ない、生徒だけのお粗末さ。
聖星高校は90人近くの大所帯。
そして、何よりもあの土屋先生の指導。
あまりのレベルの違いに呆然とします。

そして、中学生の時から鍛え上げられた優秀な生徒が入部してくるのです。
スタートから次元の違いは歴然です。

私の学校にはスーザフォーン(チューバと同じ音)が、私ひとりだけ。
聖星高校はチューバが5本。
トロンボーンはたった2本、聖星高校は7、8本。
私の学校、ピッコロなど無し。
だからピッコロの名手が居ないと演奏できない、
「星条旗よ永遠なれ」はやりたくても出来なかったのです。
もう、あまりの差に泣きたくなります。

そんな学校でしたが、
私は吹奏楽の虜になったのです。
何と可愛らしい生徒だったのでしょう。
ですから、静岡の吹奏楽をやる中学生達が聖星高校を目指す気持ちは、
分かり過ぎるくらい分かるのです。

浜松海の星高校 吹奏楽部 「木陰の散歩道」


私が、浜松聖星高校を知ったのは、
この「木陰の散歩道」を検索した事からでした。
そして、その素晴らしさに感動したのでした。


浜北文化センターに行くと、既に大勢の人達が並んでいました。
私達も最後尾に並んだのですが、
キップは全部売り切れとかが心配になり、
スタッフの方に「土屋先生から、お出で下さい」と言われているのですが・・
と言うと「チョッとお待ちください」と言われ、
しばらくすると「こちらへどうぞ」と案内されました。
少し行った所に、あの土屋先生が忙しそうに挨拶などされているのが見えました。

私は「赤川です」と名乗り、握手をしました。
浜松駅で買ってきた花束をお渡しし、
本当はもっと話しをしたかったのですが、
こういった日は先生は大忙しなんだろうと、そそくさと会場入り。

場内に入ると、何と入場料は払わなくてもいいみたい。
つまり、招待客という事でただだったのです。
席も、ちゃんと招待席と書かれた席が設けてありました。

そして、いざ開演。

土屋先生が登場し、しばしの挨拶。
そして、感動のドラマの幕が上がりました。

吹奏楽特有の大音量。
吹奏楽器の奏でる、美しくも激しい音の世界。
それを聴いた時、
私は「やっぱり俺は吹奏楽の人間だ、楽器の人間だ」そう思いました。
今では歌声喫茶という声の世界を楽しんではいますが、
やはり私は(声)ではなく(楽器)が好きなんです。

その楽器で(いい音)を追求し、
いい音だけの世界に浸る喜びは、何ものにも代え難い世界です。

そして、何より彼等、高校生たちが、いい顔をしているのです。
楽しそうに嬉しそうに、いい顔で演奏しているのです。
それを見る感動、凄いですね~。

この学校で、土屋先生という良き指導者から、
音楽を教わるという事は、
あまりにもお粗末だった私の時代から見ると、
羨まし過ぎます。
羨ましくて羨ましくて仕方がありません。


聖星高校・吹奏楽部での3年間は、
生徒たちにとって「輝いていた人生」そのものです。

私の約70年の人生で、輝いていた瞬間は3回。
最初は30代半ば、山の世界でした。
次は、妻子と共に行った一か月間の中国旅行。
そして、60歳になってから、はまった歌声喫茶の世界。
高校生の時の吹奏楽部は、残念ながら輝いたとは言えませんでした。

だから、聖星高校吹奏楽部の生徒たちは、
まだ10代の内に、人生で自分が「輝いていた瞬間」を経験するのです。
それは、とっても幸せな事なんですね。
人生の後半になればなるほど、それが分かる様になります。

ただ、長いだけの人生を送ってきて、
ただの一度も輝いた瞬間を経験する事の無い人生なんて淋しいですね。

あの日の感動は、まだまだ余韻となって残っています。
若い人達が情熱をほとばしらせる姿って、本当に感動しますね。





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