河童の歌声

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妻の誕生祝いに伊豆へ小旅行

2017-08-31 18:31:45 | 旅行
妻の誕生日(8月29日)のプレゼントは何がいいか?
と訊いたところ「美味しい刺身が食べたい」という事で、
ネット検索で、伊豆の民宿へ小旅行となりました。



そこが沼津の民宿「美晴荘」
私達は3階の一番手前の角部屋に泊りました。

初日は三島のスカイウォークに行きたかったのですが、
天気が悪く、行っても富士山は見えないのがはっきりしているので、
それは取りやめて、箱根の「星の王子様ミュージアム」に行きました。











「星の王子様」は、フランスの作家、
アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリが書いた童話で、
全世界で1億5千万冊を超える、大ベストセラーになりました。

サン・テグジュペリは1900年生まれ。
幼い頃から空に憧れ、パイロットの道に進みました。
1931年に「夜間飛行」を発表。
1939年「人間の土地」はベストセラーになり、
テグジュペリは作家としての地位を確立します。





1943年(昭和18年)「星の王子様」出版。
戦時下のフランスから偵察飛行に出て、そのまま消息を絶ちます。
長い間、その最期は謎に包まれていましたが、
2004年になってフランス・マルセイユ沖で飛行機が発見され、
2008年に元ドイツ軍パイロットが彼を撃墜したのは自分であると公言しました。
彼は、テグジュペリのファンだったので、
彼の機を撃墜した後は二度と飛行機に乗らなかったそうです。





その後は、箱根の大涌谷に行きました。
大涌谷は2015年5月に火山活動が活発化し立ち入りが規制され、
ロープウェーも運行中止となりましたが、
2016年7月から規制が解除になりロープウェーも運行再開となりました。

私はここに来た事があったかどうか、甚だ記憶が定かではなく、
全く初めて行った気がしました。
妻の話によると、以前に比べ観光区域が凄く狭まっているそうです。

さて、その後は芦ノ湖の観光船・というか海賊船に乗りました。





ここでも中国人観光客は多かったですね。
彼らはひたすら記念写真ばかりを撮りまくっていました。
白いチーパオ(チャイナ服)は珍しいですね。



次に、三島駅のすぐそばにある、
楽寿園という公園に行きました。
そこには楽寿館という由緒ある建物が池の向こうに見えるのです。

ところが、一体どうした事なんでしょうか?
池には一滴の水も無かったのです。
園内に居た係員によると、
もう50年も前に三島市は東レを企業誘致したのですが、
それ以後、水はどんどん減り続け、枯渇してしまったそうです。
でも、三島市は自らの首を締める事には一切触れず、死んだフリをしているみたいです。
かつての池の底には草が生えていました。



これが悲惨な事態となってしまっている現在の状況です。



美晴荘からの富士山です。



夕食はお目当ての刺身三昧。
この後も、続々と魚料理が出てきて、もう食べられない状態。



これは翌朝の料理。
ま、この辺りは何処でも同じな感じ。

天気予報よりずっと好天に気を良くして、
思い切って三島・スカイウォークに行ってみました。



しかし、一時間前には見えていた富士山は雲に隠れてしまいました。



妻の左に富士山の根元は見えるのですが、頂上は見えません。
去年の10月にも、ここに来たのですが、
その時は雲で何も見えなかったのでとリベンジしたのですが、
それは無残にも叶いませんでした。



最後の観光は沼津の柿田川湧水地でした。
富士山からの湧き水がこんこんと湧き出ている場所で、
写真・左側からは大量の湧き水が溢れていました。

今回の小旅行は、妻の誕生祝いなのですが、
手近の旅行であっても、充分に楽しめるものなんですね。
車の運転をするのは私だけというのが「コンチクショー」
だってね、アナタ、宿に着くまで一滴の酒も飲めないんですよ。
そんな理不尽な事ってありますか。
バッカヤローな旅行でした。





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アメ車・黄金期

2017-08-30 03:06:07 | 自動車

アメ車。

いわゆるアメリカの車を指して「アメ車」と言います。
他の国の車は、こういった呼び方は存在しません。
他の国の車に無い呼び方が、何故アメリカ製の車だけにあるのでしょうか?



それは、アメリカの車だけの特徴があったからです。
つまり、そのデカさ。派手さ。



それは1960年代に最も顕著でした。
1950年代は、大きかった事は大きかったのですが、
まだその姿は丸っこく、ド派手な姿はしていませんでした。
それが1960年代くらいになると、
アメリカ車は、自らの姿を著しく変化させていったのです。



車体後部のテールフィンにそれが最も現れています。
無駄に跳ね上がったテールフィンこそは、
まさに「アメ車」の最たる物でした。

日本の普通車の基準が、全長4,7メートル。幅1,7メートル。
という法的制限の中でほぼ成り立っているのに反し、
全長は6メートル、幅は2メートルという、
日本感覚からすれば、途方もない大きさでした。

日本の普通車のエンジンが2000ccまでなのに対し、
アメ車は7000ccにも達するというエンジンを積んでいたのです。



日本の車、またアメリカ以外の車は、
馬力を大きくする為に色々な工夫をしたのに対し、
アメリカ車は(馬力が欲しければエンジンを大きくすればいい)
そういった単純極まりない方法論で車を造っていたのです。

それは当然ながら、ガソリンを大量に喰います。
しかし、アメリカはそんな事などまるで眼中にありません。
アメリカでは、ガソリンなど(水)みたいな物だったのですから。



その頃のアメ車は「10円玉がジャラジャラと落ちる音がする」とまで言われました。
つまり、アメ車が走るとガソリンを大量に消費し、
まるで10円玉をばら撒きながら走っているのと同じ様なものだったからです。

一昨年旅行で行った沖縄・宮古島では、
日産・キューブという車をレンタカーで借りましたが、
何と1リッターあたり30キロを走り、私をビックリさせましたが、
1960年代のアメ車の燃費は、1リッターあたり2キロ程度という、
ガス喰い虫、今の日本では考えられない車だったのです。

しかし、世の中は変わり、
今ではそういったガソリンを大量に消費するという事は、
排気ガス、ひいては大気汚染をまき散らす事と同義語ですから、
さすがのアメリカも世界に喧嘩を売る様な車を造る事はできなくなりました。

1970年、1980年と、アメ車は小型化されていきました。
アメリカ国内だけの正義で車が売れた時代は過ぎ去り、
そこに日本車の様な低価格、低燃費、故障知らずの車が輸入されてくると、
アメリカ人はこぞって日本車を買う様になり、
俺は(アメ車だ)などと呑気な事を言ってる訳にはいかなくなってしまいました。

現在のアメ車は、その頃に比べると(つまらない)スタイルになり、
もう(アメ車)なる言葉は死語になったと言っても過言ではないでしょう。


しかし、あのバカでかい、ド派手の極致だった頃のアメ車。
それに私は乗ってみたかった。
小型で、効率が良くて、壊れない、今の車に比べ、
まるで(無駄の極致)だった頃の、あの(アメ車)は、
何と魅力的に見える事か。

「俺は君達みたいに、燃費がどうのと四の五を言わず、
大きければ何でもいい、ド派手であれば何でもいい」
そんな時代遅れの車に、世間を睥睨しながら乗ってみたかったよ。










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涙なくしては唄えない歌

2017-08-27 04:31:06 | 歌声喫茶
~希望のささやき~ 由紀さおり・安田祥子


歌声喫茶では時々、
涙にくれながら唄っている人を見かける時があります。

「希望のささやき」
これは他ならぬ、私自身が涙で唄えなくなってしまう歌です。

母との思い出の歌であり、
母の葬儀の時に火葬場で、親戚達と一緒に唄ったのですが、
私は胸がこみ上げて唄えなくなってしまいました。
まだ妻になったばかりのエリカさんが一生懸命唄ってくれましたが。

それから3年くらい経ってから、
久留里の歌声喫茶の忘年会でこれを唄ったら、
何故かいきなり母を思い出して、また唄えなくなってしまいました。

【合唱版】千の風になって


「千の風になって」

先日の歌声喫茶で、この歌で涙にくれている女性がいました。
ハンカチで眼を拭いながら、
隣の女性から肩を支えられながら唄っていました。
きっと亡くなられたご主人を思い出していたのだと思います。

そうですよね、これからおじいちゃになって、おばあちゃんになって、
弱った身体を支え合って死ぬまで一緒に歩む筈だったのに、
何で、貴方は私を置いて逝ってしまったの・・
分かるよな~、ホントに切ない。

見上げてごらん夜の星を(坂本九)


「見上げてごらん夜の星を」

これは私の妻が涙にくれてしまう歌です。
それが何故なんだかは妻にもよく分からないそうなんですが、
泣けてしまうんだそうです。

天地真理 ☆ 愛する人に歌わせないで


「愛する人に歌わせないで」

この歌も、人によっては(涙なくしては唄えない歌)だと思います。
妻のエリカさんは、
実際にこれを泣きながら唄っている女性を見た事があるそうです。

合唱曲 折り鶴 おりづる ~ 平和への祈りを込めて ~


「折り鶴」

昨年5月。
私達は広島を訪れ、原爆資料館に行きました。
そこで、12歳で命を奪われた、佐々木禎子ちゃんと向き合い、
戦争の・・原爆の残酷さを思わざるを得ませんでした。
たった12歳で希望を絶たれる残酷さに涙しました。

そして、去年11月には、
歌声喫茶で夫婦で司会をしていた方の奥様の方が、
わずか58歳で逝ってしまいました。
その葬儀で御主人が、奥様が大好きだったという
「折り鶴」を、彼女の棺の横で唄いながら見送ったのですが、
その必死の顔を思い出すと、彼の心が痛いほど伝わり、
その心情を思うと、私は唄えなくなってしまうのです。

彼にとっては奥様との最後の「歌声喫茶」だったんですね。
それはとても切なく、涙・涙でした。

◆H7. みかんの花咲く丘  川田正子


「みかんの花咲く丘」

こんなに明るい歌でも、人は泣くのですね。
かくいう私も、キャンプ場でこの歌を聞きながら、
涙が出てしまった事があります。

また、歌声喫茶で私がこの歌を唄っていると、
泣いてしまった女性がいましたね。
司会者は「あ~あ、河童さん女性を泣かせちゃった」なんて、
冗談まじりに皆の笑いを誘っていましたが。


「歌」というのは、あるいは「音楽」というのは、
とてつもなく、計り知れない(心)があるんです。
その琴線に触れると、人は魂を揺さぶられ涙するんですね。

それこそが(音楽)であり(歌)なんだと思います。
いいんですよね~、歌って。
唄いながら泣いている人を見ると、
ジーンとしてしまいます。

その人の生き様と、その人の心と・・
そういった人としての何ですかね~・・・

人間は泣きたい時は思いっきり泣けばいいんですね。



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高城丈二

2017-08-26 02:38:53 | 映画
Pro-Fighter [1969], Episode 3 [1/6]


昔、高城丈二という俳優がいました。
私には俳優という印象が強いのですが、
彼は元々は歌手から俳優へと転向した人です。

動画は「プロファイター」というテレビドラマの一コマで、
6分28秒から、彼が唄うシーンがありますが、
端正ないい声をした歌手でした。
この当時の高城丈二は33歳くらいです。



高城丈二は、1936年(昭和11年)生まれ。
現在の年齢は81歳。
しかし、その生死ははっきりしません。

私が最も印象に残っているテレビドラマは、
1964~1965年にかけて放映された、
「悪魔のような素敵なやつ」というドラマでした。
その頃の高城はまだ20代後半だったのですが、
何故かもっと老けていた印象が残っています。

それに共演していた俳優で印象に残っているのが、太宰久雄。
あの「寅さんシリーズ」で(タコ社長)をやっていた方です。

「悪魔のような素敵なやつ」で彼が演じていたのは、
紋蝶四郎(もん、ちょうしろう)という役名でした。
それを太宰久雄が「あ、モンシロチョウだ」と言い、
高城が「ばか、紋蝶四郎だ」というのを、よく覚えています。



高城が人気絶頂だったのは、20代後半から30代までで、
その頃、よく共演していた俳優の中丸忠雄によると、
(とても不遜な態度)だったらしいです。
つまり(エラソー)にしていたんでしょうね。
共演者、スタッフからは悪い印象を持たれていた様です。

1979年頃(43歳)くらいか・・?
何かの病気を患い、輸血をしますが、
その輸血から肝炎を発症し、闘病生活を余儀なくされ、
それ以降、自ら俳優業を引退し実業家に転じます。
実業家といっても、それが何なのかは分かりませんが。
高城丈二は、大病を患ってからは腰の低い優しい性格になっていたそうです。

芸能界引退後はテレビの出演依頼や、
マスコミの取材などに一切応じず、そのまま姿を消してしまいました。

今から30年くらい前だったか、
私は宇都宮にいる友人を訪ねてJRの宇都宮駅に降り立ちました。
プラットホームで何気に後ろを振り返ると、
そこに居たのが高城丈二だったのです。

その当時の高城は、多分50歳くらいか?
それに比べると若くて綺麗な女性と一緒でした。
その女性が誰なのかは知るすべもありませんが、
奥様だったのかも知れません。

あれから30年。
高城丈二は、生きているのか?
分かりません。

私には「悪魔のような素敵なやつ」の、
生きのいい若き日の高城丈二が、何故か忘れられない。






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音楽的生活

2017-08-25 09:26:33 | 音楽
Cobalt Sky March コバルトの空 - 海上自衛隊東京音楽隊


私が楽器に係わっていたのは、
16~22歳くらいまでの、たった6年間くらいです。
ヘリコーン(この楽器は今では全く見ない)
小バス(ユーフォニアム)中バス・大バス(スーザフォーン)トランペット。
全部、金管楽器でした。

それから、ずっとブランクがあり、
60歳から歌声喫茶にはまってから、再び楽器とのご対面。
アコーディオン・ピアノ・キーボード・ギター・ドラム・
ベース・エレキ・・
そういった楽器と再び向かい合うと、
本来の楽器好きが疼くのです。
やっぱり、私は楽器が好きなんですね。

高校時代、日曜日も夏休みも、
一人で学校に行っては、ラッパを吹きまくっていた変な高校生。
先輩達からは「いい後輩が入ってきた」と期待の星。
下手くそな先輩からは、チョッと嫌がられては、いい気になっていた。
生意気で、それでいて楽器はメチャメチャ好きで好きで・・

水を得た魚という言葉の様に、
自分がそんなに楽器に夢中になるなんて、信じられなかった。
真綿に水が染み込む様に、ぐんぐん上達し、
楽器だったら誰にも負けたくないと必死で夢中で練習していた、
そういった高校時代。

あの頃の感覚。
真ちゅうの金属の匂い。バルブ液の匂い。グリスの匂い。
手に伝わる真ちゅうの冷たく、
それでいてこれからいよいよ音を出すんだという温かな想い。
初めて唇に触れるマウスピースの触感。
そこから管を伝わってくる真ちゅうの輝き。

一旦演奏に入ると、もうそこにあるのは桃源郷。
自分の出す音にしびれ、うっとりとただただ音楽をする歓びに溢れ、
その感覚は楽器をやらなければ絶対に味わえない。

街中を行進する時の感激。
沢山の人達の視線を浴びて行進する晴れ晴れしい胸の高まり。
それは、それを味わった人にしか判らない感覚。
あの味を味わいたいが為に吹奏楽から離れられない人も、
きっと沢山いると思います。
あれは一種の麻薬なんですね。


さて、再び楽器と向き合う様になると、
私は金管楽器が大好きではありますが、
出来ればピアノをやってた方が(得)だったな、なんて思うのです。
ラッパがいくら上手くなっても、大勢を相手にたった一台では、
どうし様もありません。
その点、ピアノだったら一台だけで大勢の人達を相手に出来ます。
そして何より、
ともしび、韓国クルーズみたいに、
115000トンの豪華客船にタダで乗れたりするんですね。

それって、ズルイ!
ただで115000トンの豪華客船だよ~。
やっぱり、ピアノなんだよな。
音的には、それほど好きな音でなくても、
そんな事は全然関係ない事なんですね。
要は豪華客船に乗れたり、
あるいはヨーロッパ歌声旅行にただで行けたり、
そっちさえあれば、あとはど~でもいいんですね。


それはね、分かってはいるんですけど、
やっぱり俺はあのラッパの音色が忘れられないんです。
いいんだよな~、
ユーフォニアム、スーザフォーンの、あの輝き。

私に歌は無理。
私はやっぱり楽器なんです。
合唱団に入りませんか?とか言われても、それはあり得ない。
やっぱり私は「楽器」
絶対に楽器が私の音楽の根幹なんですね。

楽器・・金管楽器・・いいんだよな~。




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