河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

尾瀬にハマらず

2023-08-30 05:08:56 | 日記
15.8.08.青い空よ、白い雲よ


もう何年もお会いしていない、池田あきよしさん。
「青い空よ、白い雲よ」「風よあなたは」「尾瀬ヶ原」
尾瀬を主題にした歌を、何曲も作り、歌声喫茶で唄われていましたね。
初めて池田さんにお会いしたのは、15年くらい前だったか。
その時に、既に60回も尾瀬には通ったと話していましたので、
現在は100回くらいは尾瀬参りをしているのかな?



2008年の7月に、歌声仲間たちが尾瀬に行く事になったのですが、
私は当日は行かれずに、一日遅れで一人で尾瀬に行き、彼らと途中で出会いました。

しかし・・・
「さわやか信州号」夜行バスで横浜を発ち、
早朝、尾瀬に着いた私はとんでもない忘れ物に気づきました。
生まれて初めて買ったデジタルカメラにメモリーカードを入れるのを忘れて来たのです。
それはフィルムの無いカメラを持っているのと同じで、何の意味もないのです。
バス停前の売店に行ったのですが、フィルムは売っているのですが、
メモリーカードはまるで売ってなかったのです。
(現在だったら、メモリーカードは売ってるけど、フィルムは無い)なんでしょうね。

そうなるとカメラの重さが恨めしく、
初めて見る尾瀬の素晴らしい風景が、素晴らしければ素晴らしいほど腹が立ってくるのです。
それを記録するのは、自分のまなこ(眼)しかないのですから。
なので、歌声仲間達の写真は、どなたかの記念写真から拝借したものです。
後列、一番高い場所に、池田あきよしさんも写っていますね。



その後に、歌声仲間でもあった山岳写真家の、高橋良行さんの写真集も買いました。
高橋さんは、尾瀬をよく撮っていた人だったのですね。

しかし、私は尾瀬にはそれっきり一度も行っていません。
「尾瀬、あれは山じゃないな」という印象が強かったからです。
私は尾瀬の美しさはよく解りますが、いわゆる山岳とは違うと感じたのです。





私は結局、アルプス一万尺(3000メートル)の世界が好きだったのです。
アドレナリンが出まくる危険な岩稜歩きに比べ、
尾瀬のあの平穏な世界は、合わなかったみたいなんです。

もう、私から山の世界は無くなってしまいました。
尾瀬は山じゃないとは言っても、情熱が湧かなくなってしまったのです。
3000メートルではない低山、例えば頻繁に通った丹沢の山。
もう、そういった世界に情熱の塊の如く通った、あの瞬間(とき)
それは二度と無くなってしまったという老化現象なのです。
悲しいけれど、それが現実。

池田さんみたいに、60回も尾瀬に通う情熱。
槍穂高に傾けた私の情熱。

何か果てしなく遠~い世界になってしまった事が、
悲しくもあり、微笑ましくもあり、懐かしくもあり、呆然として過去に浸る私です。



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学童疎開船、対馬丸の悲劇

2023-08-27 08:25:52 | 軍事


1944年(昭和19年)8月22日。
沖縄から九州への学童疎開船、対馬丸がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しました。



戦争が激しくなり今後、激戦が予想される沖縄から、
一般婦女子、学童らを安全な内地へと避難させる事を政府は決定します。
学童の家族たちは、一般の貨物船ではなく、
防御力もあり、スピードの速い軍艦での避難を望んでいましたが、
そんな軍艦などあろうはずもなく、一般貨物船での疎開になりました。
疎開船は3隻で、いずれも6800トンクラスの旧式で低速な貨物船でしたが、
700トンクラスの小型護衛艦が2隻が彼らを護っていました。

対馬丸には、一般人、疎開児童の1800人が乗っていました。
和浦丸には、学童のみが、1500人。
暁空丸には、一般人1400人。
学童には、初めて沖縄以外の地、内地に行く者も多数いました。
彼等は初めて見る本土に期待に胸をワクワクさせていました。



1800人中、生存者は300人。
死者1500人中、学童は約800人でした。
これが、学童のみが乗っていた和浦丸だったら、学童の死者はもっと多かったのかもしれません。

8月22日、午後10時頃、対馬丸はアメリカ潜水艦の魚雷攻撃で沈没。
対馬丸以外の2隻の船も護衛艦も、潜水艦からの攻撃を恐れ、
救助活動をする事なく、退避行動を取った為に、生き残った人達は見捨てられた形でした。
また、ようやく助けられて内地などに帰った人達には、
日本軍から対馬丸沈没の悲劇を語ってはならないという緘口令(かんこうれい)が敷かれました。
そんな悲劇が伝わると、疎開命令に従わない家族などが出て、支障が出るからです。
ですから、対馬丸の事実が調査される事もなく、生存者たちの苦悩は解決されないままでした。

1942年(昭和17年)6月。ハワイ真珠湾攻撃の開戦からたった7か月後。
日本海軍はミッドウェー海戦で、歴史的大敗北を喫しました。
海軍が誇る虎の子の正規空母4隻全部を失ってしまったのでした。
それは、これからの戦争継続を優位に進めるのが難しくなってしまったという事実に、日本軍は色を失います。
海軍は、ミッドウェーで生き延びた兵士たちを集め、
彼らを更なる激戦の最前線に送り込み、死に追い詰めるのです。
それは敗戦の事実を隠す為の、体のいい緘口令です。
日本軍というのは、そういった事を平気でする軍隊なのです。



先日行われた沖縄の、対馬丸慰霊碑での式典も、
年々生き残った人の数は減り、またそれを後世に伝える語り部も、殆ど居なくなっています。
そういったニュースが流れていました。

アメリカ潜水艦の艦長は戦後、「乗っているのが学童だと知っていたら、攻撃はしなかった」
と述べています。
私はそれは本当の言葉だと思います。



潜水艦映画として有名だった「Uボート」
ドイツの潜水艦は、イギリスの輸送船団を発見して魚雷攻撃をします。
しかし、敵から猛烈な爆雷反撃を受けて、逃げ回ります。
やっと敵の攻撃を回避して海面に浮上すると、
そこにはまだ沈んでいなかった貨物船の燃える姿がありました。
艦長は「まだ沈んでいなかったか、しぶとい奴だ」ととどめの魚雷を打ち込みます。
激しく爆発し炎上する貨物船ですが、そこにはまだ生存者が残っていました。
潜水艦の艦長は「まだ彼らを救助していなかったのか、時間はいっぱいあったのに」と驚きます。
貨物船から海に飛び込んだ生存者たちは、助けを求めて潜水艦めざして泳いできます。
しかし、彼らを助ける物理的余裕など狭い潜水艦にはありません。
潜水艦は彼らを見捨てて後退します。
潜水艦のドイツ兵たちは、その残酷さに泣きだします。
それしか出来ないと分かっているのが、人間として耐えられなかったのです。

潜水艦の任務が敵の船を沈める事であっても、
何も敵という人間が憎いという訳ではないのです。
ただ、船という(物)を失くしてしまえばいいのです。
艦長が、そこに乗っているのが学童たちであると知っていたら、
やはり人としてそこまでしたくはなかったというのは、本心でしょう。



第二次世界大戦末期、
ドイツはかつて占領していたソ連領からドイツ兵や一般人を、
本国に帰国させる為に、グストロフ号といった大型客船や、
ゴヤ号といった貨物船に乗せられるだけ乗せて避難行動に入りました。
しかしソ連潜水艦からの魚雷攻撃を受けて、
グストロフ号は9300人、ゴヤ号は6000人という、
いずれも空前の大量死者を出して沈没しました。

それはアメリカ潜水艦艦長の「学童と分かっていたら攻撃しなかった」のとは違います。
ソ連はそれまで散々痛めつけられ酷い目に遭わされてきたドイツ人に深い恨みを持っていたのです。
この潜水艦による攻撃は、ソ連の陰湿で卑劣な復讐だったのです。


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慶應応援歌VS早稲田応援歌

2023-08-24 07:13:49 | スポーツ




昨日は、世界中を震撼させた・・(あ、チョッと言い過ぎたかな)
日本中を興奮のるつぼと化した・・(あ、チョッと言い過ぎたかも)
高校野球の決勝戦がありましたね。
結果は、慶應高校が、8対2という予想外の圧勝でしたが、
実力拮抗という相手同士でも、こういった予想外の結果というのは、ある事ですね。

私は、歌声喫茶仙台バラライカに30回通い詰めたという歌声バカですので、
バラライカの常連客とは、何人もの友達が出来上がっていました。
で、これは仙台育英高校を応援するっきゃないだろうと思っていたんですが~・・・
まさか決勝戦を戦うのが、神奈川(横浜)の慶應高校になろうとは・・
これは申し訳ないのですが、予想外だったのです。
となるとですね~、私は東京出身ですが、神奈川県民を40年くらいやってたし、
横浜市民は、30年以上やってたという人生を歩んで来ましたんで、
ここにきて、仙台応援とはいかなくなっちゃったんですね。
あぁ、これで仙台の友人達とはこれっきりの縁切りだけど、仕方ないよね。

それで、あの慶應応援歌の「若き血」を一緒になって唄っちゃったんですね~。

2020年度 9月慶應義塾大学入学式(学部・大学院)(動画配信)/ 若き血


この歌は、以前から「いい歌だな~」と思っていました。
この歌を作詞、作曲したのは、堀内敬三という人です。



堀内敬三  1897年(明治30年)~1983年(昭和58年)86歳。
  作曲家・作詞家・音楽評論家。
  1949年(昭和24年)、NHKラジオ番組「話の泉」で、
  司会と解説を務めました。
  私は子供の頃、その番組を何度となく聞いていましたが、
  堀内敬三氏の博識ぶりには、子供心に「凄い人だな~」と思っていました。
  蒸気機関車が大好きで機械工学を学び、マサチューセッツ工科大学で修士課程を修了、
  音楽でも著名な作曲家とかにも師事しました。
  まさに、大谷翔平クラスの地球外生物のはしりですね。

さて、1907年(明治40年)
早稲田大学創立25周年に完成した早稲田大学校歌(都の西北)は、日本の大学では一番最初に出来た校歌でした。

この歌を作る時、初めは学生からの応募で23編の応募があったのですが、
これといった作品が無かったので、
審査にあたった坪内逍遥と島村抱月は、卒業生の相馬御風に作詞を依頼します。
これに曲を付けたのは、当時講師であった東儀鉄笛でした。

早慶戦(早稲田VS慶應)が始まったのは1903年(明治36年)とされています。
そしてその後、早稲田大学の校歌(都の西北)が唄われ出しました。

【歌詞付き】早稲田大学校歌


早慶戦では、早稲田はこの校歌を歌って勢いをつけていました。
しかし、慶應大学にはこれに対抗する歌が無かったのです。
慶應はこれに対抗して堀内敬三氏に作曲を依頼。

1926年(大正15年)29歳の堀内敬三は「若き血」を作詞、作曲します。
この応援歌を用いての応援は、1927年(昭和2年)から始まりました。
「若き血」に押された早稲田は、その雰囲気に押され、
昭和2,3,4,5年と勝てない時期が続きました。

【歌詞付き】早稲田大学「紺碧の空」


そこで昭和6年、早稲田応援団は全学生を対象に歌詞を募集し、
住治男作詞の「紺碧の空」を一文字の修正もなく採用します。
この歌の作曲を当時、無名だった古関裕而を推薦したのは、
「イヨマンテの夜」の歌手、伊藤久男の従兄の伊藤しげる、彼は早大応援部の幹部でした。

これは古関裕而最初の出世作となり、
以後、慶應、早稲田は「若き血」と「紺碧の空」で早慶戦を張りあったのです。

1933年(昭和8年)には語り草となっている(リンゴ事件)が起こりました。
その時、慶應、早稲田は激しい点の取り合いになっていたのですが、
審判の判定を巡ってトラブルが重なっていました。
後に読売ジャイアンツ監督となった、水原茂氏が審判に詰め寄り猛烈に抗議。
こうした経過から両校の応援団は興奮状態にありました。
水原が三塁の守備に就くと、三塁側早大応援団席から水原に向かってリンゴが投げ込まれ、
試合は慶應が9ー8の逆転サヨナラ勝ちとなったのですが、
早稲田応援団は慶應ベンチになだれ込み大乱闘となり、
警官隊が出動する大騒動になりました。
この事件がキッカケとなって、早稲田は1塁側、慶應は3塁側に固定されたのです。

【早稲田大学応援部】紺碧の空 早稲田へようこそ受験生


ちなみに、私は何と言っても「紺碧の空」が好きです。
歌もいいし、チアガールの振り付けもいい。
チアガールの足が何処まで上がるか?
腰までしか上がらない人は失格。
頭の上まで上がるチアガールで、勝負は決するのです(ウソ)

早慶戦、いいな~、俺も「紺碧の空」唄いたかったな~。



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夢・・艦船模型ミュージアム

2023-08-21 10:59:25 | 軍艦
【艦船模型】職人技!パーツから作り出す / おとなの秘密基地【Battleship Yamashiro's last appearance】


私は、何がきっかけだったかはまるで記憶にないのですが、
物心ついた時には、「軍艦大好き少年」だったのです。
普通は、子供心になんらかの出会いがあって、その衝撃がきっかけだったりするのでしょうが、
私の場合はまるで、本当に知らない間に軍艦好きになっていたのです。
それは現在に至るもまるで変らないままなんです。



私が最も好きな軍艦は、
「世界一美しい軍艦」の名を欲しいままにした、ドイツ戦艦「シャルンホルスト」
日本人の軍艦好きというと、ほぼ全員が世界最大の「戦艦大和」ですが、
私は、大きさ、強さではなく「美しさ」に魅了されたのです。

自分では絶対に作れないのは明白でしたので、
プロの工房に依頼して、26万円もかけて製作してもらいました。



私のシャルンホルストは全長66センチですが、
同じ縮尺でも「戦艦大和」だと74センチとなります。
しかも、約18万円で完成品が売っているのですね。
と言われても、やっぱり私は「世界一美しい戦艦」が欲しかったのです。





私は過去2回、広島県呉市の「大和ミュージアム」に行った事があります。
世界最大級1/10の精密模型の、戦艦大和は本当に素晴らしかった。
いつまでもいつまでも、私はそこに居たかった。

さて、私が心から欲しいと思うのは、「軍艦ミュージアム」です。
世界中の精密軍艦模型を一堂に集めたミュージアム。

Das kleine Schiffsmuseum


軍艦好きは、何も日本だけではありません。
世界中に私と同じ思いの志は居るのです。
これは、ドイツ人の凄い人みたいですが、
彼はドイツ艦ばかりではなく、ビスマルクに撃沈された、イギリス戦艦フッドや、
日本人が大好きな戦艦大和なども製作している凄い人ですね。



函館市には、1920年生まれと思われる斉藤弘之という方が居ます。
と言っても、現在ご存命だと103歳となりますから、もうお亡くなりになっているのでしょう。
斉藤氏が制作した1/50の駆逐艦「潮」は、全長2,36メートル。
その完成度の高さは、驚異に値します。
手すりの輪に通る鎖を忠実に再現するには1/50しかあり得なかったというこだわり。
精密軍艦模型に命がけでたずさわる人というのは、そのくらいの情熱があるのです。





昔、樅山(もみやま)艦船模型製作所(1912年~1993年)という会社がありました。
そこでは基本的には1/48という縮尺の精密模型を作っていました。
そこに在ったのが、1/200。
全長1,31メートルの純銀製の「戦艦武蔵」でした。
これは、国宝級とは言いませんが、重要文化財クラスの逸品です。
今現在、これがどうなったのか、誰が保有しているのかは分かりません。





そして、樅山模型には1/48、全長5メートル近い「戦艦扶桑」が在ったのです。
しかし、敗戦と共に破壊され失われてしまいました。

そういった具合に、精密船舶模型は、その価値が分からない人らによって破壊され、
廃棄されて失われていきます。
それは、あまりにも勿体ない、勿体ないのです。

私は世界中のあらゆる、失われゆく(文化財)を一堂に集めた、
「艦船ミュージアム」が夢です。
「軍艦」ではなく「艦船」ミュージアムであるのは、
軍艦以外の一般船舶にも大きな足跡を残す、樅山模型の存在があるからです。

そんなミュージアムが(横浜)山下公園とか大桟橋の辺りにあったら素晴らしい。
そんなのが、もしあったら私は年がら年中入り浸りになります。
言葉は通じなくても世界中の軍艦、艦船オタク達と知り合えたらな~・・・



あぁ、何と美しいんだ!


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素晴らしき伝統、御陣乗太鼓

2023-08-20 16:40:45 | 日記
御陣乗太鼓(石川)




御陣乗太鼓(ごじんじょうだいこ)は、
石川県、輪島市、名舟町(なふねまち)に伝わる伝統芸能です。
現在は石川県指定無形文化財。輪島市指定無形文化財になっています。

1576年、越後の上杉謙信は能登の七尾城を攻略し、
その余勢をかって奥能登平定に駒を進めます。
現在の珠洲市三崎町に上陸した上杉勢は、破竹の勢いで名船村へ押し寄せてきました。
上杉勢の大軍に比べ、村人たちがあまりにも無力である事は明白でした。
しかし、郷土防衛の一念に燃え立った村人たちは、村の知恵者と言われる古老の指図に従い、
樹の皮で仮面を作り、海藻を頭髪とし、太鼓を打ち鳴らしながら寝静まる上杉勢に夜襲をかけます。
上杉勢は思いもよらぬ陣太鼓と、奇怪きわまる怪物の出現に驚愕し、
戦わずして退散したと伝えられています。

名舟町は人口250名の小さな町ですが、
御陣乗太鼓は、名舟町出身者のみに許された、門外不出、一子相伝の伝統とされています。

最近、御陣乗太鼓に高校生の伝承者が出来たそうです。

公式【御陣乗太鼓#3】受け継がれる門外不出の太鼓<石川>


嬉しいですね、こんな素晴らしい伝統を受け継ぐ若者の出現。
いつかは見に行きたいと思っている内のコロナ禍。
未だ実現できていないのが残念です。

御陣乗太鼓 Gojinjyo Taiko



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