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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

宍戸錠・・エースのジョー

2019-01-27 04:50:38 | 映画
小林旭(宍戸錠) 「さすらい」




宍戸錠は、私が若い頃に好きだった俳優です。

何故、好きだったか?
・・カッコいいから。

そうなんです、とに角カッコ良かった。
彼は抜群の運動神経を持っています。
若い時は(芸能人相撲大会)などにも出ていました。
成績は記憶にありませんが、
その位の運動神経と、強さを持っていたのです。

そういった運動神経から来る、彼特有の身のこなし。
それが絶妙にカッコ良かった。
そして顔がいい。
私は俳優が最も重要なのは(顔)だと思っていますが、
彼は鼻が高く、横顔が実にいい。
つまり(中高)顔の真ん中が高いというカッコいい顔なんです。

写真の本も持っていたのですが、
古くなって捨ててしまったのは、惜しかった。

ーーーーーーーーーーーー

宍戸錠は1933(昭和8年)に大阪で生まれました。
9人兄弟の全部が男という家庭に生まれ、
(もう男は要らない錠前をかけてしまえ)という事で、
錠前から(錠)と名付けられました。
つまり錠は本名なのです。

5歳の時に宍戸家は東京へ移住します。
家庭は裕福な家庭でした。
小学校6年の時に戦災で宮城県・白石市に疎開し、高校まで育ちました。
日大芸術学部に進学しますが、
日活ニューフェース(第1期生)に合格し、大学を中退します。





錠前をかけたにも係わらず、
10人目の男が宍戸家には生まれてしまいました。

後に俳優となる郷鍈治です。
彼は、歌手のちあきなおみと結婚し、おしどり夫婦として、
有名になりますが、1992年に55歳・肺がんで亡くなります。
ちあきなおみは、それから芸能活動から身を引いてしまいましたね。



宍戸錠は1956年「警察官日記」の若い巡査役でデビューします。
その頃の彼はほっそりした端正な顔立ちの二枚目でした。

しかし、彼はそんな一般的な二枚目顔では役者として大成しないと判断し、
1956年に、後にトレードマークとなる頬に整形手術をします。
頬っぺたにシリコンを注入して頬を膨らませたのです。
(ちなみに、私は彼の顔真似を演じるのが上手なんですよ)









宍戸本人に言わせると「手術は失敗」だったという事ですが、
しかし、それからの彼は、
小林旭・石原裕次郎・二谷英明といったスターの敵役として、
日活映画独特の、無国籍映画に、
黑づくめの殺し屋・エースのジョーとして名を挙げて行きました。



また、彼はあのオーソン・ウェルズを絶大に尊敬していました。
23歳の時に製作したラジオドラマ「宇宙戦争」で、
宇宙人が襲来してくると本気で思った人が沢山いて、
全米をパニックにしてしまったという伝説的な演出家・俳優で、
「市民ケーン」「第三の男」を演じた天才です。



2001年、彼はトレードマークだった頬のシリコン除去の手術をします。
2010年には妻を亡くし、
同年、火災により成城の豪邸を焼失するという悲劇に見舞われます。

晩年は不幸に見舞われましたが、
彼も今年は86歳になります。

どうか穏やかに過ごされて欲しいと願っています。




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天才ライダー・伊藤史朗

2019-01-23 10:52:21 | バイク




1955年から1960年代にかけて、
「天才」と言われた伝説のライダーがいました。
彼の名は「伊東史朗・いとう・ふみお」
皆は彼をふみおとは呼ばず、シローと呼んでいました。
私もずっとシローだと思っていました。

伊藤史朗・・1939年10月生まれ。
兄・姉がいて、史朗は次男でした。
彼の父親・伊藤昇は音楽家であり、作曲家でありトロンボーン奏者でもありました。
「史朗」の名付け親は、父親が師と仰いでいた、
作曲家の山田耕筰でした。

史朗は13歳の時に母親を亡くし、
父親と姉とで史朗を育てたそうですが、
自由奔放に勝手気ままに生きる史朗にかなり手こずったみたいです。

史朗は父の血を受け継いだのでしょうか、
ピアノやウクレレの演奏もし、身長178センチと大柄な体躯で、
低音で歌も上手かったみたいで、後にレコードを出したりしました。







1955年、第一回浅間火山レースが開催されました。



このレースに若干16歳の伊藤史朗はライラック(丸正自動車)のSYZ(250CC)で出場し、
全くの無名ながら優勝したのです。



これはその後の、浅間を駆け抜けた伊藤史朗の雄姿です。
オートバイはライラックのシャフトドライブではなく、チェーン駆動ですね。

1956年・・ヤマハワークスチームに加入。
また、浜松でオートレースの選手としても活動しました。





1957年・・第2回浅間レースでリタイヤ。
1958年・・初の海外(アメリカ)でのレースで6位。
1959年・・第3回浅間火山レースで優勝。
1960年・・世界グランプリに出場。
1961年・・ヤマハのワークスドライバーとして世界グランプリを転戦。
1963年・・世界グランプリで、ベルギーで優勝。
1964年・・マレーシアグランプリで転倒。頭部に重傷を負う。

一度重い怪我をすると、それが為にドライバーは勇気が出なくなるのでしょうか?
それ以後、彼の成績は低迷します。

1965年・・拳銃の不法所持で逮捕されます。
また、薬物使用などで私生活に問題があったみたいで、
約束は守らず、嘘もつき・・・
自殺未遂事件を起こしますが、私的な女性に発見され一命を取り留めたとか。

1966年・・伊藤史朗はアメリカに不法入国します。
それ以後の伊藤は一度も日本に帰国する事なく、
生涯をアメリカで過ごしたと言われています。
フロリダで日本食レストランを経営したり、
ホテルチェーンの副社長をしていたとか・・・?

多くの人が彼を「天才」と呼び、
「彼より早く走れるライダーは居なかった」と、まさに伝説的なライダーでした。

1969年には、
大藪春彦が、伊藤史朗がモデルだと言われる小説「汚れた英雄」を書きます。



この小説は1985年に草刈正雄主演で映画化されました。
この小説や映画を観てレーサーになったライダーも、
数多く居るのだと思います。



また(消えた天才ライダー)として、
こういったドキュメンタリーの本も出版されました。

時代を駆け抜けた天才ライダー・伊藤史朗。
一世を風靡したと言ってもいい天才の短い人生でした。

伊藤史朗・1991年没・51歳でした。






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山口百恵・還暦

2019-01-22 07:39:17 | 日記
山口百恵 ひと夏の経験


【カラオケ】ひと夏の経験/山口 百恵


上の動画は、どうせ削除されるのでしょうから、
あらかじめ、削除されないだろうカラオケ動画も貼っておきます。

1月17日に、山口百恵が還暦を迎えたそうです。
あのアイドルだった百恵ちゃんが、60歳。
う~ん、時代を感じますね~。



山口百恵

1957年1月17日、東京渋谷生まれ。
幼少時を横浜市・瀬谷区で育ち、
小2から中学生でデビューするまで横須賀で過ごす。

1972年12月、
テレビの人気番組「スター誕生」で準優勝。
レコード会社20社から指名を受ける。
(指名というのは、この人をうちの会社で歌手としてデビューさせたい)
というプロの目から見た将来性を買われるのです。
つまり、貴女は歌手としてスター性があるというお墨付きを貰うのです。

この時、審査員だった、作詞家の阿久悠は、
「貴女は歌手としては向いていない」という意見を述べ、
これは結果的に大誤審であり、
後に阿久悠は山口百恵に謝ったとか。



私はこの時のテレビは観ていませんでしたが、
それから3年後の1975年。
新沼謙治が優勝し、各プロダクションのプラカードが、
一斉に上がった時は観ていました。

あまり魅力の無い人が審査を終え、
祈る様な表情をする中、お情け程度に1、2本のプラカードが
上がる事は何度となく観てきましたが、
各社が狂った様に一斉にプラカードを上げたのは初めて観ました。
そして、プロがその将来性を見抜いたように、
その後の新沼謙治はスター街道をひた走っていったのです。

山口百恵は、翌1973年4月、歌手デビュー。
そして74年「ひと夏の経験」が大ヒット。
この時の百恵はまだ15歳の高校1年生。

15歳の高校生が、初体験を思わせる際どい歌を唄う。
これは、ある種の衝撃でしたね。
ちなみに、私はこの歌が大好きで(メロディーが)
友人達の前で酒場で唄った事もありました。
結構、受けました。

同じく74年、「伊豆の踊子」で三浦友和と共演。
それからは13本の映画の主演をしましたが、
そのうちの12本は三浦友和との共演でした。



また、74年からはテレビの「赤いシリーズ」が始まり、
以後6年間続く事になります。
そこで知り合った俳優の宇津井健を公私共に(お父さん)と慕い、
結婚式の仲人を宇津井健が務めました。

78年「紅白歌合戦」ではトリを務め、
10代の歌手がトリを務めたのは山口百恵が初めてであり、
その記録は現在も破られていないそうです。

79年10月、三浦友和との恋人宣言。
80年3月、婚約発表。



2017年に私達夫婦は大井川鉄道沿線にキャンプに行きましたが、
キャンプ場の近くにあった、この吊り橋。
ここでは山口百恵と三浦友和との熱いシーンが撮影されたそうで、
「百恵ちゃん達は、ここで愛を育んでいたんだな~」っと、
ま、そういった感慨を感じました。



80年10月、日本武道館で引退公演。(21歳)
1970年代に彼女は最もレコードを売り上げた歌手だったそうです。



1980年11月結婚。(21歳)

それ以後、彼女は芸能界との接触を一切絶ちました。
実に潔い生き方ですね。

山口百恵のその後とか、
現在の山口百恵とか・・そういったのは止めにしましょう。
不幸せだったという子供時代から、女性としての幸せの在り方を、
見事に実践した素晴らしい女性でしたね。






コメント (2)
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ともしび尽くし

2019-01-15 08:07:26 | 歌声喫茶
歌声喫茶・新宿ともしびは、日本を代表する歌声喫茶です。
私も歌声喫茶に一番通っているのは、ともしびになります。

1位・・ともしび・・265回
2位・・国立・・・・212回
やっぱり、ともしびは毎日やっているという強みがありますね。
そこでは、過去に何度も歌声友達との楽しい交歓がありました。



2017年6月11日(日)
これは佐野の歌声のメンバーと、千葉からの友人達と。



2017年10月18日(水)
栃木県・足利市から、ワカさんとたかちゃん。



2018年2月21日(水)
前田夫妻誕生会。



2018年12月1日(土)
吉原さんの誕生会。



2018年12月16日(日)
私(河童)の誕生会。



2018年12月24日(日)
山の歌特集を皆で参加。



2018年12月29日(土)
18年最後にともしびへ行った日。
参加招集をかけたのではなく、自然に一緒になった、
佐野の歌声のメンバーと吉原さん。



そして、昨日2019年1月14(月祭)は、
前田さん夫妻の誕生会。

これからも、楽しい歌声仲間たちとの交歓会。
気の合った仲間達と一緒に唄う楽しさを積み重ねて行くのでしょう。
ともしびさん、いつまでも楽しませてくださいね。












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カフェレーサー

2019-01-14 11:33:26 | バイク
SR400 | 美しきカフェレーサー


この動画は、Anomaly Gang さんの動画をお借りしました。

カフェレーサーという言葉があります。

1960年代にイギリスで生まれた言葉で、
ロックンロールに影響されたバイク好きの若者達が、
改造した自慢のバイクでカフェに集まり、
コインを一枚入れて、ジュークボックスの音楽が始まると、
一斉に飛び出して、曲が終わるまでにカフェに戻って来るという
遊びしていたのです。

その様な改造したバイクを、
カフェレーサーと言ったのです。



これこそ、私が一番惚れたバイクスタイル。
オートバイは、トライアンフ・BSA・ノートン・・
もう最高のスタイルでした。
私もトライアンフに乗っていましたが、
如何せん、お金も無い若い頃だったので、
改造も出来ず、ファッションにも金をかけられず、
貧しきトライアンフライダーをやっていました。



ただ、ゴーグル(メガネ)だけは、
高かったけど、こういったゼロ戦パイロット型のを買ったのですが、
東京の何処かの店まで買いに行って、
帰りの最寄り駅で、もう待ちきれずにケースを開けたら、
ホームにゴーグルを落っことしてしまったのです。
で・・ガラスにひびが入ってしまったのです。

もう、ホームに突っ伏して泣きたくなりました。
買い直すお金など有るはずもなく、
バイク趣味から足を洗うまで、ひび入りゴーグルをしてたんです(泣)





ヘルメットは絶対にクロムウェルでなければなりません。
ですが、これも買える金はなく、
仕方なく、安物のクロムウェルもどきのままでした(これも涙)









こういった、如何にもカフェレーサーといったバイクを見ると、
今でも胸がときめきます。
成金親父のデコレーション・ハーレー集団など見ると、
ヘドが出そう。
あぁいったスタイルは嫌ですね。
ハーレー・ダビットソンというバイクのメカニズムは、
まあ一応は好きだし、認めますけど、
あの成金趣味と徒党を組んでの、見せびらかし集団は、
とてもとても好きなどにはなれません。
イヤですね~、あ~ゆ~のって。

そう言えば、昔、横浜伊勢佐木町に、
カフェがあり、そこの名前がケンタウルスだったか?
あるいはその店によく来るバイク仲間の名前がケンタウルスだったか?
彼等がバイクを駈って走る映像を観た事があるのですが、
箱根新道を400CCのバイクで時速200キロ。
圧倒的な迫力に息を呑みました。

オートバイというのは前傾姿勢でというのが、私の好きなスタイル。
30年以上前に、何処かのサービスエリアで、
20代の若者が、完璧にカフェレーサーに改造したのを乗っていて、
あまりのカッコ良さに8ミリカメラ(当時はビデオじゃないよ)で、
写させてもらったのですが、
私の家に残っている8ミリフィルムに残っている筈なんですが、
如何せん、映写機が無いんですから、見たくても見られない。



いいね~。
カフェレーサーこそオートバイだ!
バイク乗りの神髄は、カフェレーサーにあり。
と言いたいけど、もう既に棺桶に片足オヤジの独り言だな(泣)




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