河童の歌声

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ヒロシキャンプの事

2020-09-28 05:10:17 | キャンプ


芸能人の(ヒロシ)という方のキャンプが凄く話題になっています。

実は、私はヒロシという芸能人を全く知りませんでした。
また、現在もそうですが、
彼の芸能人としての活動映像を見た事が一度もありません。
彼を知ったのは、キャンプ動画を観てからです。

何でも(ソロキャンプ)をこよなく愛する方だそうですね。
芸能人という、普段は他人から見られない事には仕事にならない、
見られてナンボという世界だからこそ、
仕事を離れた時くらい、孤独で居たいと思うのかも知れません。

孤独で居たい、他人から見られたくない。
それが高じて、自分用の土地(山)を購入してしまい、
そこで思う存分のソロキャンプをされているとか。

そういった点が、普通のキャンパーから羨ましがられ、
ユーチューブ動画も、彼の著書も大好評となっているのですね。

でも私は彼のキャンプを羨ましいとは全然思わないのです。
そもそもソロキャンプというのはあまり好きではないからです。
キャンプを最初に始めた30代の時から、
キャンプというのは誰かさんらと複数で行くものであり、
ソロ(単独)でのキャンプなど考えた事もなかったし、
そういったキャンプをやりたいなどと思った事もありませんでした。

結婚して妻子と共に3人で行ったキャンプほど楽しい世界はありませんでした。
自然の中で遊ぶ娘の姿を眺めてるのは本当に素晴らしかった。
料理がまるで不得意な私でしたが、
それでも何とか頑張って何回もキャンプに行き、大いに楽しんでいました。

ですから、離婚した時は、
「これで、あの楽しかったキャンプに二度と行かれなくなった」
そう感じた時のショックで、ひどく落ち込んでしまいました。

あまりの淋しさに独りっきりでのキャンプに2、3回行ったのです。
しかし、それは淋しさを余計に強く感じるばかりでした。
去年まで、そこに居た妻と娘の姿は何処にもなく、
思えば思うほど、自分一人だけでのキャンプを思い知らされ、
その虚しさ、切なさをヒシヒシと感じて落ち込むばかりでした。
思えばバカな事をしたもんです。

現在の妻と知り合って最初に行ったキャンプ場は、
静岡県富士宮市の田貫湖キャンプ場でした。



2010年5月のゴールデンウィークの事でした。
しかし、田貫湖に着いた私は目の前の光景に、
腰を抜かすほどビックリしたのです。
いくら予約の要らないフーリーサイトのキャンプ場とはいえ、
まるで芋の子を洗う様な大混雑。
それはキャンプなどと言える代物ではない(難民キャンプ)でした。

私は以前、ここでたった独りっきりでキャンプをした事があるのです。
田貫湖は景色が雄大でロケーションとしては第一級なのです。
しかし、いくら何でもこれじゃキャンプとは言えない。



田貫湖を見限って行ったのは、
そこからそれほど遠くない表富士キャンプ場でした。
ローケーションとしては田貫湖よりかなり劣ります。
しかし、妻は(その時はまだ妻にはなっていませんでしたが)
彼女は「世の中にこんな楽しい事があったのね」と言ってくれました。

それから10年。
私達は50回以上のキャンプライフを楽しく過ごしてきました。
私のキャンプはいつも必ず誰かと行くキャンプであり、
独りっきりのキャンプは私には合わないのです。

私が好きになったブログに、
「すまいるキャンプ」というのがあります。
40代のその男性は、殆どがソロキャンプ。
スクーターでかなり広範囲のキャンプ場に行っていて、
とても参考になっていましたが、
最近は趣味がランニングに移行してしまったみたいで残念です。

その方は奥様も娘さんも居る普通の家庭です。
たまに家族と一緒のキャンプもしますが、基本はソロキャンプ。
しかし、家に帰れば家庭がある上でのソロキャンプと、
独身で家庭が無いソロキャンプとでは意味が違います。

私は本来が淋しがり屋なので、大勢が好きなのです。
独りっきりは耐えられないのです。
妻とキャンプに行く基本は最低でも2泊3日。
ですから最初の日は大体、金曜日に行く事が多いのですが、
その日のキャンプ場は私達だけの貸し切り状態。
翌日になると大勢の家族つれキャンパーがやって来るというスタイルです。

私達だけの貸し切り状態というのは何度となく経験していますが、
やはり多少は他のキャンパー達の姿がウロチョロしてるのを、
眺めながらのキャンプが好きですね。

家庭という、心の拠り所を持つ人と、
家庭を持たない、心の拠り所を持たない人と、
同じソロキャンプであっても、意味は違っている風に私には思えます。
でも家庭など持たなくても淋しいとも思わないという方も居ますから、
それは個人の自由ですが。

そういった心から独りで居られる精神力を持つ人は凄いですね。
私みたいなタイプには考えられない凄さがありますね。

でも、私は私。
誰かさんと一緒のキャンプをやっていればいいのですね。





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ビリが何だ!

2020-09-24 23:02:37 | スポーツ


1964年、今から56年前の東京オリンピック。
コロナ禍とかち合い、吹き飛んでしまった今年と違って、
56年前の日本は・・東京は、異常とも思える盛り上がりでした。

私の家ではオリンピックを観る為にテレビを買いました。
勿論、白黒の14インチテレビでした。
生まれて初めて、家の中に映画館が来たのですから、
その歓びは、そりゃ凄かった。
高校生だった、元々映画好きな私など、かじり付き状態でした。

そういった狂乱の日本中の家庭では、家族中が息を呑んで、
まばたきするのも惜しく、固唾を飲んで観たのがオリンピックでした。

さて、その中で忘れもしない場面があったのです。
1万メートルでした。
1周400メートルを25周する競技ですね。

金メダルは誰か?銀メダルは誰か?
ぜ~んぜん、記憶にございません。

ただ、これだけはハッキリ覚えていて、
忘れようにも忘れられないシーンがありました。
そのシーンは今でもハッキリ覚えています。

1位の選手、2位の選手・・そういった一流ランナーが次々にゴールしました。
そして次に、彼等とは違って格下の選手たちが周回遅れで続々とゴールをしました。
誰もがこれで終わりだと思ったのです。
ところが、はて?
何とたった独りの選手がまだ残っていたのです。



会場の観客たちは、驚きあきれ、
えッ、まだ走ってる選手が一人だけいるじゃないか。
と、「こいつ遅過ぎるよ、バッカじゃないの」
そういった目でその遅すぎる選手を見守るしかなかったのです。

最初はみながあきれて苦笑気味でした。
ところが、ゼッケン67番のその選手は、恥ずかしがるどころか、
大きく手を挙げ、手を振って観客の声援に応えながら走っていました。

観客たちは、彼のそういった堂々とした仕草が愛おしくなったのか、
一段と大きな拍手喝采で彼に大声援を送ったのでした。



その選手は、スリランカ(以前のセイロン)の選手で、
名前を、ビリガナンダと言いました。

それは冗談。
彼の名前は、ラナトゥンゲ・カルナナンダ。28歳の選手でした。



彼がたった独りでゴールテープを切った瞬間の、
場内の歓声は異常とも思える最高潮の盛り上がりだったのです。
あのシーン以上の感動的な場面を、私は見た事がありません。



この感動的なシーンは、知りませんでしたが教科書にも載ったそうですね。

たった独りでゴールテープを切った、
カルナナンダ選手は、試合後、
会場の脇から独りで涙ぐみながら、会場を見つめていたそうです。

そういった新聞記事が載っていました。
それを見た人はみな、泣いたのでしょうね。きっと。
あれは本当に素晴らしいシーンでした。

カルナナンダ選手は、それから10年後、
38歳の時に事故で水死してしまったそうです。
でも、死んで行く彼の脳裏には、
10年前の自分の輝かしいシーンが・・あったと思います。

あの時の貴方は、本当に素晴らしかった。
みんな貴方の事は忘れませんよ。






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あまりにも下らないエベレスト登山

2020-09-23 09:03:11 | 登山
以前のブログ(2018年8月1日)にも書きましたが、
エベレスト登山は禁止すべきです。
と言うか、そんなものはくだらない。
もう既にくだらな過ぎるのです。





この大渋滞。
そんじょそこらの低山じゃないのです。
高尾山じゃないのです。
世界最高峰の山のテッペンなのです。
この大混雑、この大渋滞。
何ですかこの、あまりにも嘆かわしい光景は。



エベレスト初登攀は、1953年。
エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイによって達せられました。



女性としては日本人の田部井淳子さんが、
1975年に初登攀を成し遂げています。



世界で初めて8000メートル峰14座の全部を登ったのは、
超人と言われたイタリアのラインホルト・メスナーでした。
彼は1978年と1980年の二度、エベレスト登攀に成功し、
二度目の1980年は、単独、たった独りっきりでの登頂でした。
そして、1986年に、
マカルーとローツェに登攀し、
世界で初めての8000メートル峰全部の登攀を完成したのです。

私はこの辺りで、エベレスト登攀の意義は失われたと感じています。
満員電車並みの大混雑の世界最高峰など見たくないし、
死体だらけ、残置酸素ボンベ、排せつ物だらけのエベレストなどは、
もう止めるべきです。
最高の登山技術を持つ登山家を金で雇って行く、素人集団。
こんなのはもはや登山でも何でもありません。
彼等は下界では「自分はエベレストに登った」と大自慢します。
あまり詳しくない人は「この人って凄い人なんだ」と尊敬します。
それって観光旅行なんですね。

80歳、世界最高年齢で登ったと自慢する三浦雄一郎氏。
彼は下山を6500メートルからヘリコプターで降りました。
そもそも80歳という自分では登る体力などまるで無い物体を、
サポート隊が下から押し上げ、上から引っ張りして登る意味が何処にあるのでしょう。
日本人としてあまりにも恥ずかしい。

エベレストに21回も登った人が世界には3人いるみたいです。
21回・・・
我も我もと必死になって、数百万円をかけて行っても、
それは貴方の自己満足。
そしてはた迷惑。
ネパール政府は、これからも馬鹿どもがやって来れば来るほど、ウハウハ。
儲かって儲かって、笑いが止まりません。

各国の国旗とゴミと排せつ物と死体と・・・
こんな世界最高峰は見たくない。



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あの車にもう一度逢いたい

2020-09-23 05:03:26 | 自動車
あの車に会ったのは、もう15年くらい前だったか?

大地震をFM電波を使って予知するという、
串田嘉男氏という方の講演会が、八ヶ岳の麓であったのです。
当時はマスコミにも取り上げられ、それなりに話題になったのですが、
今ではさっぱり噂も聞かなくなってしまいましたね。
その講演会を聞きに行った時に、その車と出会ったのです。



会場とは全然違った場所で、
そこが何処だったのかなんてまるで覚えてはいません。
その車は、いわゆるクラシックカーのオープンタイプでした。
最も驚いたのは、とに角大きい車だという事です。



クラシックカーというと、
普通は大体こういった小型の車が多いのですが、
その車はとに角大きかったのです。

上の写真は多分イギリスのロールスロイスだと思いますが、
これもかなり大きな車ですね。
その車もそのくらい大きかったので、ひょっとするとロールスロイスだったのか?



右側の車も大きいですが、
これはアメリカ車みたいなスタイルです。
でもやっぱり大きいと迫力が違いますね。

私がその車を見た時に思ったのは、
この車を運転したい・・でした。
私はいわゆるスーパーカーは運転したいとは、それほど思わないのですが、
こういった風変わりな車を見ると、疼くのです。





過去にはこんな車も運転した事があります。
ブルトーザーを運転したのは何と中学2年生の時でした。

そういった具合で、変わった車が、そこに在ると、
何が何でも運転したくなるのです。

でも、あの時のクラシックカーは色も派手だった。
あれはどんな人が持っている車だったのだろう?
あの車にもう一度逢いたいものです。





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パヴロワ記念館

2020-09-22 16:53:18 | 日記




藤沢~鎌倉間の七里ガ浜駅から徒歩5分の海沿いに、
パヴロワ記念館があります。(正確には在りました)

エリアナ・パヴロワ(1897~1941)というのは、
日本にバレエを根づかせた最初の人物で、
「日本バレエの母」と言われて、記念館は、
その母(ナタリア)妹(ナジデナ)らと建てたバレエ教室でした。







エリアナ・パヴロワは、母、妹と、
ロシア革命から逃れて日本にやって来ました。
アメリカかヨーロッパへ行こうとしましたが、
結局は日本に定住する事になりました。





1927年(昭和2年)七里ガ浜に、
日本初のバレエの稽古場を開設しました。
その前、大正12年の関東大震災で妹ナジデナは足を痛め、ダンサーをやめます。
エリアナは日本軍の慰問に行った中国・南京で(昭和16年)に客死してしまいました。
彼女は戦病死として扱われ、鎌倉市は市葬をもって彼女を送りました。

パヴロワらは、
東勇作・橘秋子・貝谷八百子・近藤玲子・大滝愛子・島田廣・服部智恵子・
といった錚々たる教え子を第一線に送り出したのでした。

また、アンナ・パヴロワというバレリーナが居ました。
彼女は世界中を巡演し、1922年(大正11年)には、
日本の8都市で日本公演をし、
西洋バレエを初めて日本に知らしめ、
日本にバレエが定着するきっかけを作りました。

アンナは、エリアナ・オリガと共に、
日本バレエ界の恩人(三人のパヴロワ)の一人と、数えられています。







私は故郷意識のある、東急・目蒲線(現在の目黒線)洗足駅近くに、
小牧バレエ団の教室があり、
そこでよく、こういったバレエの練習を眺めたりしていたので、
パヴロワの事にも多少興味はあったのですが。
結局は一度も行かずでした。



パヴロワの死後は紆余曲折はあったのですが、
結局、建物を引き継ぐには金銭面とか色々あったみたいで、
現在は、多分、記念碑だけが残っているみたいです。


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