河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

あ~、ダメだった~ッ!

2015-09-30 09:42:37 | 軍艦
09 10 21 観艦式・予行 ・5


海上自衛隊観艦式・ダメだった~ッ!

19日から当選者に対する発送が行なわれているのを知り、
首を長くして待っていたのですが、
今朝、ネットオークションでチケットが売られているのを見て落選を知りました。
もう、俺は死にたい気持ちです。

90枚送ったハガキは一体何だったんだろうか?
1000枚くらい送った奴の勝ちだったのかな~?
90枚なんて「顔を洗って出直して来い」だったのかな~?

でも、変だな~っと思うのは、
オークションに出品している人たちが如何にも手慣れた感じで、
素人が「行く筈だった人の誰かが都合で行かれなくなった」とは思えないのです。
何か組織だったものを感じるのです。
ハガキ一枚が52円ですから、
1000枚送ると52000円。
これでは割が合わない。
恐らく、相当大勢の人の名前を借りてやらないと商売にはならないね。

現在最も安価なので12500円。高いのは51000円。
ペアだと開始価格からして98000円。
最終日には、どれもこの数倍に跳ね上がるでしょうから一体・・・?

私が最後に行ったのが6年前。
その時は、やはりオークションで2万円でしたから、
物凄い勢いで跳ね上がってますね。
まさに、プラチナチケット。


思えば、最初に行ったのは15年前。
その時は、たまたま横須賀軍港からの帰りの電車内で、
隣に座った人から「私、行かれなくなったのであげますよ」という幸運。

12年前は10枚程度送ったハガキの内、2枚が当選。

9年前は数十枚送ったのに落選し、仕方なく、
当日の駅で、「チケット売って下さい」のプラカードを持って立っていたんですがダメ。
それならと現地に行って受付の自衛官に
「頼むから一人だけ乗せてくれ」と土下座していたら、
たまたま横を通った人が「私のが一枚余っているからあげますよ」とくれたんです。

それで6年前は2万円でオークションでゲット。

3年前はあれほどアンテナを張っていたのに、
一体ど~ゆ~訳か完全に見落としてしまい(??????)がっくり。

それで今回。
もう、俺は買わないよ。あきらめるよ。
こんな奴らに大枚何万円も稼がせる気は無いよ。

ガックリ・・もう俺は死にたいよ。

戦艦・・大和・武蔵・長門・陸奥・扶桑・山城・伊勢・日向・
金剛・榛名・比叡・霧島。
重巡洋艦・・古鷹・加古・青葉・衣笠・妙高・羽黒・那智・足柄・
高雄・愛宕・摩耶・鳥海・最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩。

私には、昔の軍艦に比べてつまらないスタイルの自衛艦ですが、
それでも、過去の名鑑に見えるのです。
その勇壮な姿を思い浮かべるだけで、もう「軍艦最高」

ダメなものはダメなんで、
でも、俺には歌声がある!
なめんじゃね~ぞ。
気を取り直して、土曜日には仙台バラライカに行って、
思いっきり唄ってきま~す。
ついでに松島に行って、スコップ一杯の生ガキを食べてくるぞ~ッ!

ザマ~ミロ、てやんで~~ッ!(涙)





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仙台バラライカ閉店の日

2015-09-27 07:16:44 | 歌声喫茶
10.6.5.仙台にバラライカあり


「東北・杜の都・仙台にバラライカあり。歌声喫茶の最高峰は仙台バラライカ」

私は常々そう言ってバラライカを讃えてきました。

最初にバラライカを体験したのは、
深浦歌声バス旅行に参加した時(2009年10月)でした。
一発でバラライカに魅せられてしまいました。
バラライカこそ「歌声喫茶」であり、歌声喫茶の最高峰でした。

この映像は翌2010年6月の映像で、
バラライカには2回目の参加で、歌声仲間を誘って4人で行った時です。

その年は10月に3回目のバラライカ。
11年・・3回。 12年・・4回。 13年・・3回。 14年・・2回。
並行して春の三神峯公園のお花見にも2回参加させて頂きました。

行くたびに顔馴染みが出来ていきました。
店長の南部さん。奥様のよし子さん。息子さんの大地君。
応援団の信太さん。仙台ロシア合唱団の団長スケ(三橋)さん。
池田さん。門倉さん。金さん。アベちゃん。神居さん。佐藤さん。
流れのギター弾きこと、柏潤さんと奥様の京子ちゃん。
その他、名前と顔が一致しない沢山のバラライカファンの方々。

行く度にそういった方々と会えるのが嬉しくて嬉しくて・・・
あの南部さんの天才的アコーディオンに乗って唄えるのが、
楽しくて楽しくて、これぞ最高の歌声喫茶時間を過ごしました。
それは、この歳になってこんなにも素晴らしい瞬間、
素晴らしい仲間たちに巡り合えた事が、まるで信じられない気持ちでした。

南部さんのアコーディオンとは一体どういうものなのでしょうか?
他にもアコーディオン奏者は沢山います。
その中には凄いレベルな方もいます。
そういった人と違う点は、
南部さんのアコーディオンは(鳥肌が立つ)という点です。
それは楽譜を正確に弾くというのとは違う次元なんですね。
その素晴らしさは他を圧倒するのです。
それが、まさに鳥肌が立つという事なんですね。

バラライカの夜は、それはそれは素晴らしい夜です。
仙台在住の方には、それがどれほど素晴らしい事かと、
あまり感じていない方も中には居るみたいです。
だって、ご近所にそれが有るのですから。
でも、私達・東京勢はその店がどれほど高い交通費をかけて来る価値があるか、
それがよ~く分かっているのです。
だから目いっぱい(その夜)を楽しむのです。

柱時計の針が進む度に、あと何時間、あと何分と、
終わりの瞬間が来る事が恨めしくなります。
私はそんなバラライカを15回経験しました。


そして、とうとうあの日がやって来てしまったのです。
2014年3月2日。
それは仙台バラライカ閉店(3月3日)の前夜祭でした。

明日はいよいよ閉店ですが、
バラライカらしい夜の歌声は、その日が最終日でした。
あの日くらい、時計の針が恨めしいと思った事は、経験がありませんでした。
一刻一刻と、その時間は迫っていました。

皆はいつもと変わらずに唄っていますが、
一曲が終わる度に、残された時間は確実に減っていくのです。
一曲・・そしてまた一曲。
その度に私達バラライカファンの胸は締め付けられ、
胸の苦しさを歌にぶつけてぶつけてぶつけていったのです。


そして、遂に最後の歌は始まってしまいました。「ケサラ」

♪押さえ切れない怒り こらえ切れない悲しみ
 そんな事のくり返しだけど 決して負けはしないさ
 ケサラ・・・・・・・・
 僕たちの人生は 平和と自由求めて
 生きてゆけばいいのさ  ケサラ・・・・・・

最後の瞬間を映像に残そうと、私はカメラを回して動画を撮りました。
しかし、撮れませんでした。
途中でカメラをぶん投げてしまったのです。
(その時の映像は私のYouTubeに出ています)

肩を組んで「ケサラ」を唄うバラライカの仲間たちの胸は、
もう張り裂けそうでした。
中には涙を流しながら唄っている人、
また中には涙をグッと堪えながら唄っている人。

あの時の事を思い出すと泣けて泣けて・・・
「終わっちゃうよ、終わっちゃうよ、バラライカが終わっちゃうよ」・・
切なかったですね、悲しかったですね~。


「東北・杜の都・仙台にバラライカあり。歌声喫茶の最高峰は仙台バラライカ」!!
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私は夢遊病者だったのです

2015-09-26 07:19:15 | 日記
夜行列車での話ついでに、もう一発。

あれは、歌声ではなくハイキング仲間と東京駅で打ち上げの帰りでした。
例によって、しこたま飲みまくった私は、駅構内で皆とはぐれてしまい一人っきり。
当時住んでいた横浜・相鉄線の二俣川駅に向かって帰路につきました。

さて、気がついた駅は何故か反対方向の日暮里。?????「何で?」
その後の記憶は完全にぶっ飛んでいるんですが、次に気がついた駅は藤沢でした。
「ついさっきまでは日暮里だったのに、何で藤沢なの?????」
果たして私は家に無事、帰れたのでしょうか?・・・・知~らない。


あれは、何の帰りだったのか?
真夏のある日、小田急線に乗っていました。
大和駅と藤沢駅の中間に「長後」という駅があります。
そこが終電車の車庫だったのでしょうか?
そこで私は電車を降りざるを得なく、仕方なく下車。

どうしようか?なんて考えるのも面倒くさく駅のベンチで寝込んでしまいました。
勿論、酔っぱらっていたのです。
気がつくと誰かが私を起こすのです。
「モシモシ・・・・」
それは多分、駅員が私を起こしていたみたいですが、
私は怒ってしまいました。
「人が気持ちよく寝ているのに、起こすんじゃね~よバカ」とか・・・

駅員もさぞ胸くそ悪かったんでしょうよ、親切で言ってるのに。
放ったらかしにされた私は翌朝、目を覚ましたら、
蚊に刺されまくって全身ブクブク満身創痍となっていました。(涙・涙)


これは、比較的新しい話なので覚えています。
新宿での歌声帰りでした。
新宿駅からは、湘南新宿ラインで東戸塚駅までの帰りです。
ですが、例によって酔っぱらっていた私は、東戸塚駅を一駅乗り過ごして、
お隣の戸塚駅まで行ってしまいました。
よくある事です。

さて、東京行きの電車に乗り換えた私は「座ったらダメだぞ」と
吊革にぶら下がって、お隣の東戸塚駅に向かいました。

気がついた先は、何と「品川駅」
目がテンになると言うか、自分にガッカリするというか、「もうイヤッ」
新宿から始まったスゴロクが、大回りした挙句に大差ない品川駅だったなんて・・・
じゃ~今までの苦労は何だったの?

おまけに吊革から膝が崩れて電車の床に(ドカッ!)っと崩れ落ち、
周囲の人達をビックリさせるハプニング付き。
私も何が何だか分からなく、ちょっとびっくりしましたが。
もし普通だったらかなり恥ずかしいと思うのでしょうが、
何せ酔っぱらっているんで、全然恥ずかしくも何とも感じないんですね。

元に戻る電車は、もう京浜東北線しかなく、
夜遅くの時間を各駅停車の京浜東北線で横浜まで戻ったのです。
しかし横浜まで行ってもその後が接続があまりうまくないので、
一駅手前の東神奈川駅で下車し、タクシーで帰宅となりました。
料金は多分5000円くらいだったか?

あのね、そんだったら鼻から新宿からタクシーで帰れば良かったじゃんか。
新宿~横浜まではタクシー代16000円なんですよ。(経験あり)


でもね、ハッキリ言って、俺ってやっぱり夢遊病なんじゃないのかな~?



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夜行列車の珍事・アレ~ッ!

2015-09-25 20:19:37 | 日記
それは、私がまだ20代半ばでの出来事でした。
そんな珍事は、恐らく生涯に二度と出会えないと思います。

会社の仕事で九州に行きました。夏でした。
確か福岡だったと思います。
当時、新幹線はまだ大阪までしかありませんでした。
帰路、大阪まで行くべく、私は夜行列車に乗りました。
寝台車でなく、普通のボックスシートの列車でした。

列車内は満員どころか通路に座って寝ている人が大勢いました。
当時の夜行列車は、大体そんな事が当たり前の時代でした。
私は運良く座席に座る事ができたので、ホッとしました。
列車が動き始めると共に、私はかなり疲れていたんでしょう。
また、まだ若かったので寝込むのも早かったのでしょう。
完全に熟睡してしまいました。

さて、福岡を出発してからどのくらい経ったのでしょうか?
私は、ふと真夜中に目を覚ましました。


その瞬間の驚愕を貴方は信じられるでしょうか?
あんなに驚いた事は、恐らく人生で初めてだったと思います。


列車内には私だけしか居なかったのです・・・
私だけが、たった一人っきりで座席に座っていたのです。
さっきまで、あんなに満員だった列車内には私以外に誰も居なかったのです。

「目がテンになる」
「呆然とする」
「頭の中がカラッポになる」
「ウッソーッ」

形容詞で言えば、多分そんなとこなんでしょうね。

しばし呆然として、この列車に何が起こったのか?と考えました。
でも、いくら考えたってそんな事が解る筈はないのです。
何だか恐ろしくなって、多分、鳥肌が立ったのかも知れません(覚えてないけど)

「呆然とする」その言葉しか思い当たりません。
そんな頭になりながら、薄暗い列車内をよ~く見ると、
向こう側の隅に、何やら人の頭らしき物が見えたのです。
「あれは人か?」
私は恐る恐るそっちへと歩いて行きました。

近づくと、それはやはり人の頭だったのです。
50歳くらいのおばさんが一人で寝込んでいたのです。
私は恐る恐るおばさんに声をかけました。

「あの~、気が付いたら列車内に誰も居ないんですけど、何かあったのですか?」
それを聞いたおばさんは大笑いでした。

その日は台風接近とかのニュースが入っていた日だったのです。
多分、広島県あたりだったと思うのですが・・・

おばさんいわく「何処だったかの駅に到着した時に車掌さんが車内アナウンスでこう言ったんですよ」
「皆さん、台風が接近してる状況で、この列車の運行もどうなるか分かりません。
現在、駅の反対側に停車している列車が先行しますので、お急ぎの方は乗り換えた方が良いかも知れません」

それを聞いた乗客(おばさんと私以外)の全員が、ドーッと向かい側に居る列車に乗り換えてしまったと言うのです。
それは、かなりの大騒ぎ・大騒動だった筈なのに、
私の目の前に居るこの若者は、それを全く知らずに寝込んでいたという姿を想像すると、
そのおばさんは、あまりにも可笑しくなって吹き出してしまったのです。

やっと、ミステリー、謎の解けた私は心から安心して大阪へと向かいました。


翌朝、何事もなく無事、大阪駅に到着し向かい側をと見ると、
あの、セッカチな連中の乗った、あの列車が少し前に到着していて、
まだ列車内から乗客が降りている最中でしたとさ・・・バ~カッ!

だから言ったろ~、あわてる乞食は貰いが少ないって。
俺なんか、心からゆったりしてるから、ま、こんなモンかな~。
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カッコ良かったのに~~ッ!

2015-09-25 01:24:19 | キャンプ
あれはいつ頃だったのか?
離婚して、ファミリーキャンプが叶わなくなった私が、
独りっきりのキャンプに行ったのは・・・
行った先は、かつて家族で2回くらい行った事のある道志川の(青根キャンプ場)でした。

その日は、よく覚えてはいませんが、
他にキャンパーが居なかったので、夏の平日のキャンプだったのかも知れません。
その頃発売された本「火花」を読む為のキャンプみたいな感じでした。
「火花」・・「いのちの初夜」の著者・北条民雄の生涯。

夜になって、たった独りっきりのキャンパー・・それが私でした。
他には・・他のキャンパーが居たのです。
それは、まだ10代のスレッカラシのいい加減な若者(バカ者)達、7~8人でした。
彼等は自分たち以外は誰も居ないも同然のキャンプ場でやりたい放題でした。
打ち上げ花火はする、大声でわめきまくる、川に飛び込んではの狂乱の限りでした。

彼等が大人しくなったのは、明け方でした。
その間、私は殆ど眠れませんでしたが、多数の彼等ばか者相手に事を構える事はできませんでした。
その情けない悔しさは、ずっと私の心に尾を引きました。


2012年5月。
私とエリカさんは御殿場の「乙女第二キャンプ場」へキャンプに行きました。
そのキャンプ場は、テントサイトは数が少ないのですが、
ロッジの数は多いといったキャンプ場です。
真正面に富士山が見える素晴らしい景色です。

夜になって、テントでのキャンパーは我々を含めて3組。
テントサイトから数十メートル先に、そのロッジがありました。

そのロッジ(多分3棟)には20~30人くらいの、大学生みたいな人達が居ました。
私達、一般キャンパーはキャンプ場の指示(それは何処でもキャンプ場の常識)にのっとって22時に就寝。
ですが、彼等はそんな事は無視して騒ぎまくっていたのです。
全員がある一棟の野外のテラスに集まって騒ぎまくっていたのです。
時刻はもう23時を過ぎていました。
うるさくて全く眠れない状態だった私は、さすがに堪忍袋の緒が切れました。
意を決して私はテントを出て大声で叫びました。

「スミマセ~ン」
私の大声に気づいた彼等が一瞬、静かになりました。

その時、私はこう言いました。
「貴方がたが、こういうキャンプ場に来て楽しい気持ちよ~く判ります」
「でも、ここには他のキャンパーも居るのです」
「学校には学校のルールがあります。会社には会社のルールがあります。
キャンプ場にはキャンプ場のルールがあります。キャンプ場では10時が消灯時間です。
ルールは守って下さい」

しばらく、彼等の声は途絶えました。
その一瞬あとに、女性の声で、こういう返答がありました。
「ロッジの中だったらいいですか?」と。

でも私はこう言いました。
「キャンプ場は10時が消灯時間なのです、ルールは守って下さい」

しばし彼等は静かになり、女性たちの混乱した声などがかすかに聞こえていましたが、
それっきり彼等は静かに寝入ったみたいでした。
私も、しばらくは興奮状態で眠れませんでした。
そんな時、テントの外を歩き廻る足音がしたので、
私は「これはやる気かな」と身構えました。

やる気ならとテントの中を見ても武器になる物が無いのです。
これには焦りました。
私のケンカは絶対に武器になる物を持ってするのです。
決して素手ではケンカはしないのです。
ケンカ相手が格闘技などの経験者だったりする事があるので、
それには武器で相手を一撃の下にノシてしまう事が絶対条件なのです。

でも、武器になる物が無い。
相手が大学生などの複数では、これはヤバイと焦りました。
でも、何事もなく夜は更けていきました。
あの足音はいったい何だったのだろう?

あくる朝、昨夜の顛末をエリカさんに話したら、
何と・・彼女はそんな事は全然知らずに白河夜船。
な~んも知らなかったと言うんですね~。

あのね~、あんときの俺はそうとうカッコ良かった筈なんだけどね~。
寝てたのね、アンタは・・・(涙)




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