阿波丸(11200トン)は緑十字船でした。
緑十字船とは、病院船の赤十字船に次ぐ、
航海の安全を敵味方で保証しあった船でした、
台湾・香港・シンガポール・ジャワなどにはアメリカ軍の捕虜が大勢いましたが、
彼等は食料などの物資不足に喘いでいました。
アメリカは国際赤十字に、彼等に援助物資を届ける様に働きかけます。
それで、その物資を輸送する為に選ばれた船が、阿波丸でした。
アメリカ軍は阿波丸の航行情報を各部隊に通知し、
攻撃しないように命令しました。
しかし、戦争末期の日本には、制海権も制空権も既になく、
安全に航行できる船など一隻もありません。
日本軍は、この千載一遇のチャンスに賭けて、
航空機・自動車の部品や弾薬など600トンを積み込みます。
昭和20年2月17日。
阿波丸は門司港を出港しました。
台湾・香港・シンガポール・ジャワでアメリカ軍の救援物資を降ろします。
それで阿波丸、本来の目的は果たされたのです。
昭和20年3月28日。
阿波丸はシンガポール港を出港します。
船長は反対したのですが、
日本軍は大量の軍事物資(約1万トン)を積み込みました。
その他に、撃沈された商船の船員480人。非戦闘員60人。
軍人、軍属820人など乗組員と合わせて2100人位が乗り込みました。
日本に向けて安全を保障された船で帰れる最後のチャンスと、
大勢の人達が阿波丸に乗り込んだのです。
阿波丸に乗る事の出来た人達は、
みな、その幸運に涙し、どれだけ安堵した事でしょう。
それが地獄への切符だったなんて、まるで知らずに。
アメリカ軍は暗号解読で、阿波丸に大量の戦時物資が積み込まれている事を知ります。
航空偵察でも阿波丸の喫水線が深く沈み込んで、
大量の物資が積み込まれているのが事実であるのを把握します。
これは、明らかに条約違反だと、
太平洋潜水艦隊司令官のロックウッド中将が、
ニミッツ大将に攻撃許可を要請しますが、返答は届きませんでした。
(という説もある?)
4月1日、深夜の台湾海峡を航行中の阿波丸を、
アメリカの潜水艦・クイーンフィッシュがレーダーで感知します。
クイーンフィッシュはレーダー照準で魚雷を発射し、
3本が阿波丸に命中。
阿波丸は瞬時に轟沈(瞬間的に沈没すること)。
船員1名が潜水艦に救助されただけで、他の全員が亡くなってしまいました。
クイーンフィッシュが潜望鏡で目視していたら、
夜間であっても煌々と照明を点け、
緑色の船体の2か所に白い十字を描いた阿波丸は一目瞭然に判別できたし、
攻撃する事はなかった筈です。
しかし、命令・伝達は微妙に戦時下のドサクサで入り乱れ、
アメリカ軍の命令はどれほど伝わっていたか?
あるいは攻撃命令を出していたのか?
それは永遠の謎です。
日本政府は戦時国際法違反としてアメリカに抗議をします。
アメリカ側もこれを認めますが、
マッカーサー元帥が賠償を強く拒否した為に、
交渉は暗礁に乗り上げます。
結局は、日本政府とアメリカ政府との政治的決着になります。
遺族にはアメリカに肩代わり的な役割となった日本政府から、
涙金程度の雀の涙が支払われただけでした。