河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

静岡サンライズコンサートに行ってきました

2024-09-28 20:36:28 | 音楽



何故、このコンサートに清水まで行ったのか?
それは、静岡県浜松の聖星高校と、その指導者である土屋史人先生が出演するからです。
私がなぜ浜松聖星高校と、土屋先生を知ったのか?
私は高校時代、ブラスバンド部に居たのですが、私の高校の姉妹校だった高校では、
「木陰の散歩道」という曲を演奏していて、それが私は大好きになったのですが、
しかし残念な事に我が校では、その曲をやらなかったのです。
それでパソコンを知り、ネットを知ってから、悔し紛れにその曲を検索したのです。

浜松海の星高校 吹奏楽部 「木陰の散歩道」


そうしたら出てきたのが、これ。
浜松聖星高校だったのです。(この頃は、校名が海の星高校でした)
この動画を観て一発で魅せられ、この高校の大ファンになったのです。
これほど音楽を楽しそうに演奏する生徒たち、それを指導する先生の素晴らしさ。
私はボーゼンとして鳥肌が立ってきました。

それを「この先生は本当に素晴らしい」とブログ書いたのは、
2017年6月11日でした。
そうしたら忘れた頃の翌年、2018年8月30日に、
浜松聖星高校の指導者の、土屋先生本人からブログに書き込み返答があったのです。
これには本当に驚きました。





翌月2018年9月9日。
第2回聖星高校オータムコンサートがあるというので、
妻と二人で新幹線で浜松北まで行ったのでした。

それ以来、私は時々聖星高校の動画を観ていたのですが、
最近、土屋先生のフェイスブックにサンライズコンサートの事が書いてあり、
それで今回は私一人だけで(妻は用事で行かれず)車で行ったのです。
時間はゆっくりあるので、敢えて東名高速は使わずに、
東海道の一般道路を4時間半かけて清水まで行きました。
しかし、たまには(地べた)を走るのは逆に新鮮味があって良かった。

現地に到着したのは11時前。
会館の隣には大きな4階建ての駐車場がありましたが、駐車料金をケチって時間ギリギリまで入らず。
車を駐車場に入れて会館に行くと、大勢の人達が会館の周りに大勢チケット買いの行列をしていました。
私はあらかじめネットでチケット予約を取っていたので、並ぶ必要はなく、
本当にホッとしました。

参加高校は4校。
「沼津商業」「清水桜が丘」「常葉大学付属、橘」「浜松聖星」の4つの高校です。
それぞれの高校が4曲を演奏します。
全部で16曲だったか、しかしその殆どは知らない曲でした。
しかし、吹奏楽独特の、あの大音量の演奏は胸を打ちます。

私が歌声喫茶を知ったのは60歳でした。
その頃、昔吹いていたラッパの演奏がまたやりたいと、
横浜の民間吹奏楽団を探したのですが、
私の演奏したいユーフォニウム、あるいはチューバに空きが無いと断られたのです。
空きが出るまで待つか?
それとも最近知った(歌声喫茶)にすべきか?

空きが出るまで待てなかった私は、歌声喫茶の道へ。
今にして思うと、楽器と歌声喫茶の両立は無理だったと思います。
それが結果的に再婚相手と知り合う事になったのですから、人生は分かりません。
とは言っても、私が本当に好きなのは今でも吹奏楽の世界です。
人間の声での演奏と、楽器を使っての演奏。
私はやっぱり楽器が好きなんです。

久しぶりに聴く吹奏楽の楽器の世界。
それはとても腹に響き、魂を揺さぶられる世界。
その魅力に憑りつかれた人は、死ぬまで忘れられません。
その世界を一生懸命やっている高校生たちは、羨ましい。
時代が違うと全体的なレベルが昔とは比較になりません。
私がやっていた頃は、楽器もボロ。技術も稚拙。
三流校だった我が校には指導者すら居なく、生徒たちの自主練習。
まるでお粗末で話にもなりません。
しかし、私の楽器好きは異常とも言えるほどで、明けても暮れても練習していました。
私は任された楽器、ユーフォニウムの音色に完全に魅せられていました。
3年生になった時にはチューバ(スーザフォン)を任され、それにも魅せられました。
とに角、楽器では絶対に他人に負けたくないと、思っていました。
だから今でも楽器が巧くなりたいと頑張ってる人は大好きです。
あれを思うと歌声喫茶で唄っている私は、「ま、所詮その程度でしょ」ですね。
楽器は素晴らしい、完全に絶対に素晴らしい。

4校の演奏曲の殆どは知らない曲、聴いた事のない曲です。
聖星高校の土屋先生が語っていましたが、
「我が校は音楽コンクールに出場はしていますが、金賞を貰った事がない」
と、やや苦笑気味に「でも私はコンクールはあまり好きじゃないんです」とも言っていました。

土屋先生の思いはずっと以前から知っていましたが、
思うに、音楽コンクールというのは、言わば審査員に気に入られる様な演奏をする、
どうすれば彼等、審査員の胸に響くか合戦みたいなトコがあるのです。
何かの評語コンクールなどあります、私はそういったのはある程度得意なんですが、
それは審査員たちに「こういった言葉には弱いよ」という言葉をチラつかせるのです。
その的が判ってしまうと、それほど難しくなく賞が貰えるのです。

大昔、ある交通安全評語コンテストがあり、私が金賞でした。
獲得した賞品は自転車でした。
受賞した評語は「雨の日は、いつもと同じ慣れた道」でした。
この評語は、「慣れた道」・・こういった言葉に審査員は騙されるのです。
そういったポイントが見えてしまうと、割と簡単なんですね。

審査員と言っても、ではどんな人達が審査員なの?
神様でも無い限り同じ人間でしょ。
人間なんて、それほど変わりはないよ、大した事ないよ。
究極のバイオリン、バイオリンの王様ストラディバリウス。
それが本物の音か、普通のバイオリンの音か?
一流のバイオリンニストの半分が見抜けなかった・・そんなトコが所詮、人間なんだと思います。
審査員って人間であって神様じゃないんだよね。
色々な音楽コンクール、ピアノのコンクールなどありますが、
金賞と銀賞に違いが何処かなんて、誰が本当に分かるのかな~っていつも思います。

そしてコンクール向けの曲(歌)がちゃんとあって、
それは、審査員にとっては見極めの尽き易いポイントがあるのかな(?)であり、
音楽的にはまるで(面白くも可笑しくもない)
言わばどうでもいい様な曲にしか、私には思えません。

そういった曲(歌)なんか一生懸命練習したって面白くないでしょう。
金賞を貰った生徒たちは嬉し泣きの涙に暮れますが、
そういった光景を何度も見てきた私達・・
でもそれを練習してる時って、本当に楽しかったのかな~?
もっと楽しい曲はいくらでもあるのに、何でそっちをやらないの。

楽しい朝


私の学校の三流ブラスバンド部では、あるメドレーを演奏していました。
それは「軍艦行進曲」の後に引き続いて演奏していた歌、
それが海沼實氏作曲の「楽しい朝」でした。
私はこの曲が大好きで、今でもその曲を演奏する時のワクワク感を思い出します。
コンクール向けの知らない曲より、覚え易い歌がどれほど感動的だったか。
それは演奏会場に居る観衆にとっても同じ思いがあると思います。

やはり演奏会は皆さんがよく知っている曲、1曲は必ず演奏してほしいと私は思います。
4校、全16曲の内に行進曲が1曲も無かったのも淋しかった。
吹奏楽のある意味、神髄は行進曲だと思っている私は、
どこか1校でも誰もが知っている行進曲を演奏して欲しかった。

歌声喫茶でも、ある司会者は「憧れのハワイ航路」が大好きで、
それが、彼の看板にもなっています。
そういった曲(歌)は、理屈抜きでいいもんなんですね。

浜松聖星高校は、他校に比べて良かった。
それは本心からそう思います。
それは、他の3校がみな知らない曲ばかりの演奏だった、
という事は、しかつめらしい顔で演奏していたのと違って、
聖星高校の生徒たちが楽しそうに、嬉しそうに演奏していたからです。

18.9.9.浜松聖星高校吹奏楽部・オータムコンサート・エンディング


プログラムに載っている曲を1曲抜いて、
土屋先生がその替わりにやった曲。それがこれです。
曲名は知りませんが「・・愛と真理でやらまいか」
(やらまいか)は遠州弁で、(やろうじゃないか)の意味。
生徒たちは、演奏する事が楽しくて仕方ない。
土屋先生は、そんな演奏をしている生徒たちを見るのが嬉しい。
これは〇〇コンクール金賞の何倍も素晴らしい。

生徒たちは土屋先生に喜んでほしい。
土屋先生は生徒たちに、この(音楽の素晴らしさ)を忘れないでほしい。
そういった感動が溢れ出ている姿に、私は感動していました。



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誇り高き男たち

2024-09-19 16:01:36 | 日記
今まで何度か「誇り高き男」「立派な最期を遂げた男」をブログで書いてきました。
今回はそういった男たちの立派な最期を時系列にまとめたいと思います。


〇  ウシャーコフ号の最期  (2015年4月28日・軍艦)



  1905年(明治38年)日露戦争の最終決戦、日本海海戦。
  ロシアのバルチック艦隊は、日本海軍の(敵前大回頭)という信じられない作戦で、
  ほぼ全滅という大敗北を喫しました。
  ロシア艦隊は四分五烈となって、ヨタヨタとウラジオスットック港を目指していました。
  装甲海防艦ウシャーコフ号(4100トン)もそうでした。
  しかし、日本艦隊の大型艦2隻に発見されてしまいます。

  日本艦隊の島村少将は「汝らの司令長官は降伏せり、汝も降伏すべし」
  という信号旗を掲げますが、ウシャーコフ号のミクルフ大佐は、
  「私はロシア海軍軍人である、栄光の為に死を辞さない」と挑戦の意思を見せます。

  降伏を拒否した敵に島村少将は感動して目を潤ませました。
  10分間で勝敗は決し、ウシャーコフ号は沈没していきました。
  島村少将は直ちに短艇を降ろし敵兵の救助にあたります。
  短艇を見送る日本兵は「一人残らず救ってきてやれよ」と声をかけます。
  皆、死を賭して戦ったロシア兵に敬意を抱いていたのです。
  救い挙げられたロシア兵の中に、ミクルフ大佐は居ませんでした。


〇  第6六潜水艇の悲劇  (2016年3月1日・軍艦)



  1910年(明治43年)4月15日、
  第六潜水艇は広島湾で潜航実験に入ります。
  しかし、海底17メートルから浮上できなくなってしまいました。
  何とか修理して浮上を試みますが出来ません。
  
  浮上して来ない潜水艇に事故を悟り、翌日にクレーンによって持ち上げられます。
  艦内は満水だった為に一日待って17日にハッチが開けられました。
  最初に艦内に入った吉川中佐は、その後、男泣きに泣き崩れたのでした。
  
  潜水艦の黎明期だった当時は、外国でも同じ様な事故があり、
  我先に逃げ出そうとハッチ周辺で殺し合いがあったりしたのです。



  しかし、第六潜水艇は艦長以下17名は全員が其々の持ち場から離れる事無く、
  全員が従容として、遺書をしたため亡くなっていたのです。

  この事故の顛末はたちまち世界中を駆け巡り、従容として死を迎えた姿に、
  世界の人々は驚愕したのです。 
  佐久間艇長の書いた遺書は、現代になっても潜水艦乗りのバイブルになっているのです。


〇  感動の実話・・海の武士道  (2016年7月13日・軍艦)

  1942年(昭和17年)2月27日~3月1日。
  第二次大戦中最初の本格的海戦が起こります。それがスラバヤ沖海戦。
  日本海軍と連合軍との巡洋艦同士の本格的な砲撃戦でした。





  イギリス駆逐艦、エンカウンター(1350トン)は撃沈されました。
  その時、乗っていたのが、サムエル・フォール氏でした。
 
  サメが多数生息するインドネシア沖を漂流する多数のイギリス兵たち。





  それを救ったのが駆逐艦、雷(いかづち)と、その艦長だった工藤俊作でした。
  最前線の戦闘海域で、船を停めて救助活動をするなど、海軍から見れば言語道断。
  それを工藤俊作艦長は、一人のイギリス兵も見逃すなと、徹底的に救いあげたのです。
  こんな話は私も全く聞いた事がありません。

  彼に助けられたイギリス兵達は一人残らず工藤艦長を尊敬したでしょう。
  サムエル・フォール氏はいつか必ず彼に会って、ひと言お礼が言いたかったと、
  日本に来日した時は80歳(くらいだった)、もう工藤俊作氏は亡くなっていました。

  凄いと思うのは工藤俊作氏は、生前その事を誰にもひと言も話した事はなかったのです。
  本当にただただ頭が下がります。



〇  戦艦ミズーリ号に特攻したゼロ戦  (2019年12月9日・軍艦)



  1945年(昭和20年)4月11日。
  アメリカ最大の戦艦、ミズーリ号に一機のゼロ戦がカミカゼ特攻で突っ込んで行きました。
  上の写真がその瞬間です。
  ゼロ戦は魚雷、爆弾を使い切った後だったのか、日本人パイロットに遺体は残りました。


  
  ミズーリ号のキャラハン艦長は「生きている時は敵であっても、死んだ者は敵ではない」と、
  大半の乗組員が反対する中を、日の丸国旗に彼を包んで水葬にしたのです。



  その後の調べで、パイロットは岡山県出身の石野節雄(19歳)と判明しました。
  アメリカ軍はこんな激戦のさなかでも、これほどの人間性で応えてくれるのですね。


〇  イギリス駆逐艦・グローウォームの最期



  1940年4月8日。イギリスの駆逐艦グローウォーム(1350トン)は、
  ノルウェー沖で作戦行動中に、乗組員1名が転落したのを1艦で捜索していました。
  その時、運悪くドイツ駆逐艦2隻と、重巡洋艦アドミラル・ヒッパーと遭遇してしまいました。


 
  重巡洋艦アドミラル・ヒッパーは14000トン、グローウォームの10倍の巨艦です。
  グローウォームは魚雷攻撃をしますが全てかわされてしまい、残るのは体当たりだけ。
  砲撃で火炎に包まれるグーローウォームがアドミラル・ヒッパーの直前を横切る姿。
  体当たりは成功しましたが深い傷を負わせる事は叶わずに沈没していきます。



  アドミラル・ヒッパー艦長のハイエ大佐は、
  絶対に敵わない敵に、果敢に体当たり攻撃をし、命を落としたイギリスのループ少佐の、
  勇気に打たれ、赤十字を通じて彼を称賛する手紙をしたためのです。


  
  イギリス軍は軍人として最高の栄誉である、
  ヴィクトリア十字勲章を、第二次大戦で最初に彼に与えたのでした。


〇 輸送船バークンヘッド号の遭難  (2023年3月15日・事件・事故)

  1852年、イギリスの兵員輸送船バークンヘッド号が、
  南アフリカ大陸南端の岩礁に乗り上げて沈没し、
  686名中420名が犠牲になるという海難事故がありました。

  この種の事故は19世紀ではありふれた事故でしたが、
  イギリス艦船の乗組員の精神的なあり様として後世まで長く伝えられる事となったのです。
  
  船には兵士480名と一般乗客50名、乗組員130名ら686名が乗っていました。
  バークンヘッド号は2月26日、進路を誤り深夜、岩礁に乗りあげてしまいました。
  そこは警戒すべき地点として知られている場所でした。
  船長は経験豊かなサモンド中佐でした。

  船長は直ちに命令を下し、暗礁からの離脱には成功するのですが、
  船体は大きく損なわれ沈没の危機が迫っていました。
  サモンド船長は兵員たちの司令官であるセトン大佐に兵士達の集合を要請しました。
  セトン大佐は全員に自分の命令に従う事を厳命し、
  勝手な行動をしないようにいましめたのです。

  大佐は全員の命を救うべく、あらゆる命令を的確に下し、それに従わない者はいませんでした。
  皆あわてる事もなく大佐からの次の命令を待っていました。
  みなは、自分勝手な支離滅裂な行動は、良い方向には何も作用しない事は分かっていたのです。
  そして、そういった我を失った悲しい最期、悲劇的で笑い者になりかねない最期。
  それだけは人間としてやりきれないと感じていたのでしょう。
  全員が一致協力し合ったのです。

  しかし、金づちだったセトン大佐は、帰らぬ人となりました。
  でも、何と素晴らしい人だったのでしょう。


〇  シャルンホルストの最期 (これはブログにはしていません)

  1943年12月26日、
  ノルウェー沖で作戦行動中の、ドイツ戦艦シャルンホルストはイギリス艦隊と遭遇します。
  




  ドイツ・・シャルンホルスト、32000トン、28センチ砲9門。
  イギリス・・デューク・オブ・ヨーク、35000トン、36センチ砲10門。
  イギリスには他に駆逐艦4隻がありました。

  ノルウェー、北岬沖海戦と言われた戦いは、
  イギリス戦艦から発射された長距離砲撃が、シャルンホルストのレーダーを破壊したのです。
  ドイツから見ればそれは実についてない事件でした。
  レーダーをもがれたシャルンホルストは、たった1艦で、
  戦艦1隻、駆逐艦3隻を相手の不利な戦いをせざるを得ませんでした。

  

  シャルンホルスト艦長のバイ少将はヒトラーに、
  「シャルンホルストは全弾打ち尽くすまで戦う」と連絡します。
  そしてまさにその通り、イギリスからの滅多打ちで氷の様に冷たい海に沈んでいきました。
  乗組員1968名中、生存者は36名だけでした。
  シャルンホルストは、打たれ強い戦艦でしたが、11インチ砲9門。
  デューク・オブ・ヨークの14インチ砲10門の前には歯が立ちませんでした。



  イギリス軍、司令官のフレイザー大将は、
  「今日の海戦では我々は勝利を収める事ができた。しかし敵わない圧倒的な敵に相対した時には、
  シャルンホルストの様に立派に戦って欲しい」と全員に訓示し、
  ドイツ戦艦の立派な戦いぶりを讃えたのでした。


どれも女性が全く登場しない男の世界の話でした。
戦争という絶対の中で、それでも最後は人間性なんだよと思わされる話。
誰だって戦争(殺し合い)などしたくない。
でも、相手を、敵をそこまで憎んでしまう悪魔の様な世界。
人間は神様が間違って作ってしまった不完全極まりない、生き物。
そういった中でも、頑張った人が居たんだ~という事に、
救われる思いがするのです。

  
   
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風見章子さん

2024-09-15 20:40:08 | 日記


私が一人暮らしを始めたのは、30代後半。小田急線、柿生駅でした。
ある日、柿生駅近くのガソリンスタンドへ行き、事務所に入ったら、
そこに、写真の女性が腰かけて店員さんと話をしていました。
私はその方を女優さんだと知っていました。
ただ名前はチョッとうろ覚えでした。
家に「日本俳優名鑑」がありましたので、すぐに「風見章子」さんと知りました。



1921年(大正10年)生まれなので、私の母より5歳若い。
あの頃は60代半ばだったんだと思いますが、
やはり女優さんというのは綺麗だなと感じました。

ずっと年上ですが、何かいい印象を持っていたので、
それからは彼女をテレビなどで見かけると、注目して見ていました。

群馬県富岡市出身。
芸事の好きだった父親の勧めで若い時から芸能界に入ったそうです。
1960年から1970年にかけて母親役が多かった為に、
「日本のお母さん」と認知されていたそうです。



私はテレビドラマで1968年~1969年頃、
毎週だったかに放映された「オヤジ太鼓」が好きでよく観ていました。
あの、悪役俳優で有名な、進藤英太郎が「顔は恐いがいいオヤジ」を演じていて、
その落差がおかしく、またそのオヤジを上手に使いこなす風見章子のお母さんが、
妙にバランス良く夫婦関係が成り立っているのが微笑ましくて、大好きな番組でした。



同じ頃、やはり柿生駅周辺で、小島三治さんも何度か見かけました。
大きな身体で、飄々と歩いていました。
トリオ・スカイラインという3人組のお笑いをやっていた人ですが、
トリオ解散後は役者として、よくテレビ時代劇の脇役などやっていました。
その頃、40代半ばだったんだと思います。
しかし、彼は2001年に62歳で亡くなられています。
一方、風見章子さんは2016年、95歳まで長生きをされたのですね。



最初の妻とも、ワンルームマンションで短い間一緒に生活しました。
柿生駅、とても懐かしい駅です。



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最多の同型艦を誇った駆逐艦

2024-09-15 07:58:25 | 軍艦


第二次大戦中、アメリカには最多の同型艦を誇った駆逐艦がありました。
フレッチャー級駆逐艦、その数は175隻という信じられない数でした。

1942年建造、排水量2110トン、全長115メートル、全幅12メートル。
速力38ノット(時速70キロ)航続距離15ノット(時速28キロ)で12000キロ。
12,7センチ(5インチ砲)5門、5連装魚雷発射管2基。
堂々たる性能を誇る、完成された駆逐艦でした。

第一次大戦中には、フラッシュ・デッカー型と言われる1918年製、
1090トンの小型駆逐艦があり、その同型艦は何と279隻でしたが、
全部が同型ではなく、大きくは3種類でした。
また時代と共に第二次大戦までに104隻が廃艦になり、
第二次大戦まで169隻が現役として残っていました。





それに対し、日本には特型駆逐艦と言われた、
吹雪型、陽炎型といわれた優秀な駆逐艦が生まれましたが、それでも38隻でした。



その全部が沈没する最前線で、たった1隻だけ生き延びた奇跡の駆逐艦が、雪風でした。
第二次大戦中に、世界中の軍艦が戦い散っていった中で、
これほどの奇跡がまさか起ころうとは、本当に信じられません。
数多の大海戦に出撃した中、殆ど死者も無く、深い損傷を受ける事無く生き延びたのです。

とは言っても、たった1艦が戦争の行方に係れる訳もなく、
フレッチャー級駆逐艦175隻の前には、なすすべありません。
大戦中に17隻が沈没しましたが、残った艦は、世界中の国に貸与されました。
日本の海上自衛隊にも2隻が貸与され、「ありあけ型」護衛艦となりました。



私が、海上自衛隊観艦式で初めて乗った護衛艦「あおくも」も、
殆どフレッチャー級駆逐艦と同じ大きさで、
私がその事にどれほど感激したことか。



余談ですが、私が最も好きな海戦映画に、1957年のアメリカ映画「眼下の敵」があります。
アメリカ駆逐艦と、ドイツ潜水艦との息詰まる戦いの映画です。
あの時のアメリカ駆逐艦はエヴァーツ型、1192トンの護衛駆逐艦です。



日本海軍、連合艦隊司令長官は、山本五十六大将でした。
山本はアメリカ留学経験もあり、アメリカという国をよく知っていました。
175隻という信じられない数の駆逐艦を造ってしまうアメリカ。
クリスマスには最前線で戦う息子にクリスマスケーキを送って来る母親が普通に居るアメリカ。
3人の息子が戦死した母親の為に、たった一人だけ残っている4男をアメリカに帰国させろと、
まるで砂漠の中から1本の針を見つけ出す様な、
ノルマンディーから、その息子を探せと命じる司令長官。



そういった国がアメリカである事を知っている山本五十六は、
戦争開始を命じられると「半年か、1年間は暴れてみせましょう」と、
ハワイ真珠湾への突撃を命令します。
山本五十六は、「絶対に勝てない、負ける」と百も承知で行かざるを得ない立場。
悲しかったでしょうね、やるせなかったでしょうね。



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傷痍軍人

2024-09-13 05:12:26 | 日記


傷痍軍人(しょういぐんじん)という人達が街中でこういった姿を晒していたのは、
いつ頃までだったか?
1970年代までは、まだ居た様に思います。
と言うのは、写真学校の同期生の父親が戦争で傷を負った人で、
その父親は街中で「物乞い」をする行為を嫌っていたそうです。
街中で彼等を見た友人が「俺のオヤジはああいった行為を嫌っていた」と言っていたからです。

戦争で深い傷を負った軍人には、恩給が出るそうで、
それがあれば、別に街中での物乞いなどしなくても生活出来るのだとも言っていました。
その辺は私には分からない事ですが、そうなのかも知れません。

小学生、中学生の時は、そういった軍人の姿をもっと見ていました。
あれを見ると、彼等と同じ年代の人達、特に女性は援助してしまうのです。
「私はこうして元気なのに、あなた方は本当に辛いんでしょうね」と、
何か彼等に対して申し訳ないというひけ目を感じてしまうのでしょうね。



「レイテ海戦にて負傷」とか書いてあると、
中学生時代から戦争の本などよく読んでいた私には、
それがフィリピンの激戦地だったと知っているので、
子供心に同情してしまうのでした。
私だって、生まれる時代がチョッと早かったら、彼等と同じだったかもしれない。
そう思って、気楽に通り過ぎる気持ちにはなれないのでした。

彼等が本当に戦争で傷を負った軍人かというと、
中には戦争とは関係ない傷なのに、嘘をついて物乞いをしていた人もいたみたいです。
「乞食は3日やったらやめられない」という事です。
でも、いくら恩給が出ると言っても、それほど沢山貰ってはいなかったんでしょうね。

朝鮮人で、その頃は「君たちは日本人なんだ」とか言われて日本軍人として戦争に行き、
負傷した傷痍軍人も沢山いたのですが、
戦争中は「君たちは日本人だ」と言われていたのに、
戦争に負けると政府は手の平返した様に、知らん顔。
日本の傷痍軍人が貰っている恩給も、彼等には1円も出ずだったそうです。
その理不尽さを、映画監督の大島渚が1963年に26分間の映画にしました。
反骨の映画監督のドキュメンタリー映画は、大きな反響を呼んだそうです。
DVDはされていないのですが、
大島渚、映画「忘れられた皇軍」とかの言葉をしつこく検索すると、
観る事が出来ます。

もう殆ど死に絶えてしまった過去の人達、男たち。
戦争という悲しい、悲惨な、忘れられない悲劇。
それを生きながら、戦争の悲惨さを訴えていた彼等。
彼等の、あの物乞い姿も、忘れてはならない大切な事でした。


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