河童の歌声

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風の電話・・それから

2023-04-18 19:23:43 | 東日本大震災
風の電話~残された人々の声


「風の電話」を書いたのは、2016年12月31の大晦日でした。
そして、それを元に作られた映画を観て、
映画「風の電話」を観てきました。を書いたのは2020年1月26日でした。

【海外の反応】日本の『何処にも繋がらない公衆電話』に衝撃受ける外国人続出!!風の電話が世界中の人々の心揺さぶり感動!!


あの電話機は、今どうなっているんだろうと思い、
ネットを見たら、残っていました。
と言うより、沢山の人達の心に深い傷を残したあの現実は、消える去る事はないのですね。

岩手日報「最後だとわかっていたなら」続編


両親、妻と子供を失い、独りっきりになってしまった男性の言葉は、あまりにも悲しい。
彼の言ってる言葉の意味をたどると、
「みんなの居なくなってしまった世界を俺一人で生きるのは辛い、生きる意味が解らない。
でも、俺が居なくなってしまったら、みんなが生きていたという証(あかし)がなくなっちゃう」
「だから俺はいくら辛くても死ぬ訳にはいかないんだ」
「助けてあげられなくてゴメン」
涙なくしては、とても聞けない言葉だった。

東日本大震災では、
震災関連死が3800人にも達してしまい、
死者、行方不明者と合わせると、22000人が亡くなってしまいました。
これは、死者の数からいったら、現在の日本に起こった戦争です。

しかし、この日本に現実に起こってしまった戦争をあまり見ようとせずに、
ロシアのウクライナ戦争には、髪の毛を逆立てて怒り狂ったりする。
私は東日本大震災には、何度でも涙を流しましたが、
失礼ながらウクライナ戦争で涙を流した事は一度もありません。
日本人は、日本人としてあの人達の現実を、現場を、
一度でもいいから見に行く義務があると私は思います。
やる事が、後先が逆だと思うのです。

石巻・・3553人。 陸前高田・・1606人。
気仙沼・・1219人。 東松島・・1133人。
飛びぬけて死者の多かったこれらの街。
今からでも遅くはありません。一度は行って、彼等の話を聞いてください。
彼等の悲しい現実を、頑張っている姿を、見に行ってください。


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あれから12年

2023-03-11 16:04:37 | 東日本大震災
東日本大震災から、今日で12年経ってしまいました。





震災後、石巻をはじめ、気仙沼・南三陸町など被災地に行って手を合わせて来ましたが、
2016年9月末に行った陸前高田が最後の被災地巡礼になりました。
その頃になると、もう津波直後の目を覆う景色は無くなっていました。



復興住宅の建設も進んできました。



しかし、屋上まで完全に水没した3階建ての建物は震災記念として残されたみたいです。

さっき、パソコンに向き合っていると、
妻がフスマを開けて部屋に入ってきました。
何だろうと思ったら「もうすぐ時間だよ~」
はて、俺はまた重要な予定を忘れたりしたんだろうか?と一瞬ドギマギしたんですが、
妻は「もう間もなく2時46分だよ」
あ、そうだったか、あの時刻だったんだ。
時計を見ながら2時46分に、二人で北の方角に向かって1分間の黙祷をしました。
その時刻になると、かつて歩いた被災地の絶望的な情景が思い出されて、
胸がいっぱいになります。

昨日、歌声喫茶ともしびに行ったら、福島県浪江町出身の吉田正勝さんが、
故郷、浪江町の現状を熱く語っていました。
あの日を境に人生を狂わされた人達の胸には、
いくら語っても語り尽くせない想いがあるのですね。



佐々木朗希投手は陸前高田出身で、当時9歳で、父親と祖父母を津波で失くした少年でした。
その3月11日の今日、チェコを相手に登板しますね。
あの陸前高田の被災少年が12年目に登板とは、何か因縁めいた思いがします。
是非、そんな思いを胸に頑張ってほしいですね。


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役に立たなかった防潮堤・田老町

2022-03-07 07:30:24 | 東日本大震災
When "Taro" disappeared 消えた田老




私が岩手県の「田老町」という地名を知ったのは、小学校の時でした。
4年生から6年生まで3年間教わった担任教師からでした。
赤いのが宮古市であり、太平洋側の真ん中くらいに田老町があります。

その先生は山形県の米沢市という海の無い町の出身でしたが、
同じ東北という事できっと田老町の事を知っていたのだと思います。
先生は田老町という町が大きな津波災害の象徴的な被災地であると教えてくれたのです。





その時から私の頭に中には「津波」という言葉がインプットされ、
後に吉村昭氏の著書「三陸海岸大津波」という本を読む事になったのでした。
度々襲ってくる津波から町を護るにはどうしたらいいか?
最良の方法は、巨大な防潮堤を築いて、町の中に海水を絶対に入れないこと。
それに尽きると、田老町は高さ10メートルという防潮堤を築きました。
これで田老町は津波とは無縁でいられると皆が安心したのでした。











防潮堤はX字型に築かれ、総延長は2,4キロに達していました。
市街地から海の方角を見ても高さ10メートルのコンクリートの壁があるのみで、
海など何処にも見えません。
途中に水門があって、人々は普段は開かれている水門から海へと出入りをしていました。

この鉄壁の護りは日本中のみならず、外国から見学に訪れる人も珍しくはありませんでした。
海岸沿いにある都市からは、その絶大な守護神は羨ましく見えた事と思います。



しかし、巨大津波は高さ10メートルを易々と乗り越えてしまったのです。
大きな地震を感じても、あの守護神があるから安心だと、
家に閉じこもったままで避難などしなかった人も沢山いました。
家からは海など全く見えないのですから、そこでどんなに恐ろしい事が起こっていたか、
それを感知する事も出来ませんでした。
それで田老町では181人の人達が命を落としたのでした。

しかし、考えようでは、高さ10メートルの護りは破られてしまいましたが、
そこに在った物、そこに居た人達が海へを流れ出す事は防いだのです。
何もかも海へと流された町に比べたら、それはまだ良かったのかも知れません。



1896年(明治29年)1933年(昭和8年)
東北地方は2度の大津波を経験しています。
特に大きかった明治の津波の後には石碑が何ヶ所にも建てられました。
「津波はここまで来た。ここより下に家を建ててはならない」と。
しかし、喉元過ぎれば何とやら・・人々はやっぱり忘れるのです。
この石碑の言い伝えさえ守っていれば、どれだけの人命が助かったことか。

津波が去った後、田老町の人達は呆然自失でした。
「あの防潮堤はいったい何だったんだ? 何の役にも立たなかったじゃないか!」

海岸沿いに住んでいながら海が見えないなんて嫌だ、と、
防潮堤に頼るのはやめて、高い避難所を設ける事にした所もあります。
津波被害を受けた三陸全体の殆どが地盤沈下という地殻変動を受け、
地面そのものをかさ上げせざるを得なくなりましたが、
田老町は、今度は10メートルを超える、約15メートルの新しい防潮堤を築きました。





「♫ 松原遠く 消ゆるところ、白帆の影は浮かぶ、
   干し網 浜に高くして カモメは低く波に飛ぶ。
   見よ昼の海 見よ昼の海・・・」
なんて、呑気な童謡など唄ってる場合じゃないよ、もう命がけなんだよとばかり、
鉄壁の要塞(万里の長城)を再び築き上げ、
津波よ、俺達はもう二度とお前らなんかに負けてたまるかの、背水の陣。

その結果を見る事は、私には出来ません。
それは2006年に79歳で亡くなった吉村昭氏が、
死後5年後に起きた、明治の大津波を超える大津波を見る事が無かったのと同じです。

東日本大震災による死者は、関連死を含めると2万人を超えるのかもしれません。
そして、未だに遺体すら見つからない悲しい人たちは2500人とかいるみたいです。
家族全員を失い、自分一人だけが生き残ってしまった人もいる訳です。
「こんな事だったら、もう死にたい、居なくなってしまいたい」と思いながら、
必死で涙ながらに耐えている悲しい人もいます。

「自分が亡くなった家族の事を想ってあげなかったら、
お前たちがこの世に生きていた証しが無くなってしまう。
お前たちを想ってくれる人が誰も居ないなんて、そんな悲しい事はない。
だから俺は、独りっきりになって泣きたい時にも、必死で生きている」

そんな人たちが生きている限り、私達はあの被災者たちを忘れてはならない。
皆さんも一度は被災地に行ってほしい。
そして、あの人達の悲しさを感じてほしい。









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間もなく、あれから11年

2022-03-05 19:02:51 | 東日本大震災
【ボカロ合唱】同声二部合唱 空より高く【猫村いろは】


2011年3月11日、午後2時46分。
私は生まれてから最大の大災害に衝撃を受けました。





3か月後に行った宮城県石巻の姿。
何もかもが津波で流されてしまった、あの町を忘れる事はできません。

しかし、考えもしなかった疫病に世界中が大混乱になり、
数日前には、ロシアがウクライナに戦争を仕掛けるなど、
世の中は大きく揺れ動いています。
そうして、あの災害の記憶は間違いなく風化してゆくのです。

ですが、2万人を超える人達の命が失われ、
今でも行方不明の方がまだ大勢いるのです。

歌声喫茶の人でも、そんな東北に行って、
彼等の心の悩みを少しでも和らげようと頑張っている人がいます。
そんな人達を応援する気持ちに私は賛同します。
原爆だ、広島だ、沖縄だ、辺野古だとかには、あまり共鳴する気持ちにはならずとも、
阪神大震災や東日本大震災によって、大切な人達を失くし、
自分だけが生き残った後ろめたさに、未だに立ち直れない人が大勢います。

これからの日本を憂いる気持ちも大切な事は理解しますが、
もう現実として起こってしまい、一日一日を死ぬ思いで独り頑張っていきている人。
私はそんな人達の心に寄り添っていきたい気持ちの方が強いのです。

家族の中で自分だけが、たった一人生き残ってしまい、
「自分が、亡くなった家族の事を想ってやらなかったら、
誰がお前たちの事を覚えているんだ。
誰がお前たちの事を想ってあげるんだ」と、
孤独に負けそうになりながら、生きている人がいます。

そんな人達の事を忘れないようにし、風化させない様にしてあげたい。



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港町ブルース・気仙沼

2021-03-18 19:01:00 | 東日本大震災
港町ブルース 森 進一


森進一という歌手は好きとは言えないのですが、
彼の持ち歌「港町ブルース」は哀愁があって好きなんです。



2011年10月8日。
私達歌声仲間、関東勢は昨年に引き続き、深浦へ歌声ツアーに行きました。
仙台バラライカの歌声までは、私も行動を共にしましたが、
翌日、私は一人だけ彼等と別れ、被災地・気仙沼へ行ったのです。
みんなは何で私が一人だけで別行動を摂るのか怪訝な顔をしていました。



でも、私は何が何でも被災地に行きたかったのです。
そして楽器も流されてしまった学校に、
若い頃、買ってもう何年も使わなくなっていたトランペットを、
寄付したかったのです。

気仙沼は勿論初めて行く地です。
仙台から一ノ関までは新幹線で行き、
そこからは大船渡線に乗り換えて行きました。
7か月前は石巻の被災地で人生で初めての大衝撃を受けましたが、
気仙沼は駅は海から遠い高台なので何の被害も受けませんでしたが、
そこからタクシーで行った海は、それは悲惨な状況でした。





石巻と同じで、凄い臭いがまだ漂っていました。



漁港岸壁の魚市場は、約1メートルの地盤沈下により、
陸地と海面が殆ど同じになってしまい、
海の中を見ると、以前は道路だった道のセンターラインが白く見えていました。



間の悪い事に、あれは日曜日だったか休日だったので、
学校に行っても誰もいないだろうしと警察署に行ったら、
被災して閉鎖していました。



困ったな~と歩いていたら目に入ったのが、この楽器屋さん。
いつまでもトランペットを持ち歩くのもしんどいし、
思い切って事情を話して、この店に学校への寄付をお願いしてきました。





そこから被災地へと足を踏み入れたのですが、
「港町ブルース」の歌碑がひしゃげているのに出会いました。
でも金属製のしっかりした造りだったのでさらわれてしまうのは回避できたのですね。



気仙沼で有名になったのが、この漁船。
第18共徳丸・300トン。
海から500メートルも奥地へと流されてしまいました。
津波の前日に整備の為に気仙沼港へ入ったらしく、
船主は「あゝついてない」と嘆いていたそうです。
この船を津波のモニュメントとして残すかという議論がありましたが、
あまりにも危険過ぎると撤去(というか解体)されてしまいました。



気仙沼までは電車が通っていますが、
その先の線路は流されたしまい、その頃は何も在りませんでした。
鹿折唐桑駅の真ん前にその漁船が鎮座していました。

石巻といい気仙沼といい、
そのあまりにも信じられない光景は、
そこに住んでいた人達の心の中までどれほど破壊してしまったのかと、
それは人として耐え難い辛さがありました。

被災地を歩けど歩けど、この世のものとは思えない光景。
自分がもしそこに居たら、自分の故郷が親が子供が親戚が友人が仲間が、
みんなもう元通りには戻れない現実の重みに、
きっと押しつぶされそうになり、人々はどれだけ泣いた事か。

そんな感慨で「港町ブルース」を聴くのでした。












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