goo blog サービス終了のお知らせ 

河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

映画、遺体「明日への十日間」

2025-05-15 04:50:01 | 東日本大震災
映画、遺体「明日への十日間」は2013年の映画です。
もうあの災害から14年も経ってしまったんですね。

2011年3月11日。午後2時46分。
その時、私は母の介護施設の1階に居ました。
普段住んでいたのは団地の8階(そこは1階に比べ震度がワンランク上なのです)
それなので、私と対応していた施設の職員が驚いて(患者達を護らなければ)と、
部屋から飛び出して行きました。
しかし、私は普段から地震慣れしていたので、彼ほどは驚かなかった。
でも、これはきっと尋常ではない地震だとは感じました。

それから3か月後に、趣味で歌声喫茶仙台バラライカに行きました。
歌声を堪能した翌日、私は独りで津波被災地の石巻に行きました。
そして、津波の被災地の光景を「見てしまった」のです。



あの瞬間の衝撃は人生で初めて経験した、すさまじい光景でした。
眼前に広がる石巻市の惨状。
それを見た人は皆、あまりの光景に胸が潰れる思いだったと思います。
そこに在った筈の石巻は、もう何も在りません。
そこで普通に生活してた人の多くが、向こうに見える太平洋へと流されてしまいました。
そんな理不尽な事が、普通に生活していた人達の全部を奪ってしまったのです。

さて、映画、遺体「明日への十日間」は、
その衝撃の日からの十日間の釜石市の現場を描いています。
釜石は石巻から北へ約90~100キロ離れています。
しかし、状況はどこでも同じでした。
石巻の後、私は津波の被災地を6回だったか行きました。
その間、歌声喫茶の人達に「どうか被災地に行ってください、
そして被災者たちの現状を見てください」と言ってきました。
私は、その被災者から「歩いている人の姿を見るだけで勇気づけられる」と聞き、
誰も歩いていない被災地を、たった独りだけで歩く私の姿を見て、
すこしでも勇気づけられた人が居たとすれば、
俺が被災地に行ったのは良かったんだなと、少しだけでも嬉しかった。

あの映画で胸を打ったのは、
寺の住職が遺体安置所を訪れ、御経をあげるシーンでした。



住職を演じたのは國村隼という(いち俳優)ですが、
彼はお経のセリフを何度も繰り返し覚えたそうですが、
実際に安置所とされた体育館に行くと、あまりの惨状に、
演技ではなく國村隼という俳優ではない、一人の人間として光景に耐えられなく、
何度も何度も言葉を詰まらせたのでした。
わかります、私も彼だったらそうなっていたと思います。
そこに在ったのは演技をする役者ではない、普通の(人間)でした。



また、遺体の歯型を採る歯科医の助手を演じていたのは、
酒井若菜という(私は全く知らない)女優さんでした。
歯型を採る仕事をしている時、医師の下泉(佐藤浩市)がやって来て彼女に言いました。
「貴女、〇〇さん、知ってるよね」
「はい、工務店の社長さんです、とってもよくしてくれました」
「・・・・・・」
「今、運ばれてきたから」
「・・・・・・」

そこからは全く言葉はありません。
ただ酒井若菜という女優の目線が全てを物語っているのです。
(エッ、運ばれたきたって事は・・・)
その無言で言葉の無い時間が凄い、そして悲しく切ないのです。
彼女の目線は言葉の域を超えて、津波に対するいきどおりを感じさせるのです。
昨日まで居た人が、今日は二度と会えない人になっている。
その衝撃を、たった数秒間の目線が語っているのです。
その目線は、アニメ映画では絶対に表現できません。
私がアニメではない普通の映画が好きな点でもあります。

映画館だけでは観られない繰り返しが、ビデオだったら何度でも観られます。
そこがビデオが好きな理由です。
好きな映画、好きなシーンは何度でも繰り返し観たいのです。

この映画は、私個人が津波災害を最も的確に見せてくれる映画だと思います。
被災地へ一度も行った事がないという人には、
今更ですが、観て欲しい映画です。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あの日だけは忘れてはならない

2025-03-12 07:09:08 | 東日本大震災
【3.11】東日本大震災を忘れないで… 花は咲く 私は何を残しただろう Flowers bloom What did I leave behind?


昨日で、東日本大震災から14年が経ち、
日本中で様々な鎮魂の行事が行われました。
私はうかつにも午後2時46分を忘れてしまいました。
来年15年目には、うっかりなどというミスはしないからね。























皆さんも、是非被災地に行ってください。
被災者たちの現実を見てください。
もう14年前の現状は殆ど残っていないでしょう、復興の景色しかないかもしれません。
でも、そこへ行けば彼等の悲しみの心に触れ理解しようという気持ちになるでしょう。

私は最初、被災地を見たい(見物)という気持ちは、
彼等被災者の気持ちを逆なでし、凄く失礼だと思っていました。
しかし、それが全く逆であり、彼等は自分達が体験した恐ろしい現実を見てくれ、
その惨状を少しでも見てくれ、そして判って欲しかったのです。
彼等が最も嫌ったのは、自粛でした。
自粛して東北に行くのはやめよう、それは失礼だから。
いえ、彼等にとって自粛される事ほど恐ろしい事はありません。
どうか東北に来て、悲惨な現実を見て、お金を落として欲しいのです。
行けば何処かの店で食べるし、宿にも泊るでしょう。
お金が被災地に落ちるという事は凄く重大です。

被災者から聞きましたが「誰か知らないけど人間が歩いている」
その姿を見るだけで勇気が出てくると言ってました。
私は独りだけで被災地を歩きまわり写真を撮り続けました。
全く瓦礫ばかりの水溜まりを避け、おまけに物凄い臭いの中を歩くのは骨が折れました。
私が歩いている姿を見た人にも、
多少なりとも勇気が湧いた人が居たのかもしれません。
殆ど歩いている人の姿など、私も見なかったし、会いませんでした。
ホテルにも勿論泊まり、食事もしました、買い物もしました。
私一人が落としたお金など微々たる金額でしょうが、それでも確実に落ち、
そのお金は被災者たちの少しだけの支えになりました。
自粛などされたらたまったものではありません。

これまでの死者は15900人。行方不明者は2520人。
災害関連死者は3808人。 死者の合計は19708人。
あの大震災での死者行方不明者は22228人です。
これは戦後最大の大事件です。ある意味、戦争です。
どうか今からでも被災地に行って、例えば(語り部)からあの日の話を聞いてください。
盛り土で以前の姿ではなくなった場所でも、
そこの昔の姿を想像し、そこで亡くなってしまった人達の事を、
すこしでも考え想い、偲んでください。
若くして逝ってしまう自分がどれほど悲しく切なく、悔しかったでしょう。
これからいっぱいしたい事があったのに、まさかこんな死に方をするなんて。
せめて遺体だけは見つかって欲しい。
家族の下に返して欲しい。

昨日は日本中で彼等を偲ぶ集いがありました。
しかし、福島の原発被災地、あそこのたちの悪い陰湿さ。
放射能さえなかったら、土地は再生できるのに、
あそこだけは立ち入りすら出来ないのですから。
それでも人には故郷がありますから、少しだけの時間を許されて立ち入る人もいますが、
根本的解決には程遠い、その口惜しさ無念さは、当事者でなければ判らないでしょうね。

皆さんも、どうか一度は東北の被災地に行ってください。
あの(戦争)を忘れてはなりません。
行って、いっぱいお金を落として来てください。
それが、貴方に出来る最大の供養ですよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地巡礼、最終章

2025-03-10 09:38:59 | 東日本大震災
2011年10月の気仙沼から4年後。
2015年12月25日に被災地、南三陸町を妻と共に訪れました。

あの日、眼下には地獄の様な光景が広がっていたのですが、
5年近い時が経過したその日は、復興の光景が広がっていました。



南三陸町の悲劇のシンボルにもなった防災対策庁舎。
高さ12メートルの建物は完全に水没し、
屋上のアンテナ柱にしがみ付いた10人だけが生き残ったのです。





この建物で最後まで避難のアナウンスをし続けた女性職員、遠藤未希さん。
職員たちの「未希ちゃん、上へあがって、上へあがって」という制止を振り切って、
最後の最後までまで避難を呼びかけ続け、24歳の若き命を落してしまいました。
まだ結婚式も挙げていない新婚さんでした。
建物の左には復興の盛土が見えています。
彼女の命を賭けたアナウンスで死なずに済んだ「未希さんありがとう」と言う人は沢山います。

妻は若くして逝った未希さんに想いを馳せ、泣いていました。



あの日、そこは阿鼻叫喚の世界しかありませんでした。
収まってしまえば、実に平和な世界なのです。



南三陸では、明神崎壮という民宿に泊まったのでした。



部屋からは、怒りの収まった平和な志津川湾が広がっていました。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2016年9月30日には、陸前高田へ行きました。



かつて7万本あったという松林は、たった1本を残して全滅してしまいました。
奇跡の1本松と言われ陸前高田のシンボルとなった松が見えました。



復興の盛り土と、新しい団地が出来上がっています。



鉄道は流されてしまったので、電車の替わりに線路があった部分にバスを走らせる、
BRT方式が移動手段となりました。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そして最後、2016年12月10日には、再び石巻へ行きました。
私は実は3回目ですが、妻は初めての石巻です。

5年前に見た、旧北上川河口には、石巻市立病院は取り壊されていました。



震災後は多くの亡霊が出て、そこに行くのを嫌がったタクシーが多かったそうですが、
2011年11月に、ダライラマ14世が石巻を供養で訪れてから、
亡霊はピタリと姿を現わさなくなったそうです。
しかし、「幽霊でもいいから逢いたい」という人も多かったと聞きます。





まだ献花台に人は絶える事なく、涙を誘います。





津波はここまで来たよという、高さ6,9メートルのポール。



私が初めて見た、衝撃的な石巻市街地は全てが更地になり、
復興記念公園となるそうです。と言うか、もうなっているのかもしれません。



あの火災で焼け落ちた門脇小学校も、それを残す事はせずに、
大きな池などを含む一大公園になるのですね。


あまりにも大きな災害でした。
私は被災地を5回(厳密には6回)訪れ、日本人として命を落した人々の悲しみは忘れない。
忘れてはならないと、強く思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地巡礼、気仙沼

2025-03-10 04:25:04 | 東日本大震災
2011年10月9日(日)
東京の歌声仲間達は青森県、深浦ツアーに行きました。
まず1日目は仙台バラライカでの歌声です。

仙台に着いた日は、皆で仙台観光です。





そして、あの歌声喫茶、仙台バラライカでの楽しい夜。



ホテルでの一夜が明けた翌日、皆さんは一路深浦へ。





しかし、私一人だけが何故か深浦には行かなかったのです。
皆は「河童さん、何で深浦に行かないの?独りだけで淋しいでしょう」と怪訝な面持ち。
でも私は何が何でも津波の被災地に行きたかったのです。
行ったのは気仙沼でした。
気仙沼駅は海から遠い高台にあるので、津波の被害は受けていません。



まず行ったのは気仙沼港でした。
この漁港の写真を見て、何かを感じられるでしょうか?
そうなんです、地盤が約1メートル沈下して、海と陸との高低差がほぼ無くなってしまったのです。





水の下には、かつて道路だった時の白線が見えるのです。
それを目の当たりにするのは、かなり怖かった。
こんなになっちゃって、これをどうしたらいいのか?



津波から約7か月近くが経っています。
その間、何が変わったのか?ほとんど変化していないのです。
流石に邪魔だった壊れた車の撤去だけは終わっていましたが。





私は気仙沼に、昔買ったトランペットを寄贈したいという思いがありました。
被災地の学校では楽器を流されて演奏が出来ないと聞いていたからです。
そのトランペットは私が20歳の頃、36000円という高価な物でした。
でも、もう使っていないので、それを使って貰えれば嬉しいのです。



しかし、その日は祭日だったので学校はお休み、
警察署も津波で被災し、閉じられていたのです。



どうしたものかと困っていると目に入ったのが楽器店でした。
この楽器屋さんに事情を話し、何処かの学校で使って下さいと委託したのです。
あのトランペットはその後どうしたのかな~?



しかし、津波の恐ろしさは想像をはるかに超えています。
この、橋の欄干、こんなにもひしゃげてしまうのです。



そして被災者たちの仮設住居。
どうにも不便極まりない場所にあり、そんな場所には長く住める筈はありません。
行政はもっと被災者たちの事を真剣に考えるべきです。
貴方がこんな不便な、ただ住めるだけの場所に居られますか?
それは絶対にあり得ない。



私は歌声喫茶の人達に「一度は被災地に行って下さい、日本人として絶対に行くべきだ」
と訴えました。
外国の戦争を見て「戦争ハンターイ」それは違うよ。
戦争は日本で起こってしまったんだよ。
日本を見ずして、外国ばかり見るのは違うよ、綺麗ごとだよ、そう思っています。

歌声の皆が深浦でたのしく唄っていたその夜、



私は高台にあり津波被害を受けなかった「ホテル観洋」に泊まりました。
そこに泊まっている人の殆どは、復興支援の工事関係者だったみたいです。









翌朝、私が行ったのは大船渡線の鹿折唐桑駅でした。
駅前には、超、有名になった大型漁船が陸に乗り上げています。
そこは海から500~600メートルも奥に入った場所なのです。
津波の威力をまざまざと思い知らされます。





また、森進一の「港町ブルース」の碑もありました。
金属製のその碑もねじ曲がっていました。









この悲しい、壮絶な姿を見ないで、何が「戦争ハンターイ」なの。
戦争はここで起こってしまったんだよ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間もなくあれから14年

2025-03-09 19:31:42 | 東日本大震災
2011年3月11日。午後2時46分。
東日本大震災が発生しました。

私は、交通事故で大破して死んだ人の遺体を見た事があります。
私の10台くらい前を走っていた乗用車が、朝の通勤時間で焦ったのでしょうか、
追い越し禁止左カーブで追い越しをかけました。
後から見ていた私は「あんな場所で無理な追い越しをして」と思っていたら、
前から来た大型タンクローリーと正面衝突。
乗用車はそのトラックのタイヤに前から後まで踏み潰され、完全に木っ端みじん。
乗用車の車種が何なのか全く分からない(コロナとかクラウンとか)状態で、
運転手の遺体は無かったのです。
全部が粉砕されひき肉となって、頭も身体も全くの肉片、ミンチでしかなかったのです。
それが私の人生で最大のショッキングな光景でした。

しかし、東日本大震災で見た光景は、それを遥かに上回るショックでした。
津波から丁度3か月後、仙台の歌声喫茶バラライカに行きました。
そして翌日、私は独りで石巻の被災地に行きました。
石巻の日和山(ひよりやま)公園の高台から太平洋側を見た時の衝撃!
そこに在った筈の街並みが完全に無くなってのっぺらぼうになっていたのです。
そんなのって考えた事も、見た事もある筈がありません。
もう呆然として立ちすくみ、ただ涙が出てきました。

その光景を映像に収めてきましたので、改めて見てみたいと思います。

日和山公園の高台に立ち、まず見たのはこの光景でした。
向こうに見えるのは太平洋。
この下には市街地が在り、沢山の人達の生活があったのです。
しかし、何もかも根こそぎ流れ去り奪われてしまいました。
一体何千人の尊い命が失われてしまったのか・・



日和山には多くの人達が献花をしていました。



高台から旧北上川の河口付近を眺める人々、石巻市立病院の建物が悲しい。



そんな中でも健気に建っている家がある。その差は何なのだろう?



震災遺構となった日和山の真下に在る、門脇小学校。
津波に襲われ、その後の火災で丸焼けになってしまった。



まだ3か月の市街地には強烈な臭いが漂っていました。



交通事故でも、ここまで完全に壊れた車はまず見ない。津波の恐ろしいパワーを感じます。



地震発生は午後2時46分。ここを津波が襲ったのは3時32分だったのですね。



門脇小学校の跡。



この小学校の当時の様子を思うと、ゾッとします。



こんな車があちこちに山積みになっていました。



成人式の記念写真。こういった残された写真を回収し、持ち主に返還する、
そういったボランティアさんが居ましたが、この娘さんは・・



これには泣かされました。
「みどり薬局跡地」このご夫婦は行方不明になってしまいました。



どこを歩いたらいいのか、ただひたすら私は歩き、写真を撮りました。
とに角凄い臭いなのです。



市立病院の中だったか、建物は残っていますが、中はグチャグチャで使い物になりません。



待合室も終わっていました。



地盤が沈下してしまい、水が引く事はありません。



寺の墓石は全てが倒れてしまって、これをどう復興するのか?
津波の被害というのは、信じられない恐ろしさです。



普通に生活を営んでいた人達が、
誰のせいでもなく、自然のいたずらで命を失い、それまでの幸福を奪われる。
自然の前に人間などひとたまりもなく翻弄され、なすすべ無し。
それが自分だったら、それによって大切な家族、友人を奪われたら、
どうにもやり切れない思いで声もなく打ちのめされるだろう。

家族全部を失い、残されたのは自分一人。
もし自分が死んでしまったら、愛する家族の事を誰が想ってくれるのか?
それを想い、愛おしみ懐かしむ、それを後世にどう伝えるのか?
それが出来るのは自分一人だけしか居ないのだ。
お前たちがどれほど愛すべき人間だったのか、子供だったのか、
俺たち家族は幸せだったよな、普通に平和に愛しながら精一杯生きてきたんだよな。
俺はお前たちの事を皆に伝えていくからな、愛し続けているからな。

そんな思いがそこには在った。
目を覆う様な光景を眺めながら、涙が流れて仕方なかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする