河童の歌声

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うたの世界から

2018-04-25 19:34:08 | 歌声喫茶




歌声喫茶「ともしび」から発行されている冊子、
「うたの世界から」全8冊がとてもいいですね。

一冊64ページ程度、そこには12~15くらいの、
歌にかかわるお話が載っています。



これは書いたのは、ともしび司会者としてお馴染みの、
そして(山の歌特集)の司会者でもある、中西明さんです。

中西さんは、2003年から、これを書き始めたそうです。
最初は軽い気持ちで連載を引き受けたそうですが、
始めてみると「これは大変な事を請け負ってしまった」と気付かされたそうです。

それは私にもよく理解できる事です。
私のこのブログもそうなんですが、
書くという事は、そしてそれが公になるという事は、
いい加減な事は書けないという事ですから大変と言えば大変なんですね。

ですが、私のは書きたい時に書けばいい。
書きたくない時は放ったらかしでいい、なんですが、
連載というのはまるで違います。
その上、責任感は、私のブログとは天と地ほどに違うのです。
ですから、これを書いた中西さんは実にしんどかったんじゃないのかな・・

こういうのは書いた方の人間性がもろに出ます。
これを読むという事は、中西さんという人の人間性を読む事でもあるのですね。
中西さんは、人間性が優しく豊かな方ですね。
ですから、読んでいて涙ぐむ事が多々あるのです。

たかが歌、されど歌。まさにそういう感じがするのです。
いつも歌声喫茶で楽しいだけで唄っていた歌に、
これほどのドラマがあったという事は、実に含みがあります。
時として考えさせられたり、笑ったり涙に暮れてしまったり・・
やっぱり人間っていいんだよな~、なんて感傷的になったりするのです。

歌声喫茶で唄いながら涙に暮れているシーンは何度も見ましたが、
歌というのは、それだから歌であり、
歌なんて無くたって人間は生きていける(筈)なんですが、
違うんですね、人間は歌が無いと生きてはいけないのだと思うのです。

私達が今まで生きてきて、歌がその人生に何も関係が無かった、
なんて人は居ると思いますか?
その程度の差はあれど、多かれ少なかれ人は歌と係わってきましたよね。

そういった歌に係わる数々のドラマ、想い。
それを読むという事は私はとても楽しかったし、
自分の人間性、人生などが交錯して、とても良かった。

いい本をありがとう。








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少年ケニヤ

2018-04-21 21:53:35 | 日記


昔、「少年ケニヤ」という漫画がありました。
漫画というより、漫画調の挿絵のある小説だったかな?
私も少年時代にワクワクしながら読みました。

1951年~1955年に産経新聞に連載された。
原作は山川惣治。

アフリカのケニアが舞台ですが、本のタイトルでは「ケニヤ」ですね。
孤児になった日本人少年ワタルがジャングルを舞台に冒険をする物語。
この漫画は大人気となり、
1961年~1962年までNET(現、テレビ朝日)で放映。





山川惚治氏は、この本で、
1954年には画家部門で長者番付一位になります。
しかし、人気が退潮し、山川は1967年にタイガー書房を設立しますが、
1968年にタイガー書房が倒産して山川は財産を失います。

その後、横浜・根岸にドルフィンというレストランを経営。



ドルフィンは横浜・山手の昔の根岸競馬場跡。
現在の根岸森林公園の向かい側、
根岸の石油コンビナートを見おろす高台にあります。



そのドルフィンも山川が手形詐欺に遭った事で破産。
私は、そのドルフィンに一度だけ行った事があります。
一緒に行った人が思い浮かばない、という事は多分一人で行ったのだと思います。

店内には少年ケニヤの絵などが飾ってあったのを覚えています。
当の山川氏が居たかどうかは記憶にありませんし、
大体、山川氏の顔を知らないのですから・・・

そのドルフィンは、松任谷由実の歌にも登場します。

海を見ていた午後


1983年、
山川惚治氏の窮状を知った、角川春樹が即断、即決で、
角川書店にて大量の復刻版文庫と映画などで復活します。

山川惚治は、「少年ケニヤ」一本で財を成し、
波乱万丈の人生を送った人だったのですね。

1992年、千葉で84歳の生涯を終えたそうです。





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日本じゃ売れないヒュンダイ

2018-04-21 06:20:31 | 自動車
以前は、多少ではあったが日本でも見かけた韓国ヒュンダイの自動車。
それが、今やまるで見なくなってしまった。

カナダでトップだったか?かなり凄い売り上げを見せた事もあり、
それから日本にも入ってくる様になった。
その頃、私もマイカーとして走っているのを見かけた事もありました。
しかし、それ以後はまるで売り上げは伸びず、
日本に居残っているのは、個人タクシーの車だけ。

個人タクシーは安価で、チョッと高級車的な香りのする、
という事でヒュンダイを購入したのかもしれない。
しかし、それは営業用だからであって、一般ユーザーにはうけなかった。

今、日本でヒュンダイの車を見たという人は居ないんじゃないのかな~?



既にディーラーなど見た事もない。
ディーラーが無いんじゃ、車など買える筈もない。

そもそも韓国製には、日本のパクリが多い。
これがイメージを悪くしている。



これは日本のホンダのマーク。



そして、ヒュンダイがこれ。
これじゃ真似、盗作と言われるよ。



これはヒュンダイの最高級車なのかな?
まるでベンツのパクリ。





こういった時代の最先端を行くみたいな、
カッコいいスポーツカーも造っている。
でも「これもどこかのパクリか?」と疑心暗鬼になってしまう。

日本人のベンツ好きは知られた事ですが、
それは一流品に対する憧れ。
というか、(舶来高級品・外車)に対するコンプレックスの表われ。
この思考にヒュンダイはまるで入らない。
ヒュンダイの真似っこ、パクリなどは、むしろ汚らわしく思えるのです。

日本人は車には優越感を感じたりしたいのですね。
そんな日本的心情に、ヒュンダイは失格なんです。
いわゆる発展途上国というか実際の心情として、
(後進国)の車などに優越感などある筈もないのですね。

そして、もっと視野を現実に戻すと、
衝突衝撃実験では、韓国車は不合格。
日本のスバルなどと比べると、死に直結する様な車なんです。
こんな車は、いくら安価で買えようが、とても買えた代物ではありません。
命あっての物種です。
もし韓国製のタクシーが来たら、私は乗りたくありません。
安全性などまるで無視の、カッコだけの高級車だったりなんですから。



始めて台湾に行った時、乗った車がヒュンダイでした。
夜の桃園空港に降り立ち、ゲートを出ると、
顔馴染の台湾女性が仲間達と出迎えに来ていました。
キャーという黄色い声に出迎えられ、私はチョッとしたスターみたいでした。

彼等4人と一緒に台中まで乗った車がヒュンダイだったのです。
それが何の車か夜だったし分からなかったのですが、
私はベンツの小型車だと思っていました。
夜が明けてホテル前の車を見て、初めてヒュンダイだと気づきました。

それが、この写真の車だったかは分かりませんが、
ちょっと見、コンパクトベンツだった、そんな形でした。

これからヒュンダイは日本に再上陸するのでしょうか?
今の時点では、私はとても困難な道だと思います。

ブランドが何だ?安全性が何だ?
車なんか安けりゃいいやという若者達でも増えてくれば、
まだ見通しは明かるいんですが、
昔のままの価値観で車を見ている世代には、
いくら頑張っても韓国製の自動車は日本では売れないでしょうね。

日本では、いわゆる外車(舶来高級品)がいいんであって、
後進国の車では、ステータスシンボルにはなり様がないんですね。

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蒸気タービンの登場

2018-04-17 14:47:59 | 軍艦


世界中の船が帆船だった時代。
船の航行は、まさに風まかせでした。
その速度は時速12~13ノット(時速23キロ)とかいった程度でした。

1769年。
イギリスのジェームス・ワットが、
既存の効率の悪いニューコメント式蒸気機関を改良し、
新しい蒸気機関(レシプロ往復蒸気機関)を開発します。





しかし、蒸気機関の信頼性は薄く、
蒸気機関を搭載した船であっても、帆を備えていました。
エンジンが止まってしまったら帆走で航行するのです。
と言うか、殆どを帆走でやり、無風になった時だけエンジンを回したのです。

1880年頃には蒸気機関の信頼性が増し、
急速に帆船は世界中から消え去っていきました。

ですが、レシプロ蒸気機関は、
製造コストが安い、故障しにくい、構造が単純である故に、
保守・整備・操作が容易という利点はあるのですが、
ひとつの限界点がありました。
速力が限界点に達していたのです。

1897年(明治30年)
イギリスで世界の船舶界を揺るがす大事件が起こりました。

6月26日。
ポーツマス軍港でイギリス海軍の観艦式が行われていました。
この時、居並ぶ艦艇の列の間を一隻の小型艇が猛烈なスピードで駆け抜けて行ったのです。



その速さは、船として誰しも見た事の無い猛烈な速さだったのです。
既存の船がどうあがいても出せるのは、
21~23ノット(時速42キロ)程度だったのに、
その小型艇は34,5ノット(時速64キロ)で駆け抜けて行ったのです。

観艦式の軍艦に整列していた数千人の海軍将兵たちは、
目の前の出来事に度肝を抜かれ、仰天し、ただ呆然とするばかりでした。



この小型艇は蒸気タービン機関を発明し、開発した、
チャールズ、A・パーソンズの開発チームが製造した(タービニア号)でした。
パーソンズは1884年にタービンに成功したのですが、
海軍関係者は大きな興味を示さなかったのでした。

この事件以降、イギリス海軍はタービン機関を、
艦艇の主機関として正式に採用したのです。
そしてイギリス海軍のタービン機関正式採用は、
衝撃的軍艦を製造する事で世界中を驚愕させたのです。



それが、一夜にして、世界中の既存の戦艦を旧式艦に叩き落し、
「超ド級」の言語を生み出した、
戦艦・ドレッドノートでした。
ドレッドノートは世界で最も早くにタービン機関を採用した戦艦だったのです。



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母の夢を見ました

2018-04-10 01:07:33 | 日記
昨夜、母の夢を見ました。

母の夢を見る・・一体何十年ぶりか記憶にもありません。
もし見たとしたら、まだ子供だった頃みたいな気がします。
好きな女性の夢は何度となく見ましたが、
母の夢をね~・・・・

一昨日、聞いた歌「眠りの精」を、母が口ずさんでいた(多分)
その事が何か心の引き金となったのか?
人間の心などというものは、計り知れないものですね。

夢の中の母は、私には秘密で何かの創作活動をしていました。
そういえば私の母は絵が上手かったし、
音楽的な才能もそこそこ有った様に思います。
でも、何で息子である私に隠れてするんでしょう?

そこらが(夢)の夢たる所以なんですね。
支離滅裂、それでいて何か核心を突いている・・

その精神的専門分野は分かり様がありませんが、
何故か、ドキッとしたりする点が摩訶不思議です。


津波被災地の石巻では、
夜になると被害者の幽霊が多数、出没し、
タクシーはそこに行くのを嫌がったそうです。
しかし、亡くなられた方の身内の方は、
「幽霊であってもいいから、逢いたい」
そう訴える人が多数いたそうです。

ダライラマが被災地を訪れ、亡くなられた方々の法要を行ってから、
幽霊はパタッと出なくなったそうです。

私は何十年ぶりかで母の夢を見て、
彼等、津波被災者たちの気持ちが解る気がします。
例え、それがどんな姿であれ、あの人に逢いたい、
という人間としての本能は、心は・・
もう、どうし様もない程のたかまりで、本能を揺さぶるのです。

実を言うと、
私は出来る事ならば、もう一度母に逢いたいと思っているのです。

もう、二度と逢う事は無いかもしれない。
だからこそ、昨夜の夢をもう一度見たいと願っているのです。
女々しいと貴方は言い切れますか?
それとも、それこそが人間の本質だと思いますか?

・・・でも、やっぱり、もう一度、母に逢いたい。




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