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河童の歌声

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ユンカース急降下爆撃機

2025-06-15 07:02:09 | 軍事
Dunkirk - All Stuka Bombing Scenes


この動画は、2017年製の映画「ダンケルク」です。
第二次大戦初頭1940年5月。
イギリス・フランス・ベルギー・カナダの連合軍約30万人の兵士達が、
フランスのダンケルク海岸に追い詰められました。
勝ち戦に乗じたドイツ軍は、そんな彼等を爆撃で追い込みます。
それがユンカース急降下爆撃機、スツーカです。
スツーカとは急降下爆撃機を意味します。



爆撃機というのは、普通は高度を維持しながら水平飛行をし、爆弾を投下するのですが、
爆撃機が目標に向かってまっしぐらに急降下しながら爆弾を投下すると、
命中率は格段と正確になります。
また、急降下時に発する異常な音は、心理的に相手を恐怖に叩き込み、
襲われる側はその恐ろしさ、恐怖におびえ切ってしまいました。

連合軍は30万人の兵士達を救おうと、
船という船をかき集め、貨物船は勿論、漁船、個人的なヨット、
海に浮かぶ舟なら何でもいいとかき集め、30万人の兵士達を救ったのです。
30万人の無抵抗の連合軍に襲い掛かるユンカース急降下爆撃機。



子供の頃、家にあった絵本に、このユンカース急降下爆撃機が描かれていました。
足(車輪)が引っ込まなく、外側に出っ張ったままの、
ユンカースの姿は、子供心にカッコイイと思っていました。

連合軍の兵士達から見れば、その姿と襲い掛かる音は悪魔です。
抵抗も出来ない彼等から見れば、どれほど恐ろしかったか。
でも、戦争の意味も知らなかった子供から見れば、カッコ良かった。

そして、ドイツ軍のパイロットだった、ナチスの高官にも、まるで子供みたいに、
急降下爆撃機に惚れ、その戦法の実現に尽力した将軍も居たのです。



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ゼロ戦

2025-04-03 13:46:31 | 軍事
「ゼロ戦」という言葉を知らないという日本人はあまり居ないと思います。
それが第二次大戦中の、日本の戦闘機だったとは知らないにしても、
「ゼロ戦」という言葉だけは聞いた事があるという方は、きっと多いと思います。



「ゼロ戦」は戦時中の日本の戦闘機でした。
正式名称は「零式(れいしき)艦上戦闘機」です。
(零)とは何を意味するのでしょう。
それは紀元2600年(昭和15年)を意味します。
2600年の末尾0を採って零(ゼロ)と言うのです。
アメリカ軍はゼロ戦を、ゼロファイターと呼んでいました。
なので紀元2599年の飛行機は、99式〇〇機と呼ばれ、
2601年製の飛行機は、1式〇〇機となります。
余談ですが、この年に生まれた女性には「紀子・のりこ」と名付けられた女性が多くいました。
個人的ですが、私も紀子という女性と縁があり、
紀子という名前の女性と出会うと、昭和15年生まれなのかな?と思ったりします。

いち航空機の名称が何ゆえにそれほど有名になったのでしょう。
航空機でゼロ戦を越えて有名になった航空機は・・無いのでは・・
なぜ、ゼロ戦はそれほど有名になったのでしょうか。
ゼロ戦は、とにかく(強かった)のです。
ゼロ戦と戦うアメリカの航空機でゼロ戦に勝てる戦闘機はありませんでした。

艦上というのは航空母艦から飛び立つので(艦上)なのです。
日本には(空軍)はありませんでした。
アメリカにも、イギリス、ドイツ、イタリア、など、
他の国には空軍は当たり前に在ったのですが、日本には無かったのです。
日本の航空機は、海軍航空隊と陸軍航空隊との2つがありました。
ゼロ戦は海軍航空隊でした。



陸軍にも有名な戦闘機がありました。隼(はやぶさ)です。
加藤健夫中佐という有名なパイロット率いる、
加藤隼戦闘隊という歌が作られるほど有名な軍人であり、機種でもありました。

しかし、戦闘機としての優秀性は、何と言ってもゼロ戦でした。
ゼロ戦の設計者は、堀越二郎という人です。



堀越は海軍から優秀な戦闘機を造って欲しいという要求を受けたのですが、
それは例えれば、十種競技の全てに最優秀であって欲しいという難題でした。

堀越が造ったのは、航続距離と戦闘能力に優れた機種でした。
それまでの戦闘機は航続距離が短かったのです。
例えば96式(昭和11年製)戦闘機は1200キロでした。
しかし、ゼロ戦の航続距離は3000キロもあったのです。
後の航空戦で有名になった、ラバウル航空戦。
日本軍の基地ラバウルとアメリカ軍基地のガダルカナル島とは1000キロもありました。
それは東京から九州までの距離です。
1000キロ彼方の島に目指すのは、かなりの能力が要求されます。
迷子になってしまう可能性が大きいのです。
有名なパイロット、酒井三郎は島を目指し真っすぐには飛ばず、
少し左(左なら左、右なら右)と決めて飛びました。
左だったら、島が何処に在るかが分からなくなったら、右側だけを探せばいいのです。
真っすぐに飛ぶと、一体どっち側を探せばいいのか分からなくなるのです。

そのくらい遠い島まで飛んで、アメリカ機と戦うと、
燃料が足りなくなって戦闘を中止して帰らなければなりません。
ですから、航続距離が大きいというのは凄く重要なのです。
日本の戦闘機の撃墜王でもその数は、76機とかみたいです。
しかし、ヨーロッパ戦線では、その撃墜数は352機と桁違いです。
それはヨーロッパ戦線では飛行距離が短く、いわゆる近場。
太平洋の戦いみたいに1000キロも先での戦闘ではないからです。

なぜ、ゼロ戦はアメリカ戦闘機に比べ強かったのか?
それは戦闘能力、旋回性能が良かったからです。
アメリカ機は、ゼロ戦より回転能力に劣り、ゼロ戦に背後を取られてしまうのです。
背後を取られるというのは、すなわち死を意味します。
何故それほど旋回性能が良かったのか?それは徹底的な軽量化でした。

1942年、アリューシャン列島のアクタン島にゼロ戦が不時着しました。
それは殆んど無傷のゼロ戦でした。
アメリカ軍はそのゼロ戦を徹底的に分解し、研究したのです。
そしてゼロ戦がなぜ強いかが解明されました。

ゼロ戦は攻撃するには強い。しかし敵から攻撃されると弱いのです。
軽量化の為に防御力がまるで無いのです。
アメリカの戦闘機はパイロットを護る為に操縦席の周囲に防御板を設けていました。
防御板というのは厚みの為に重いのです。
アメリカという国は人命を最優先するのに比べ、日本は人命を無視したのです。
そういった国なので、カミカゼ特攻隊などという馬鹿げた戦法をするのですね。



アメリカはゼロ戦に対抗できる戦闘機を開発しました。
その中にヘルキャットという戦闘機もありました。
ゼロ戦の写真と見比べると、パイロットに比べ機体が大きいのです。
それは大きなエンジンを積んでいるのと、
パイロットを防御する為の防御板の厚さと重みの為です。

ゼロ戦の圧倒的な強さは、そういったアメリカ軍の前に徐々に強さが失われ、
戦争中期からはそれほどアメリカ軍はゼロ戦を恐れなくなっていきました。
しかし、日本人にはゼロ戦のファンは多いですね。
その強かった時代のドラマが数々ありましたからね。



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学童疎開船、対馬丸の悲劇

2023-08-27 08:25:52 | 軍事


1944年(昭和19年)8月22日。
沖縄から九州への学童疎開船、対馬丸がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没しました。



戦争が激しくなり今後、激戦が予想される沖縄から、
一般婦女子、学童らを安全な内地へと避難させる事を政府は決定します。
学童の家族たちは、一般の貨物船ではなく、
防御力もあり、スピードの速い軍艦での避難を望んでいましたが、
そんな軍艦などあろうはずもなく、一般貨物船での疎開になりました。
疎開船は3隻で、いずれも6800トンクラスの旧式で低速な貨物船でしたが、
700トンクラスの小型護衛艦が2隻が彼らを護っていました。

対馬丸には、一般人、疎開児童の1800人が乗っていました。
和浦丸には、学童のみが、1500人。
暁空丸には、一般人1400人。
学童には、初めて沖縄以外の地、内地に行く者も多数いました。
彼等は初めて見る本土に期待に胸をワクワクさせていました。



1800人中、生存者は300人。
死者1500人中、学童は約800人でした。
これが、学童のみが乗っていた和浦丸だったら、学童の死者はもっと多かったのかもしれません。

8月22日、午後10時頃、対馬丸はアメリカ潜水艦の魚雷攻撃で沈没。
対馬丸以外の2隻の船も護衛艦も、潜水艦からの攻撃を恐れ、
救助活動をする事なく、退避行動を取った為に、生き残った人達は見捨てられた形でした。
また、ようやく助けられて内地などに帰った人達には、
日本軍から対馬丸沈没の悲劇を語ってはならないという緘口令(かんこうれい)が敷かれました。
そんな悲劇が伝わると、疎開命令に従わない家族などが出て、支障が出るからです。
ですから、対馬丸の事実が調査される事もなく、生存者たちの苦悩は解決されないままでした。

1942年(昭和17年)6月。ハワイ真珠湾攻撃の開戦からたった7か月後。
日本海軍はミッドウェー海戦で、歴史的大敗北を喫しました。
海軍が誇る虎の子の正規空母4隻全部を失ってしまったのでした。
それは、これからの戦争継続を優位に進めるのが難しくなってしまったという事実に、日本軍は色を失います。
海軍は、ミッドウェーで生き延びた兵士たちを集め、
彼らを更なる激戦の最前線に送り込み、死に追い詰めるのです。
それは敗戦の事実を隠す為の、体のいい緘口令です。
日本軍というのは、そういった事を平気でする軍隊なのです。



先日行われた沖縄の、対馬丸慰霊碑での式典も、
年々生き残った人の数は減り、またそれを後世に伝える語り部も、殆ど居なくなっています。
そういったニュースが流れていました。

アメリカ潜水艦の艦長は戦後、「乗っているのが学童だと知っていたら、攻撃はしなかった」
と述べています。
私はそれは本当の言葉だと思います。



潜水艦映画として有名だった「Uボート」
ドイツの潜水艦は、イギリスの輸送船団を発見して魚雷攻撃をします。
しかし、敵から猛烈な爆雷反撃を受けて、逃げ回ります。
やっと敵の攻撃を回避して海面に浮上すると、
そこにはまだ沈んでいなかった貨物船の燃える姿がありました。
艦長は「まだ沈んでいなかったか、しぶとい奴だ」ととどめの魚雷を打ち込みます。
激しく爆発し炎上する貨物船ですが、そこにはまだ生存者が残っていました。
潜水艦の艦長は「まだ彼らを救助していなかったのか、時間はいっぱいあったのに」と驚きます。
貨物船から海に飛び込んだ生存者たちは、助けを求めて潜水艦めざして泳いできます。
しかし、彼らを助ける物理的余裕など狭い潜水艦にはありません。
潜水艦は彼らを見捨てて後退します。
潜水艦のドイツ兵たちは、その残酷さに泣きだします。
それしか出来ないと分かっているのが、人間として耐えられなかったのです。

潜水艦の任務が敵の船を沈める事であっても、
何も敵という人間が憎いという訳ではないのです。
ただ、船という(物)を失くしてしまえばいいのです。
艦長が、そこに乗っているのが学童たちであると知っていたら、
やはり人としてそこまでしたくはなかったというのは、本心でしょう。



第二次世界大戦末期、
ドイツはかつて占領していたソ連領からドイツ兵や一般人を、
本国に帰国させる為に、グストロフ号といった大型客船や、
ゴヤ号といった貨物船に乗せられるだけ乗せて避難行動に入りました。
しかしソ連潜水艦からの魚雷攻撃を受けて、
グストロフ号は9300人、ゴヤ号は6000人という、
いずれも空前の大量死者を出して沈没しました。

それはアメリカ潜水艦艦長の「学童と分かっていたら攻撃しなかった」のとは違います。
ソ連はそれまで散々痛めつけられ酷い目に遭わされてきたドイツ人に深い恨みを持っていたのです。
この潜水艦による攻撃は、ソ連の陰湿で卑劣な復讐だったのです。


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鉄かぶとのお国柄

2023-07-24 18:49:01 | 軍事
第二次大戦の戦争映画を観ていると、
兵士たちが被っている鉄兜(ヘルメットと言うべきか)によって、
どこの国が戦っているかが、一目瞭然となります。





それが最も顕著なのが、シュタールヘルムと言われるドイツ軍のヘルメットです。
「おかっぱ頭」と陰口を叩かれる、その独特なスタイルを見れば、
一発でドイツ軍が出てくる映画と分かります。



ドイツはプロイセン王国時代から、と言いますからかなり昔から、
ピッケルハウベと言われるヘルメットを使っていました。
しかし塹壕戦でピッケルハウベは革製なので、砲弾の破片などから頭部を護る事ができず、
頭頂部の金属製スパイクが遠距離から目立って狙撃の標的になりやすいなど、
近代戦の戦場に不向きである事が判明したので、
1916年から、シュタールヘルムに替わっていきました。

ドイツ軍に対抗して登場するのは、殆どがイギリス軍です。





ドイツ軍が(おかっぱ頭)なら、
イギリス軍のヘルメットはまるで(お鍋のフタ)みたいな、
お世辞にもカッコイイとは言えないスタイルですね。
こんな真横が剥き出しのヘルメットで果たして頭部を護れたのでしょうか?

最も一般的なのはやはりアメリカ軍のヘルメットかもしれません。







というか、戦争映画はそれだけアメリカ映画が多いからなのかも知れません。
日本の自衛隊も、この形のヘルメットを採用してますね。



では、日本軍はというと、これ。
左右対象で、あまり面白味の無い、あまりカッコ良くないスタイルです。
私のオヤジ、陸軍砲兵隊少尉の父親もこれを被って、威張りくさっていました。
子供の頃、父親が戦地から持ち帰った物だったのか、この鉄兜が我が家にありました。



また、こんな帽子もあったんですよ。
あれはきっと、進駐軍で働いていたおばさんが持ち込んだ物だったんじゃないかな。



それどころか、こんな防毒マスクもあったんです。

あれやこれや、現在それらが我が家に残っていたら、面白かったのにね。
メルカリ辺りでいい値段で買い取ってくれたかもね・・・


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第二次大戦、影の立役者ジープ

2023-07-03 09:35:19 | 軍事


第二次大戦で、アメリカを勝利者にした影の立役者に、ジープの存在があります。
この小型軍用車両は、極めて頑丈に造られ、簡単な構造で、いかにも量産向けでした。
50馬力のエンジンを載せ、四輪駆動で高い不整地踏破能力がありました。
しかも大変に運転がしやすく、アメリカ軍は勿論、西側諸国で広く重用されました。

連絡、偵察、輸送、そして機関銃を装備した攻撃、
助手席をつぶして担架を置いた救急用。
貨物トレーラーの牽引と大活躍したのです。
その生産台数は64万台に達しました。

枢軸側にもこの種の軍用車は存在しました。



ドイツ軍の、キューベルワーゲン。
24馬力、5,2万台生産。しかしこれは4駆ではなく2駆でした。



日本軍の、くろがね四起。4駆。
25馬力、5500台生産。

まず生産台数が桁違いで、馬力はジープの半分ですから、
踏破能力で大きく劣ります。
しかし大戦を勝利に導いたのが、名高い兵器などではなく、
あまりその存在を意識した事のない、軍用車両だったのは、紛れもない事実でした。

第二次大戦後の朝鮮戦争でも、ジープは大きな存在で使われ続けました。
そして今でも、そのスタイルの愛好者は世界中に存在します。



私は若い頃、横浜のある飼料運搬の運送会社から頼まれ、
アルバイト仕事をジープでした事があります。
その会社は飼料を大型ダンプで運ぶ事をしていた運送会社でしたが、
なぜジープが在るのかというと、エンストした大型ダンプを牽引する為だったそうです。
ジープという4駆車は、総重量20トンにもなる大型ダンプを牽引できるパワーがあるそうなんです。

バイト仕事というのは、ジープに積める飼料、
セメント袋みたいなのを5個くらい、浜松まで運ぶ仕事でした。
まさかセメント袋5個程度を大型ダンプでという訳にもいきませんからね~。

しかし、屋根もドアも無い、身体の横には落ちない様に、鉄のバーがあるだけ。
クッションの悪いジープで東名高速を走るのは、かなり危険だし、疲れました。
休憩にサービスエリアに入り、食事などして車へ戻って来たら、・・驚きました。
私の乗って来たジープの周りに人だかりがしてたのです。
その頃はジープはかなり珍しがれらた存在だったのですね。
若い私はとっても恥ずかしかったのを覚えています。





ジープから始まった三菱の4駆は、
その後、様々な紆余曲折を経て発展し、後の4駆ブームへとなって行きました。
それもこれも、元はと言えば、アメリカ軍のジープからだったんですね。



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