私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

日本の諸国諸州の皇帝陛下

2011-09-08 14:27:00 | Weblog
 浦川に着いたビスカイノは、早速「日本の諸国諸州の皇帝陛下」と云う司令官の書簡を江戸に入る徳川家康と秀忠に送っています。
 
 家康に送っているのは、
 「三月二十二日に新イスパニアのアカプリコ港一六一一年六月十日にアカプルコ港出発の船にて直航して本日即ち一六一一年六月十日土曜日当浦川の港に安着せることを陛下に報告す。」
 此の外この書簡には、この航海の目的として
 ・イスパニア国王陛下の朱印状を貰てきていること 
 ・太平洋で遭難していた日本人の送還
 など書き、又、秀忠宛てたものには、此の外、イスパニアからお土産として持参した物を呈したいので、
 「宮城に至る許可を与えられんことを懇請し殿下の命を待つ」  

 此の二人への書簡の最後の部分には 
 「我等が主が殿下の寿を長じ領国を弥々増加し給はんことを祈る。」
 と。

 随分と鄭重なる挨拶だと思われます。アジアの片隅にあるちっぽけな野蛮な国の皇帝に対する幾分と見下げた卑下した書簡では無いように思われます。 
 ヨーロッパから見て地球の極東と云う邊境地にあった当時の日本に対して、他のアシアの国々とは聊か違った、何かそこに、ヨーロッパと同じような何か高い文化の香りが漂っているように感じたのではないでしょうか。だから、その態度にも何か特別なて、他のアジアの人々とは違った一目置かれた存在であったのではないでしょうか。
 
 なお、この書簡の最初に書いてある「諸国諸州の皇帝陛下」は、何か随分面白い言葉だなとは思いませんか。この書館は1611年のことです。江戸幕府が誕生して数年しか経過してない時代です。「幕府」と云う日本独特の組織が理解できなかったのではないでしょうか。決して、国王ではありません。その辺りの事情は読めなかったのだと思われますが、兎に角、国王でなく、日本を統治している人と云う意味で「皇帝」と言ったのだと思います。「将軍」の位は、ヨーロッパでは、統治する権限等一切ありません。軍を統率する個人なのです。政治組織に入る事すらできないような人でしたので、何か。敢て、「将軍」と云う呼び方をすれば礼を失するのでなないかと考えたので、こんな日本では馴染みのない名称を使用したのではないでしょうか。 


 是も日本に対する敬意を表す方法であると考えたからではないでしょうか?????????????

浦川に着く

2011-09-07 19:45:50 | Weblog
 六月十日漸くにして目的地に到着したのです。ビスカイノ達の船から、到着を祝う大砲が撃たれます。その音を聞いた陸上にいた日本人が、その音をいかに聞いたか迄は書いてありませんが、

 「同夜夜八時我等入港せしめたり。此時船に多数の燈を掲げたれば陸上の人特にキリシタン等は大いに満悦し・・・」と書かれています。此の水戸藩に、当時、既に、キリシタンがいたかどうかは分からないのですが、是も推測の域を出ないのですが、大きな船の至る所にある灯を付けたのです。あたかも花火を見るような美しさだったのではないでしょうか。だからこれを見学していた大勢の人々感嘆の声を上げたのではないかと思われます。余りの嬉しがりようでその嬉しがりをキリシタンの信者と勘違いしたのだろうと思うのですが????

 浦川の港に着いた司令官は、早速使いを江戸にいる日本の皇帝とその皇太子に向けて送り出します。徳川家康と徳川秀忠にです。

 なお、船が浦川の港に着いた時にその船を出迎えたのは向井兵庫頭正綱と云う人です。この人は幕府の御座船・国一丸を預かり、将軍徳川家康を送迎する御召船奉行という特別職に就いていました。この人が出迎えたと云うことは、此の船を、幕府を代表として、イスパニア国王からの使節を公式に迎え入れると云う儀式を意味します。慶長十六年(1611年)まだ、江戸幕府が鎖国政策を敷く前のことです。僅かばかりの期間でしたが、日本とイスパニアの蜜月時代でもあった、知られざる、これも、また、日本歴史の1ページなのです。

 

午前と午後

2011-09-06 12:32:59 | Weblog
 イスパニアの船に乗って来た四人日本人に
 「此地は何処にして何人の領地なるか尋ねしに久慈浜と称し、其領主は皇帝の末子なりと言へり。彼は生存せるか此地は平和なるかと尋ねしに、然りと言へり」
 と、船の司令官は尋ねます。そしてその返答から
 彼らが漂着した所は、水戸藩内の久慈浜という所で、そこの領主は家康の末子徳川頼房であった事が分かります。
 更に、彼らは、自分たちが乗って来たこの船を安全に停泊させることが出来る港が、この近くにあるかと聞きます。すると彼ら四人は、
 「ここから40レグワの所に浦川、そこより25レグワの所にウナカミ、15レグワにシラカと云う港がある
 と、教えます。なお、この1レグワと云うのは大体5km程度の距離を言うのだそうです。
 これ等の港は何れも銚子港に近い太平洋岸にある港だそうです。シラカと云う港は「白潟」ではないかと思われます。

 その事を聞いた司令官は、乗り込んで来た4人の内2人に、浦川の港にまで行く水先案内を頼みます。報酬を与えるとも言ったのですが、4人ともそれを拒否して、乗って来た自分たちの小舟に乗り移って逃げるようにして帰ったのです。仕方ないので、司令官はその内の一番この近くの海岸を知っていそうな者一人を捕えて、よく諭して案内をさせます。他の3人の日本人が小舟で帰るのを見て、彼は「甚だ悲しみて泣きたり」と記しています。それを見て此の司令官は、彼に対して、港に舟が着き次第直ぐ国に返すからと約束します。

 そのようにしてようやく日本人がよいと云う港(この港の事を「江戸の市より来る河流入し多数の舟河を航せり」と説明しています。多分、銚子港では?)に着きますが、天侯具合がよかったので、一気に目的地の浦川まで航海します。そして、ようやく六月十日午後五時にその港へ到着するのです。

 なお、この港に着いた時
 この日のビスカイノの日記には「午後五時」と書いてあります。すると、昨日の「昼の九時」の記事と違い、やっぱり午前、午後と云う言葉は当時も使っていたのでしょう。この後の彼の文章の中にも「午後四時」とか「同夜八時」と云う字も見えます。そうすると、この「朝、昼」や「午前、午後」と云う言葉は、その時々で、このビスカイノが、適当に使い分けていたことが分かります。だから、「午前、午後」と云う時を区別する言葉が当時はなかったのではないか、と云う私の指摘は、完全なる早とちりでした。ここに謹んで訂正させていただきます。 

フネアス

2011-09-05 18:37:41 | Weblog
 その翌日になります。六月九日です。どうしてかは分からないのですが、ビスカイノは「昼の九時」と、その時刻を記しています。当時の時計は24時間制ではなく、12時間を使っていたのでしょう。当然、「午前」「午後」と云う言葉も使っていはいなかったのでしょう、「昼の9時」という表現が残されています。
 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、ビスカイノはこの報告の中に「フネアス船側に来り」と書いています。この「フネアス」という言葉も、亦、言葉そのものだけからだと、何のことかよく分からないのですが、前後の文章から、翻訳した村上直次郎は、随分と迷ったのではないかと思いますが、「フネアス」を「フネハッソウ」、即ち、「舟8艘」と云う意味だという日本語に解いたのだと思います。

 流れついた船が一体「何国人なるかさぐらんとせり」。これが近づいてきた日本の舟の目的だったのです。でも、その船に田中勝介などの日本人がいるのを見、そして、その言葉から、此の船の人たちが、特別、害を加えようとしているのではない事を知り安心したのだそうですが、その服装など今までに見たこともなく、船に乗り込んでまでその捜査をする事などは欲しなかったのでしょう。
 考えられるのは、最初舟8艘の舟で乗りこんで来たものは下級の者で、意思決定は出来ず、急遽、意思決定が出来る上級武士に登場を願ったのでしょう。一艘の舟が近づいてきます。
 それから、どう話が結実したのかは分からないのですが、兎に角、船上のスペイン人と話合ったのでしょう、その新たにこぎ寄せた舟から4人が(多分上級武士でしょう)、結局、此の船に上って来たのだそうです。そして、その4人に対して「司令官は葡萄酒及び砂糖漬を与えたり。此の品は彼等の最も喜ぶ物にして」と、記されております。

 始めて賞する珍しい物を食して、ある程度、精神的にも興奮しのではありましょうか、その口にした砂糖のほろあまさと、葡萄酒の芳醇さに酔いしれたのかも知れませんが大層喜んだと書いています。この「喜ぶ物にして」にしてと云う表記には、先進的な自分達の立場を強調して、相手方を随分と卑下した態度の現れれではないかと思われますが???。ヨーロッパにしか近代文明は存在してないと云うヨーロッパ人の超越した自惚れが、ここにも少なからず、現われているように思われますが??????

 この辺りの文を読んで、「文章は人の心だ」と、云われる所以が見え隠れしているのではありませんでしょうか。
 

岡山を台風12号直撃

2011-09-04 15:41:04 | Weblog
 超大型12号台風が吉備の地を、13年ぶりだそうですが、直撃しました。県下に相当の被害を与えたと新聞報道がありました。でも、私の住む高松地区では思ったより、その直撃の足跡はわずかだったようです。

 さて、ビスカイノ達が遭遇した颶(ぐ)の風によって、一時は、船への浸水が激しく、乗り組ん全員が「大いなる恐怖と心痛を惹起せり」だったのですが。神の御加護があったのでしょう、天気が回復して、沈没という最悪の事態は免れたのです。さらに、破損した場所も見つかり、その応急の修理をして事なきを得たのです。
 此の船は、その後、再び、颶風にも会ったり、食料も乏しくなったりもしながら危険すれすれの航海を続けます。
 三月七日にアカプルコを出発して、このような生死ぎりぎりの線上さまよい歩むような危険な目に度々合いながら航海をしていました。六月八日になって、漸く、何処かに島影はと見張っていた船長の頭に、洋上を飛来していた一匹の鳥が止まったのです。鳥が飛んでいるのは島が近くにあると云うことです。船員たちは小躍りして喜びます。
 「此事は諸人に遥に大なる喜を与えたり」
 その時、司令官は北西に陸を発見します。その時の日本人の様子についても書いてあります。

 「殊に日本人等は狂せるが如く彼らの習慣に従ひて喜を発表せり」と。

 狂っているように喜びを表したのだそうですが、その「彼らの習慣」が如何なるものであったかは分かりません。多分小躍りして、中には、故郷の踊りでも舞ったのではないかと思われます。その仕種が面白かったのでしょうか、わざわざ書きとめております。そのようにして三カ月ぶりに船を、陸地に近づけ、海上に停泊させます。
 その船を見た陸の人達は沢山火を点し、また、船でも灯りを掲げます。

「颶の風」台風十二号

2011-09-03 09:29:44 | Weblog
 昔の本を見ておりますと、時々、今までに一度も目にしたことのないような「これっていったい何」という大変難しい漢字にでくわし、随分と手惑うことがあります。 
 
 この金銀島探検報告と云う本の中にも、そのような漢字があります。「颶」と云う字がそれです。
 何と読むのかお分かりでしょうか。
 辞書によりますと、「ぐ」と読み、その意味は「つむじかぜ」と云う意味だそうです。そして「颶風」と云う熟語になると、暴風と云う意味になります。日本で言う「台風」のことだそうです。なお、此の他、この暴風を表す漢字には「颱」「颮」等と云う漢字もあるようですが、この「颶」は、その内でも、特に大きい暴風を(秒速30m以上の暴風)表す時に使われるのです。
 これらの漢字を見て居りませと、これらの漢字を発見した中国人の偉大さが、今更のように感じられます。


 今、九月二日、午前十一時ですが、この吉備地方には、“台風12号が直撃か”と暴風警報が発令されています。しかし、外に目を転じれば、特にそんなに大きな台風がこの地を伺っているような気配は感じられません。唯、周りの木々のざわめきによって、台風が近寄っているのかなと云うぐらいにしか感じられませんが。でも、テレビのニュースよりますと、この台風十二号は超大型だと云われています。そうすると、この「颶」の風に違いはありません。

   一寸、漢字の御稽古で、失礼しました。


 なお、このビスカイノの報告によりますと、1611年3月27日の記録です。
 「二十七日金曜日に至り夜の十二時に颶風起り、南東の風に依り雨強く浪高く、翌二十八日土曜日日没まで継続せり。而して浪高きが為め船は大檣に近き楔の邊にはそんを生じ、浸水甚だしくポンプを用いるも救済すること能はざりき。此事は大なる恐怖と心痛を惹起せり。・・・・・・」
 
 と、書いてあります。

金銀島への探検

2011-09-01 10:02:49 | Weblog
 1611年3月19日に、メキシコのアカプルコから日本に向って、ビスカイノの船は出発します。その時、この船には、太平洋上で遭難なしていて、救助していた日本人を本国に送還させるために乗せておりました。

 なお、この航行の最中に、イスパニア船員と日本人との間に、食事の事で暴力に訴える争いが起ります。それを見たビスカイノは直ちに「両者は衝突し論争すべからず」と命令を発します。

 「若し争う者あらば之を調査し、船首の帆桁に吊して絞殺し」

 と、忠告を与えたそうです。その結果は、
 「是に於て、日本人等は大いに怖をなして手を収め其傲慢を抑へたれば羊よりも温和となりたり」だそうです。

 「特に首領(田中勝介)は身分があり大に尊敬されたる日本人なりしが故に、全航海中少しも迷惑を掛けず」
 とありす。又、彼の話しでは「日本の皇帝もイスパニア人を歓迎厚遇せる」とのこと。大いに喜んで航海したと、この報告書には書かれています。