私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

午前と午後

2011-09-06 12:32:59 | Weblog
 イスパニアの船に乗って来た四人日本人に
 「此地は何処にして何人の領地なるか尋ねしに久慈浜と称し、其領主は皇帝の末子なりと言へり。彼は生存せるか此地は平和なるかと尋ねしに、然りと言へり」
 と、船の司令官は尋ねます。そしてその返答から
 彼らが漂着した所は、水戸藩内の久慈浜という所で、そこの領主は家康の末子徳川頼房であった事が分かります。
 更に、彼らは、自分たちが乗って来たこの船を安全に停泊させることが出来る港が、この近くにあるかと聞きます。すると彼ら四人は、
 「ここから40レグワの所に浦川、そこより25レグワの所にウナカミ、15レグワにシラカと云う港がある
 と、教えます。なお、この1レグワと云うのは大体5km程度の距離を言うのだそうです。
 これ等の港は何れも銚子港に近い太平洋岸にある港だそうです。シラカと云う港は「白潟」ではないかと思われます。

 その事を聞いた司令官は、乗り込んで来た4人の内2人に、浦川の港にまで行く水先案内を頼みます。報酬を与えるとも言ったのですが、4人ともそれを拒否して、乗って来た自分たちの小舟に乗り移って逃げるようにして帰ったのです。仕方ないので、司令官はその内の一番この近くの海岸を知っていそうな者一人を捕えて、よく諭して案内をさせます。他の3人の日本人が小舟で帰るのを見て、彼は「甚だ悲しみて泣きたり」と記しています。それを見て此の司令官は、彼に対して、港に舟が着き次第直ぐ国に返すからと約束します。

 そのようにしてようやく日本人がよいと云う港(この港の事を「江戸の市より来る河流入し多数の舟河を航せり」と説明しています。多分、銚子港では?)に着きますが、天侯具合がよかったので、一気に目的地の浦川まで航海します。そして、ようやく六月十日午後五時にその港へ到着するのです。

 なお、この港に着いた時
 この日のビスカイノの日記には「午後五時」と書いてあります。すると、昨日の「昼の九時」の記事と違い、やっぱり午前、午後と云う言葉は当時も使っていたのでしょう。この後の彼の文章の中にも「午後四時」とか「同夜八時」と云う字も見えます。そうすると、この「朝、昼」や「午前、午後」と云う言葉は、その時々で、このビスカイノが、適当に使い分けていたことが分かります。だから、「午前、午後」と云う時を区別する言葉が当時はなかったのではないか、と云う私の指摘は、完全なる早とちりでした。ここに謹んで訂正させていただきます。