私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

大伯皇女と吉備

2011-02-01 11:53:52 | Weblog

 わたつみの 豊旗雲に 入日射し 
                          今夜の月夜 きよらけくこそ

 と、中大兄が歌った場所は、吉備の穴海でなければと書いて、その時の大伯皇女の親でもあるとしたのですが、それは私の完全なる思い違いでした。例の筆敬氏も、ご指摘くださいませんでしたが、今朝、この文を読み直してみると、どうしてかはわからないのですが、皇女の「親」が中大兄であるように書いていました。
 でも、本当の父親は、中大兄ではありません、その弟君の大海人皇子です。母は中大兄の娘、大田皇女でした。ここら辺り誠に入り組んでいて分かりずらく、現代の我々の生活から考えると、とんでもない事のように思われるのですが、そんなことがごく自然に社会風習として行われていたと言われるのです

 これも余分ですが、この大田皇女の墓ではというのが、つい最近、斉明天皇の墓の前から発見されたと伝えられました。いかに、時の天皇斎明帝が、その孫娘大田皇女を愛していられたか分かります。
 
 その大海人皇子の皇女として生まれたのが、というより、斉明天皇の孫娘大田皇女の皇女としてお生まれになったのが大伯皇女です。その斉明天皇が、既に、新羅によって滅ぼされていた(660)く百済〉の国を再び起こそうとされて、大和から朝鮮に出兵するために大船団を組んで瀬戸内海を航行していた時なのです。
 中大兄の「わだつみの」という歌が詠われる前日、備前の大伯郡(現在の瀬戸内市で旧邑久郡です)の海上で誕生されたのが大伯皇女なのです。その為に、この皇女の名が、<おおく>「大伯」と付けられたと伝えております。
 その大田皇女のお子様です。父として、又、皇太子として、中大兄が、母の為に、我が孫娘の為に最大の祝福する歌をお詠みになるのが当たりまえだと思います。中西先生が云われるように、戦いに勝つぞという強い意思の現われでは、決して、なかったのだと思われます。清く明るい女性にと思われて、我が子と、更に弟に対する御祝いの御歌として、声高らかに船上で歌い上げられた歌ではなかったのかと思われます。

 ここら辺りの解釈が、失礼に当たるのかもしれませんが、中西先生の解釈とは、月とすっぽんのように思われるのです。
 
 なお、萬葉集に書かれている、この歌の最後の4文字、「清明己曾」ですが、これをどう読ませるかで、古来から沢山な論争があった事も確かです。それぞれ多くの人からその読み方について、次のように読まれてきているようですが、その例を挙げておきます。

 ・サヤケカリ コソ  (中西進・大岡信)
 ・アキラケク コソ  (土屋文明)
 ・キヨクアカリ コソ (武田祐吉)
 ・スミアカク コソ  (久松潜一)
 ・キヨラケク コソ  (山本健吉・中西進)

 なお、契沖の万葉集代匠記では、「スミ アカク コソ」とルビを振っています。