私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

 「逃下本国」について

2011-02-08 11:58:15 | Weblog

 筆敬氏から又もメールです。

 「おめえがけえておるように、黒日売は、その父親の差し向けた船で帰国したのじゃありゃあへんぞ。かんげえてみねえ」
 と、そのわけが書いてあります。彼曰く、

 古事記には、「然畏其大后之嫉(しかれども そのおほぎさきの ねたますをかしこみて)。逃下本国(もとつくにに にげくだりにき)」と書いてあります。要するに、黒日売は、石日売の激しい嫉妬を恐れて、大急ぎで、取るものも取り合えず逃げ帰ったはずです。そんなに父親の船が難波津に入ってくるのを、悠長に、待って居る暇なんかないはずです。一刻も早く大后のいる宮殿から逃げ出す必要があり、そんな切羽詰まった時、兎に角、港にいた西行きの船に飛び乗って帰国したのです。だから、大后の派遣した兵に、既に、海上に出ていた船にいたにも関わらず、すぐ黒日売は捕まるのです。

 「どうだ」と言われるのです。

 でも、こちらからも、「かんげえてみねえな」と、今度ばかりは、逆に、筆敬氏に言いたいのです。
 というのは、その黒日売が乗った船が港を出て行くのを仁徳天皇は、こっそりと見送っているのですよ。そうであるとするならば、その帰国については、天皇は、とっくにご存じの筈であったと思えます、天皇の思惑が、その出船には、相当含まれているように私には思えるのです。そうでなかったならば、宮殿の高台に上って、黒日売の出舟を見送ったりはできないと思います。いくら急いだとしても、そこら辺りはやはり天皇です。内密の策略は十分に整えて居ったのではないでしょうか。私は、黒日売は、父親の船で帰ったのだと信じています。吉備海部直です。吉備の海一帯を、いや瀬戸内一帯を支配していた海賊の棟梁だったのです。強力な勢力を備えていたこと疑いなしです。

 でも、黒日売の乗った船が、父親の船であったとしたら、どうして、黒日売は、そう易々と、大后石日売命に捕まって、船から降ろされて歩いて吉備の国まで帰る羽目になったのでしょうか。これもちょっと不思議ですね。その理由についても古事記には、何も書かれてはいません。

 この辺りの謎解きは、いまだかってした人はいないと聞いております。だから、敢て、私がそれに挑戦しようと思うのです。さて、此の結末は、如何になりますやら。


「摩佐豆古和芸毛」。この言葉にカチンと来た石日売命

2011-02-07 19:46:33 | Weblog

  話はとんでもない所に飛んでしまったのですが、もとの黒日売の話に戻ります。

 さて、仁徳天皇に見染められた黒日売は、その大后石日売命のあまりにも激しいその嫉妬を恐れて、大急ぎで吉備の国に船で逃げ帰ります。この黒日売は、前にも説明したのですが、吉備国海部直の娘でしたから、父に依頼してでしょうか船を難波津まで廻してもらい、それに乗って帰るのです。その黒日売を、仁徳は、宮殿の高台に上って人知れず見送るのです。よほど別れが切なかったのでしょうか、天皇は歌まで歌って別れを悲しまれるのです。その時に詠った歌の中に有るのが「摩佐豆古和芸毛」です。この言葉が我が背夫の口から発せられたのを聞いて、皇后である石日売(いわのひめ)は血が頭に上ります。
 
 「摩佐豆古」は「まさつこ」と読みます。これについて、宣長は古事記伝の中で詳しく説明していますが、それはちょいと省きますが、要するに、「わが愛しい愛するする顔も美しい心もきれいな日本一のかわいい、今、私が一番愛している黒日売よ」と、云うぐらいの意味らしいのです。そして、この歌の意味は
 「そんな素晴らしい愛し子が、私をここに置いておいて、どうしてそんなに急いで吉備の国へ帰るのか。一人ここに留まる私の気持ちを察してほしい。愛しい黒日売よ」
 と、云うぐらいになります。
 そのような歌を歌いながら天皇は黒日売の乗った船が難波津から出て行くのを侘びしく見送るのでした。

 天皇です。強引にでも、どうして引き留めなかったのという疑問も起りますが、大変な不思議な話ですよね。それほどの恐妻家の典型であったのかもしれませんね。また、此の話、仁徳天皇の業績の第2番目に出ているのですよ。これも驚くべき事柄であると思われるのですが。

 念のため、その歌は、
 「淤岐幣邇波 袁夫泥都羅々玖 久漏邪夜能 摩佐豆古和芸毛 玖邇幣玖陀良須」(おきへには をぶねつららく くろざきの まさづこわぎも くにへくだらす)と書かれています。

 


古代日本史のロマン

2011-02-06 19:57:15 | Weblog

 ちょっと、1週間ほど“ほっとらかして”おりました。が、また、お尻のほうがむずかゆく、ほっておくのもと、再びわたしのブログを再開します。

 まあ、今更ら言っても仕方がないのですが、本論はどこにあるのが迷路のような不思議な、本当に出鱈目なブロになってしまいました。これも、また、おもしろいのではないかと勝手に解釈して、「私の町 吉備津」を続けます。

 さて、又、今日ですが、朝日新聞に、中西進先生の「万葉こども塾」が出ています。(毎週日曜日に掲載されるのですから当り前の話ですが)

     三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さうべしや
 667年の天智天皇が都を、飛鳥から近江の国に移されます。その時に額田王が詠んだ歌です。中大兄が吉備の穴海で「わたつみの 豊旗雲に・・・・」と詠われた次の日に詠われた「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮も適ひぬ 今は漕ぎ出な」の作者なのです。

 この背景は、斎明天皇が、百済再興の為に朝鮮半島に挙兵しようと一大船団を組んで瀬戸内海を下って、九州の娜津に入らますれたます。しかし、天皇は、そこで崩御され(661年)、皇太子の中大兄が天皇になられ(天智天皇)ます。その後、この天智帝は、母斎明天皇の御遺志をついで朝鮮に出兵され、新羅と唐の連合軍に、白村江の戦いで、完完膚無きまでに敗れます(663年)。
 日本に逃げ帰った天智天皇は、その新羅・唐の連合軍が、今度は逆に日本を襲ってくるのではと思われ、その防塞のための城を瀬戸内各所に作らせます。当然、吉備の国にも設置させたものと思われるのですが、その記録がありません。大和朝廷が出費して作らせた出城は、日本書紀にその記録があるのですが、吉備の国にある、その時設置させたと思われる城については記録が有りません。吉備は、当時、まだ、それだけの国力を備えていたため、朝廷からの特別な援助無しで、独自で、その防御用の施設を作ったのだろうと云われています。

 それがあの「鬼城」なのです。

 その新羅・唐軍の襲撃を考えられ、万が一の備えの為ではないかと思われる遷都を天智帝は実行なさいます。飛鳥から都を滋賀に移されるのでした。その遷都の時に詠われたのが、今日出ている額田王の「三輪山を・・・」という歌なのです。だから、この歌も、また、吉備の国と幾分かは関係のある歌だと思えます。

 そんなんことを思い浮かべながら、当時の日本の人々の思いは、いや、吉備の国の人の思いはいかばかりならんと、今朝の新聞を読みました。恐ろしい外国の兵隊が近いうちに押し寄せてくる、みんな警戒しなくてはならない、うかうかすると日本人は皆殺しになるのではないかという噂も、当然、人々の間には広まっていたと思われます。その未知なる恐ろしい外国人の襲来、それが温羅の鬼と結びついて後世になって、この物語は作られたのだと思われます。なお、この温羅の活躍する時代は紀元前220年ごろですから、二つの間には1000年程度の時間の差があります。

 なお、これも私の勝手なる思いですが、あの中大兄の「わだつみの 豊旗雲に 入り日射し 今夜の月夜 さやかけりこそ」と詠まれた時に見られた吉備の新山辺りの地形に留意なさった天皇があの場所に出城を設置するよう要望を出されたのではないかとも思っています。

 そんなんことを考えても吉備って面白い処だと思われませんか?????


大伯皇女と吉備

2011-02-01 11:53:52 | Weblog

 わたつみの 豊旗雲に 入日射し 
                          今夜の月夜 きよらけくこそ

 と、中大兄が歌った場所は、吉備の穴海でなければと書いて、その時の大伯皇女の親でもあるとしたのですが、それは私の完全なる思い違いでした。例の筆敬氏も、ご指摘くださいませんでしたが、今朝、この文を読み直してみると、どうしてかはわからないのですが、皇女の「親」が中大兄であるように書いていました。
 でも、本当の父親は、中大兄ではありません、その弟君の大海人皇子です。母は中大兄の娘、大田皇女でした。ここら辺り誠に入り組んでいて分かりずらく、現代の我々の生活から考えると、とんでもない事のように思われるのですが、そんなことがごく自然に社会風習として行われていたと言われるのです

 これも余分ですが、この大田皇女の墓ではというのが、つい最近、斉明天皇の墓の前から発見されたと伝えられました。いかに、時の天皇斎明帝が、その孫娘大田皇女を愛していられたか分かります。
 
 その大海人皇子の皇女として生まれたのが、というより、斉明天皇の孫娘大田皇女の皇女としてお生まれになったのが大伯皇女です。その斉明天皇が、既に、新羅によって滅ぼされていた(660)く百済〉の国を再び起こそうとされて、大和から朝鮮に出兵するために大船団を組んで瀬戸内海を航行していた時なのです。
 中大兄の「わだつみの」という歌が詠われる前日、備前の大伯郡(現在の瀬戸内市で旧邑久郡です)の海上で誕生されたのが大伯皇女なのです。その為に、この皇女の名が、<おおく>「大伯」と付けられたと伝えております。
 その大田皇女のお子様です。父として、又、皇太子として、中大兄が、母の為に、我が孫娘の為に最大の祝福する歌をお詠みになるのが当たりまえだと思います。中西先生が云われるように、戦いに勝つぞという強い意思の現われでは、決して、なかったのだと思われます。清く明るい女性にと思われて、我が子と、更に弟に対する御祝いの御歌として、声高らかに船上で歌い上げられた歌ではなかったのかと思われます。

 ここら辺りの解釈が、失礼に当たるのかもしれませんが、中西先生の解釈とは、月とすっぽんのように思われるのです。
 
 なお、萬葉集に書かれている、この歌の最後の4文字、「清明己曾」ですが、これをどう読ませるかで、古来から沢山な論争があった事も確かです。それぞれ多くの人からその読み方について、次のように読まれてきているようですが、その例を挙げておきます。

 ・サヤケカリ コソ  (中西進・大岡信)
 ・アキラケク コソ  (土屋文明)
 ・キヨクアカリ コソ (武田祐吉)
 ・スミアカク コソ  (久松潜一)
 ・キヨラケク コソ  (山本健吉・中西進)

 なお、契沖の万葉集代匠記では、「スミ アカク コソ」とルビを振っています。